黙涙recitativo
| 気付けなかった涙は、黙殺されて、そうして。
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始まりが綺麗なものだなんて、誰が決めた。
「リモーネパイが可愛い…」
パーチェは目を丸くして切り分けられたパイを見る。
「え、いっつもそんな感じだよ?」
それを聞いたフェリチータがこてんと首を傾げた。
「お嬢様用のを用意してみたんです」
それは、明らかなルカの混乱だった。
白いお皿にメレンゲたっぷりのリモーネパイ。それはいつものことだけれど、飴細工のリボンと粉砂糖で描かれた花、ミルクのジェラートが添えられていて、どこに出しても恥ずかしくない女の子が喜びそうなプレートが出来上がっている。
いつもならフェリチータの分だけだが、何故かパーチェの分まで用意されていた。
弟みたい、だった筈の幼なじみが妹になったのだから仕方はないと言えば仕方ないのだが。
「あの、ルカちゃん? 俺のお皿こんなに可愛くなくて良いよ?」
パーチェも戸惑っているのかルカを見るとそう言った。
「とりあえず食ってろ。そんで黙れ」
苦虫を噛み潰しながら、苦虫より苦いのではないのだろうかというエスプレッソを口に運んで、デビトが渋い顔をしている。
「食べよ? このジェラート、美味しいよ?」
フェリチータはフォークでジェラートを掬うと、パーチェの口元に持っていった。
目の前に食べ物があれば食べる。それがパーチェのモットーだ。
それに乗っ取り差し出されたジェラートを食べると。
「美味しい! ルカちゃん手作り?」
「もちろんです」
きっとこれが変化する前のパーチェであるならば、その日の懺悔はパーチェだろう。
だがしかし、フェリチータの隣に座るパーチェはあまりにも女の子で。
知らない筈なのに良く知っている、知っている筈なのに良く分からない女の子で。
フェリチータの行為が自然なものに見えてしまった。
リベルタとノヴァはどうして良いか分からず、何故かその場所でスクワット対決を始めてしまっている。
「デビト」
「あ?」
「ちょっと来い」
ジョーリィに呼ばれて顔をしかめるが、その後ろにダンテも控えている。
幹部長と相談役に呼ばれて立ち上がらないわけには行かない。
「デビト、デービト!」
「んだよ」
「これ、美味しい」
「あ?」
椅子から立ち上がりながら、パーチェの方を向くと、差し出されたのはフォークに乗ったジェラート。
何の気なしにそれを食べると、あまり甘くないそれは確かに美味しかった。
酸味と甘みのあるリモーネパイには良く合うだろう。
「ほら、これ飲め」
「デビトのは苦いんだけど…」
「んな甘ったるいもん食ってんだから、口直しにすりゃあ良いだろ」
飲みかけのエスプレッソをパーチェに押しつけて、その場から去ろうとすると。
「何だよ」
スクワットの途中で足を止めていたリベルタとノヴァの視線に気が付いた。
「いや、……何でもない」
「お、おう、何でもないぜ?」
二人のあからさまにおかしい行動に首を傾げながらも、デビトはジョーリィとダンテの方へ向かう。
二人は言えなかったのだ。
先日まで気にならなかったデビトとパーチェのやりとりが、こっぱずかしく見えたことを。
女の子のあーんに普通に対応するデビトと、エスプレッソが苦いと顔をしかめながらカップを受け取るパーチェ。
甘酸っぱくて直視できなかった、と後にダンテが言うまでそれは二人の秘密になった。
「どうだった?」
「何が」
暗い廊下。紫煙がゆっくりと立ち上る。
「パーチェだ。確認したんだろう?」
「何を」
「服を選びに行ったんだ。体の変化くらい確認したんだろう」
このすけべジジイ。そう言わなかっただけデビトは成長していた。
