驕りだった。
 守ることなんて出来るわけが無かった。
 自分は、弟で。
 守られている立場の人間だったのに。
 でもね。
 今までは守ることなんて出来なかったけど。
 この体で。
 この、冷たい金属の身体で。
 守って見せるから。



 だから、泣かないで。
 兄さん。



 笑って?





 【市場に行こう 最終章 未来を全部君にあげるから】






 エドは、ずっと黙ったままだった。
 アルが後ろにいる、と言うのは解っている筈なのに。
 ただ、ベッドの上で膝を抱えて。
 ふわふわと揺れる白いカーテンを見ている。
 …声なんて、かけられなかった。
 昨日、一晩、ずっとずっと考えていた。
 眠ることの無い鎧の身体で、ずっと。
 エドの過去に起きた事。
 母親が死んで間もない頃の、エドの姿。
 時折激しい過呼吸を起こし、意識を失う。
 ウィンリィが傍にいてくれなかったら、きっと、アルは何も出来なかっただろう。
 子供の時は、きっと母親をなくしたショックだったのだろう、と考えていた。
 ピナコがそんな風に言っていた気がする。
 幼い自分は、それを真に受けて信じていたのだろう。
 けれど、本当は。
 見も知らぬ軍人に強姦されていた。
 無理やりに押さえつけられ、足を開かされ。
 まだ受け入れられる状態には成長していない、その場所に、凶器に等しい男の生殖器を捻じ込まれたのだ。
 血が出ていた、と、思う。
 衣服はそこまで乱れていなかった。
 シャツのボタンは止まったままだったし、ズボンだって穿いていた。
 ただ、あの頃のエドは短めのズボンを穿いていたので、白い素足に。
 血の跡。
 自分の家だった。
 父親の書斎の真ん中、座り込んだエドとウィンリィ。
 泣き喚いてエドを抱き締めていたのは、ウィンリィ。
 エドは、ただ自分の身体に回されたウィンリィの腕を強く掴んで。
 黙っていた。 
 確か、あの時自分は。
 ピナコのお使いで、村の外れにある足の悪いおじいさんのところに届け物を持って行っていた。
 何があったのか、わからない。
 ただ、帰ったら二人がそんな風で。
 どうしたの?と繰り返すアルに、エドは最初ひどくこわばった顔で「気にするな」と言っていた。
 けれど。
 もしかしたら、自分は泣き出しそうだったのかもしれない。
 エドは、いつものように笑って。
 ウィンリィと自分を、抱き締めてくれた。
 その記憶は、近所の女性の記憶と重なって。
 同じ記憶になってしまっていたのだけれど。
 思い出して、ぞっと、した。
 知らなかったのは自分だけだ、と言う自責の念もあるけれど。
 それより、知らなくて良かったと思う気持ちの方が大きい。
 あの時自分が全てを悟っていたとしても、何も出来なかったはずだ。
 それに、そんな重い事実を受け止められていたかどうかすら怪しい。
 近所の女性の事件でさえ、犯人を憎いと思った。
 それなりに、女性が何をされたのか、と言う事は解っていた。
 強姦。
 何をどうする、と言う事は解らなかったけれど、それが女性にとって酷く辛くて怖くて…死んでしまいたいほど卑劣な犯罪だ、と言うことは。
 その自分に。
 エドが強姦された、などと言う事実を突きつけられていたら。
 ……あまり、考えたくは無かった。
 エドを、今以上に傷つけていた気がする。
 おそらく、誰よりも自分が「傷物」扱いした筈だ。
 女性を「傷物」と思い込んだように。
 がしゃ、と右手を上げてエドの身体に触れようとする。
 けれど、その手は中を泳いで、触れることなくそのまま下ろされた。
 ────「傷物」だと、思っている。
 男に強姦された、姉を傷物だと思っている。
 優しく接しなければ、壊れてしまうかもしれない。
 酷い言葉を投げかかれば、死んでしまうかもしれない。
 同情して庇護して。
 守らなければならないと、自分の中で誰かが言っている。
 それを、エドが望むだろうか。
 ……望む筈が無い。
 そんな人ではないと、たった14年の付き合いだがわかっている。
 だから、尚更に。
 いつもの強さを見せない、空気みたいなエドに。
 触れることなんて、出来なかった。
 きっと、大丈夫だよ、守ってあげるから……なんて滑稽な台詞を吐いてしまうから。
 傲慢な、台詞を。
 ……そっとしておこう。
 ベッドから離れ、その場所を去ろうとしたアルに。
「行くなよ……」
 柔らかな声音が、降り注いだ。
「兄、さん……」
 声らしい声ではなかった。
 がらんどうの鎧の中で響く、掠れた声。
「ごめんな、黙ってて」
「え?」
「強姦されたこと。黙ってて、ごめんな」
「……」
 エドは振り返ろうとはしなかった。
 その姿が、どこか遠い日の姿を思い出させる。
 右肩から指先までの機械鎧。
 左膝から下の機械鎧。
 それを覗けば。
 流れる肩より少し下まである、金糸の髪。
 ホークアイの厚意だろう、身体を締め付けることの無い真っ白なワンピースに身を包んで。
 昔、無邪気に。
 ウィンリィと戯れていた頃の、エドの姿に良く似ていた。
 その姿だから、尚更に。
 何も、言えなくなってしまう。
「…傷物だって自覚してれば、こんな事にはならなかったんだろうなぁ…」
 自嘲気味な声。
「リゼンブールの片隅でさ…自分は男に強姦されたからって、戒めてれば……母さんを生き返らせようとしなかっただろうし、お前だって……」
 鎧にはならなかった。
 そう、エドが言った瞬間。
 ────泣けない体が、ひどく疎ましく感じた。
 泣き叫びたかった。
 泣き喚きたかった。
 そんな事無い。
 何でそんな事言うの?
 どうして。
 どうして。
 どうして!
 ……でも、自分の身体はがらんどうな鎧で。
 涙なんて、出る筈も無かった。
 無いのに。
「アル………?」
 ふと、エドが振り返り。
 その手を、伸ばして。
 アルフォンスの無表情な鎧の面の頬に触れた。
「ごめんな……」
「………っ」
 声が出ない。
 言葉が思いつかない。 
 ただ、悲しいと、辛いと、痛いと。
 そんな感情だけが。
「ごめんな、アル……ごめんな……」
 エドが泣きそうな顔でそう言った。
「言えなかった……お前には、怖くて言えなかった……男に強姦されたなんて……」
 拒絶が、怖かった。
 傷物だと認識され、今までの姉弟でいられなくなることが怖かった。
「ごめんな……」
 こつん、とその額をアルの額につけて。
 エドは。
 泣いた。
「ごめんな……アル……ごめんな……」
 泣けないアルの分まで、泣いた。
 涙で顔をぐしゃぐしゃにして。
 昨日の夜、あれ程泣き叫んだと言うのに。
 涙は、まだ枯れていなかったらしい。
「兄さん……」
 がしゃ……。
 感覚など無いはずなのに、金属の両手がいやに重い。
 のろのろと両手を上げ、そっとエドの背中に回す。
 …小さかった。
 いつも以上に、抱き締めたエドの体は。
 小さくて、折れそうで。
 まだ、15歳の少女だった事を思い知らされる。
 自分だって、まだ14歳の子供で、世間など知らない人間なのに。
 守れるのか、と誰かが聞いた。
 こんなに重いものを背負った人を、守れるのか、と。
 小さな体で、罪を罰を痛みを堪えてきた人を。
 ちっぽけな金属の体が守れるのかと。
 それでも。
「………痛かった?」
 ぽつりと、アルは。
 がらんどうの鎧の中で静かに木霊するほど小さな声で、エドにそう言った。
「アル……?」
「……痛かった?」
 5年前のあの日。
 アルは、聞けなかったあの日の言葉を、今、聞いている。
「…痛かったよね、兄さん……」
「アル?」
「ごめんね……ボク、子供だったから、何もわかんなくて。兄さん困らせることしか出来なくてさ……」
 ぎゅ、と抱き締めている腕に力を込めて。
「でも、知らなくて、良かった。あの時、知ってたら、ボク、兄さんまで…死んじゃうんじゃないかと思って…兄さんとどう向き合ったらいいか解んなかったと思うから」
「………」
「それにね、今、鎧の体で良かったって初めて思った」
「……?」
「ボクは人の体じゃないから。男だけど、人の体じゃないから……兄さんの病気を悪化させる事もないし……こうやって、一緒にいることも出来る」
 だから。
「兄さん……あいつに、強姦されたって自分を追い詰めないでよ……」
「アル……」
「兄さんが悪いんじゃないよ?全部、全部あいつが悪いんだから!」
 悲鳴に近い、叫びだった。
「傷物だって戒めて、母さんを生き返らせようとしないで…あの村で隠れるように生きてる兄さんなんて兄さんじゃない!傷物でも何でも、強姦されてても……右腕と引き換えにボクを創ってくれたのが兄さんだよ!」