「んな面白くもなんもねぇもん見たってしょうがねぇだろう。フェデリカに任せた」
「そうか……てっきり、あの服はお前の趣味かと……」
ダンテの一言にデビトは「自分ってどう言う目で見られてたんだろう……」と疑問に思いつつも。
「パーチェに似合う服なんて分かる訳ねぇだろ。ちょっと前まで男だったヤツに似合う服があるかどうかもわかんねぇ」
「……役に立たないな」
「それで結構。テメェの役に気はさらさらねぇよ」
ジョーリィのパーチェへの興味は、純粋に研究対象してへの興味。その興味の暴走をデビトは嫌と言うほど知っている。
パーチェにこれ以上負荷はかけたくない。
「だがしかし、立派なお嬢さん、だな」
ダンテが困ったように笑ってそう言った。
「元々育ちの良さを伺わせるところはあったが、どこに出しても恥ずかしくないお嬢さんになってしまって……」
悔いているのか喜んでいるのか、平坦な言葉の中に感情が読みとれない。
「なあ、ダンテ」
「何だ?」
「あの状態でも、あいつは棍棒の幹部か?」
「……どう言う意味だ?」
デビトは己の中から言葉を探す。
自分の中の焦燥を悟られぬように、出来るだけありふれた言葉を。
「あの外見で、棍棒の仕事が務まるかって聞いてんだよ」
同じ女性が幹部でも剣とは違う。
剣の仕事は調停で、その上他のコートカード達も幹部が女性だと認識している。
だが、棍棒の仕事は監査で見回りと言う名の厄ごとを力でねじ伏せる仕事だ。コートカード達も豪快な人間が多い。
そんな場所で、あの外見のパーチェが役に立つのか。
本音を隠してそう言ったつもりだった。
そんなデビトを見たジョーリィは、ふ、と紫煙を吐き出すと。
「大事なら、囲っておけ」
「は?」
「お前の事だ。パーチェが妙な事に絡まれる事を恐れてるんだろう?」
「な……」
「あれは、お前が思っているより強い。お前より余程、な」
「ジョーリィ、よせ」
ダンテの制止を聞かず。
「お前が耐えてきた苦しみを、お前が抱えきれずに放り出した苦しみを、一人で抱え込んで耐えたんだからな」
ずきり、と右目の眼窩が痛む。
「痛んだのはお前だけだと思っていたのか?」
にやり、とジョーリィは口の端を上げた。
「……どう言う事だ?」
「さあな」
ジョーリィは核心を話すことはない。
分かっていて聞き返した自分が馬鹿だった。
デビトの舌打ちに満足して、ジョーリィは「情報が無いのなら用はない」と残してその場を立ち去る。
残されたダンテは視線を確実に泳がせていて。
「何か知ってんだろ?」
「いや、俺は、何も……」
「あんたが知らないわけねぇ。リベルタに全部ぶちまけるぞ」
脅迫は手段であり、別段問題はない。
リベルタの名前を出されると、ダンテは唸ってから。
「……まだ、お前達にタロッコを植え付けた時は、痛みを止める方法が確率していなくてな……」
「だろうな」
「特にお前のは酷かった」
「……、で?」
「僅かにあるジョーリィが作った痛み止めは、全部お前に使っていたんだ」
「それで、あのレベルか。随分と使えない薬だな」
肩を竦めるデビトの背をぽんと叩くと。
「それでも、その分だけお前の痛みは少なくなった筈なんだ」
ジョーリィ! 俺の分、デビトに使って!
昔の声がよみがえる。
今のパーチェの声は、声変わりする前のものに良く似ている。
俺ね、平気だから! だから、デビトに使って!
あの頃から、自分を犠牲にする事に長けていたのかもしれない。
自分に与えられたものを受け入れる事に慣れていたのかもしれない。
「……これで、察してくれ」
ぽんぽん、とデビトの背中を軽く叩くとダンテは「歳だな……」と呟いて廊下の奥に消えた。
「………、」
ジョーリィの笑みと、ダンテの顔。
それは、デビトにとって屈辱的なものでしかなかった。
聞かなければ良かった?