 ───いとおしいと、心が叫んだ。


 ぎゅ、とエドの手がアルの胸に押し付けられる。
「兄……さん?」
「……お前が……」
「え?」
「お前が、いてくれて……よか……った」
「兄さん?」
「アル……っ……ありが…とっ」
 一人じゃ、きっと抱えられなった。
 強姦されたことを引きずって、引きずって。
 生きる意味さえ失っていただろう。
 母親の練成など忘れて、死を選んでいただろう。
 そう、ならなかったのは。
 泣いてくれた、支えてくれた親友と。
 自分の傍にずっといてくれた、弟のお陰だった。
 自分にはまだやるべき事がある。
 強姦されたくらいで、人生を悲観している暇は無い、と。
 運良く自分の事件は表沙汰になる事は無く、今まで記憶の奥底にしまって置いたけれど。
 覚えのある男。
 一生忘れることは出来ない、あの男との再会が、呼び覚ましてしまった。
 あの時の、恐怖。
 迂闊だったと、思う。
 相手も軍属で、出会う確立が無いとは言い切れなかったなのに。
 それも、ロイ・マスタングの後輩でジャン・ハボックの友人と言う形で現れて。
 一瞬、足元が揺らいだ。
 揺らいで、病気を再発させ、その上自暴自棄になり。
 初めて自分の中の痛みを、人に吐露してしまった。
 自分を、傷物だと……認めてしまった。
 それなのに。
 それなのに、優しいがらんどうの鎧は。
 自分を傷物ではなく、「エドワード・エルリック」として認めてくれた。
 傷物のエドワード・エルリックではなく。
 エドワード・エルリックが傷物になっただけなのだと。
 いとおしいと、心が叫んだ。
 がらんどうの鎧でも、誰よりも優しい弟。
 自分が知り得る中で、一番優しい男。
 優しすぎて脆い、いとおしい存在。
 その冷たい鋼の胸に額を押し当てて、エドは瞬きを繰り返すと。
「………なあ、アル」
「何……兄さん?」
「お前は、ずっといてくれるか?」
「え…?」
「傷物で、しかも男性恐怖症何ていうけったいな肩書きがあるけどさ……」
「………」
「お前は、オレといてくれるか?」
 一人にしないでくれるか?
 一生とは言わない。
 ただ、足元が掬われなくなるまで。
 それまで、自分の傍に弟として。
「うん、いるよ……兄さんが大丈夫って言うまで。だから……」
 もう一人で、背負い込まないでね。
 アルは、小さく見えたエドの体をもう一度強く抱き締めて。
 自分の体が鋼である事に感謝した。





 浅はかだと思えるうちは大丈夫。
 驕り高ぶってはいない。
 自分の力量を見極めたら。
 出来ることは、ただ一つ。





 かなりの大騒ぎだ。
 ロイの執務室の扉を隔てて、尚、怒声や罵声が聞こえてくる。
 そんな扉の外の喧騒を無視して、ホークアイはすっとソファに座り込んだ。
「ハボック少尉。いつまでこんなところで落ち込んでいるつもり?」
「………」
 ホークアイの前には、テーブルを挟む形でハボックが座っている。
「ハボック少尉」
「………」
 何も言えない。
 何も言葉が出てこない。
 ハボックは、ただ、沈黙を守り通す。
「…一つ、尋ねます」
 その姿を見かねたホークアイは、じっとハボックを見て。
「今、貴方が考えているのは、カール・シェスター少佐の事?それとも……」
「中尉……」
 ホークアイの言葉に、ハボックは顔を上げた。
「あいつ、ホントにいいヤツだったんですよ……」
 ハボックが知り得る限り。
 温厚で、人当たりが良くて。
 自分が名家の出身だということも鼻にかけなくて。
 話も上手くて、遊び方も知っている。
 相手の意見も聞いて、尚且つ、自分の意見もきっちり持っていて。
 もし、ロイと出会わなければ。
 ロイ・マスタングの下で働かなければ。
 ……ハボックは、カールの下でなら働いてもいい、と思っていたほどに……信頼していた。
「それなのに……」
 悔やんでも悔やみきれなかった。
 何度も繰り返してた、婦女暴行。
 友達だと言っていたのに。
 親友だと言っていたのに。
 気付かなかった。
 否、気付いてやれなかった。
 その「病気」とも言える常軌を逸脱した犯行を。
 止めることさえ、出来なかった。
「…しょうがないわ。貴方達には隠してきたんでしょう……」
「…だけど、俺、は…」
 止めたかった。
 出来る事ならば。
「過去を嘆いても始まらないわ。止められなかったのは、貴方の過失であり、自分を見失ったのはシェスター少佐の過失。貴方は貴方の過失を悔いて、改めるしかないでしょう?」
「だけど!」
「確かに、貴方が止めていれば……エドワード君は被害にあわずに済んだでしょうね」
「!」
「自分を責めることは楽よ。それを認めるのもね。けれど、責めた所で過去は変わりはしない。あの子の傷は消えない。そうじゃないかしら?」
「…………」
「自分がシェスター少佐を止めてれば、なんて考えずに、シェスター少佐が何をして誰が傷ついて今どうなっているのか考えることが先決だと思うけれど?」
 刃物のようだ、とハボックは思う。
 ホークアイの言葉は、刃物のようにハボックの心に突き刺さった。
 そう、今考えるべきは。
 犯罪者だった友人の事ではなく。
 傷つけてしまった、一人の少女の明日。
 悔やむことならいくらでも出来る。
 嘆くことは簡単だ。
 怨むことも、憎むことも。
 自分を哀れだと思うことも。
 だが、傷つけてしまった人への言葉は……難しくて。
 どうすればいいのかなんて解らなかった。
「解らないんスよ……」
 ぐしゃり、と頭を掻いて。
「俺、どうしたらいいのか……」
「それは、自分の友人が彼女を傷つけたから?」
「違います!確かに、…あいつが強姦したってのも気後れであるけど…それより」
「それより?」
「あいつ、もう、俺見て笑ってくれないだろうな、って」
 やっと、笑ってくれるようになったのに。
 初めて出会った頃、酷い事をした。
 おそらく、誰よりも傷つけた。
 あの、兄弟を。
 ……それでも、あの二人は笑ってくれた。
 自分を慕ってくれた。
 少なからずとも、弟のように思っていたのに。
 いたのに。
「…あいつが女の子で、カールに乱暴されてて…俺は、信じてやらなくて………」
「…………」
「軍属とか云々より、何より守ってやらなきゃならなかったのに……」
「……そうね」
 守ってやらなければならなかった。
 大人として。
 前を向く子供達を。
 それなのに。
「あいつ、いつもあの調子だから……今回もきっと、別の事で怒ってるんだと思ってた……」
 まさか、被害者自身だったなんて。
「傷ついてないわけないんだよな……」
 ぽたり、とハボックの瞳から涙が落ちた。
「……ハボック少尉」
「ハイ……」
「一つだけ言っておくわ。エドワード君、シェスター少佐の事はすごく辛かったみたいだけれど、貴方や大佐の事は、一言も言わなかった」
「え?」
「一言もよ?自分を信じてくれなかった大人に非難の声なんて、あげなかったわ」
「……それって」
「考えて、ハボック少尉。……貴方や大佐のした事は許されないと思う。けれど、出来ることがある筈だから」