いや、知る事が罪になるように、知らない事もまた罪になる。
デビト、私たちがいますからね。
デビト、ごめん……
痛みで朦朧とする意識の中で、見ていたのは悲しげな顔。
どうして自分だけがこんなにも辛い思いをしなければならないのかと、二人の顔を睨みつけたこともある。
タロッコと相性が良かったからと言って、痛みがないとは限らない。
近いうちにルカに聞くしかない。
パーチェは、それが想像を絶する痛みであっても、へらりと笑って否定する。
あれは、そう言う生き物だ。
ずっと、あいつに救われていたのか。
本当なら、棍棒の幹部なんてやめてしまえ。
そう言ってしまいたい。
フェデリカの言う通り、妙な人間が絡んで来ないとは限らないし、何よりもう。
辛い目に遭わせたくない。
自分の命の期限と戦っただけで、十分だ。
男のままだったら、こんな事思わなかっただろう。
けれど、女になってしまったのなら、それがもう揺るがすことのない運命なら。
普通に幸せになってほしい。
そんなデビトの気持ちなんてパーチェは気付かないだろうけれど。
気付いても、否定するだろうけれど。
守るための力があるのなら、それを使う人間だから。
酒でも飲むか、と思った後。
「やめだ、やめ」
今日はどんな酒を飲んでも、眠れそうにない。
痛むのは、右目の眼窩。
そして、疼く様に心臓が脈打つ。
「……くそ……」
誰にも気付かれたくなくて、こんなみっともない自分など消してしまいたくて。
ゆっくりとくるぶしに触れると、ゆらりと空間に溶け込んだ。
「マンマ」
「お帰り、パーチェ」
全てが寝静まった頃、スミレの部屋を開けたパーチェにスミレはそう言った。
「頑張ったわね」
「俺、頑張ってないよ?」
「いらっしゃい」
スミレの手招きに、パーチェは首をこてんと傾げると側に行く。
そうすると、スミレはその手をパーチェの額に伸ばして。
「まだ、下がらないわね」
「フェデリカにも言われた。でも、これくらい……」
「これくらい、じゃないわ。この熱は内蔵の損傷によるものよ」
「え……」
痛みに強い子。
スミレのパーチェに対する印象はそれだった。
他人の痛みで簡単に傷つくのに、自分の痛みでは傷つかない子。
現に、どんな原理かは分からないが再生したパーチェの体は臓器が正常に働いていない。
損傷が激しいと言うべきか。
まだ、内蔵が完全な形になっていないのだ。
「こんなの、別に……」
「それは、誰かの痛みと天秤にかけての話?」
「え?」
「これは、誰も経験したことのない痛みよ。一度消失した内蔵が再生している途中の痛み。そんな経験、他の人にあると思う……?」
スミレの言葉にパーチェはやや戸惑って。
「でも、我慢できない事はないから。だから……」
大丈夫。
そう言って笑った。
――パーチェの悲鳴を聞いたことはない。
大丈夫。
そればかりを繰り返す子供。
俺は大丈夫だから、デビトに。
俺は大丈夫だから、マンマ。大丈夫だよ。
痛みを静かにこらえて、乗り越える子供。 痛みに鈍感になってしまった大人。
「マンマは心配性なんだよ。力は使えるし、それに……」
我が子に良く似た、子供。
無邪気な目で手を伸ばした、我が子。
甘えることを忘れたかのような我が子と、良く似た子供。
スミレはゆっくりとパーチェを抱きしめると。
「覚えていて、パーチェ。あなたの痛みを辛いと思う人がいることを。あなたの痛みが誰かの痛みになることを」
「マンマ……?」
どうして、このファミリーの女は歪つな形をしているのだろうか。
自分に、フェリチータ。そして、パーチェ。
完全な形を忘れてしまったのだろうか。
「……、ねえ、マンマ」
「何?」
「俺ね、この痛みが自分で良かったーって思うんだ」
「どうして……?」
「お嬢だったら、俺も泣いちゃうし。それに、もう……デビトみたいな事、嫌、だから」
「そうね……。あなたで良かったのかもしれないわね」
パーチェの目の端に浮かんだ涙は、痛みのものか、それとも過去の傷か。
どちらかは分からないけれど、ほろりと空間に溶ける。
私の娘は、この子を救えるかしら。
私の家族は、この子を救えるかしら。
あの、哀れな隠者は――この子を解放できるかしら。
そして、この子は私の娘を守れるかしら。
私の家族を守れるかしら。
哀れな隠者を守れるかしら。
たくさんの不安を隠すように、スミレは指先にうっすらと力を込めた。
始まりは、いつも。
大事な人の痛みと涙で幕が開く。
(痛みに鈍感なんて、そんなの嘘に決まってる)
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