「お前は知らなかっただろうな」
 ロビーの椅子に腰掛けて、ヒューズは苦笑する。 
「そんなに、ひどかったのか?」
「ああ、あいつの場合はかなり酷い二面性だったよ。お前なんかに懐いてた時は人当たりの良い男の振りしてさ。自分より立場の弱い女を見ると、平気で罵って犯してめちゃくちゃにしてたらしい」
 それを止めなかった自分にも非はある。
 ヒューズは難しい顔でロイを見て、そう言った。
「まさか、こんなに被害者がいたとはな」
 ぱさり、とロイの前に置かれた数枚の紙。
 少なく見積もって20件以上。
 それ程の婦女暴行事件を、カール・シェスターは起こしていた。
「まあ…これだけ事件を起こしてても、あいつは多分死刑にはならんだろうが……」
「そうだな」
 カールの後ろ盾には、シェスター将軍と言う強い権力がある。
 揉み消すのは無理だとしても、内密に処理されるのは目に見えていた。
「なあ、ロイ」
「ん?」
「被害にあったのは、誰だ?」
 酷く真面目な顔で、ヒューズはロイを見る。
「ホークアイ中尉に電話は貰ったが、被害者については聞いていない」
「それ、は……」
 言えるわけは無い。
 ヒューズも、鋼の錬金術師を知っている。
 その鋼の錬金術師が、被害者などと。
 自分が言っていい台詞ではなかった。
「言えないのか?」
「……すまん」
「……全く、徹夜で調べてその足で可愛い娘に会うことも無く東方司令部まで来てやったって言うのに……」
「…………」
「ま、いいけどな。これ以上あいつに悪事を働かせるものなんだったから」
 ロイは、ひどく困った顔をしていたのだろう。
 ヒューズはけらけらと笑いながら、ロイの肩を叩いた。
「じゃ、俺はこれで帰るわ」
 かたん、と椅子から立ち上がって。
「せめて仮眠くらい……」
 早々に帰ろうとするヒューズをロイは呼び止める。
「俺は、これでも忙しい身なんだよ」
「なあ、ヒューズ」
「ん?」
「お前、自分の娘が強姦されたらどうする?」
「は……?」
「どうする?」
「どうするって、……相手がわかれば、殺しに行くな」
「相手が、自分の親しい人間で……やってない、と言ったら」
 俯いたまま、淡々と言葉を紡ぐロイ。
「……おいおい、ロイ……」
 ヒューズは髪を掻き揚げて、乾いたように笑うと。
「まさか、少女、とか言うオチはねぇだろうな、今回の被害者」
「……10歳の、子供だった」
「!」
「我々は、その子供の言葉を信じず、カールの言葉を信じた」
 懺悔、と言うのかもしれない。
 カールの逮捕でがやがやと煩い東方司令部のロビーで、ロイの言葉を聞く者はヒューズ以外には存在しなくて。
 ロイは、口を開いていた。
「ちょっと待て、あいつ、そんな子供にまで?」
「認めたよ。自分がやったとな」
 笑いながら。
 5年前、金髪の少女を無理やり犯したと。
 そう、言った。
「私は、カールの言葉を信じた……少女の言葉も聞かずにな。いや、認めたくはなかったのかもしれない。あいつが、犯罪者だと」
「ロイ……」
「しかし、カールは犯罪者だった……少女の方が正しかったんだ、ヒューズ」
 お前は、私を断罪するか?
 ロイは顔を上げて、ヒューズの顔を真っ直ぐに見るとそう言った。
「被害者の言葉、信じなかったのか?」
「ああ……」
「カールの言葉を信じて?」
「そうだ」
「被害者は、どうした?」
 加害者を信じた軍人。
 その、加害者により暴行された被害者は。
「壊れた、よ」
「!」
「……中尉がいなかったら、私達は……彼女を確実に完膚なきまでに壊していただろう」
「ロイ……」
「許してもらおうとは、思っていない。贖えない罪だ。彼女の言葉を信じず、疑った。……ただ、どうすれば……」
 あの子の傷が癒えるのか。
 ロイはそう言うと、再び口を閉ざした。
「罪だというなら、一生背負っていく。彼女にしたことが、彼女を傷つけ壊したことを一生、な。だが……背負っているだけでは、どうしようもないんだ。あの子には……」
「なあ、ロイ」
 あまりにも追い詰めた表情のロイを目の当たりにして、ヒューズは再びその場に腰を下ろす。
「お前、被害者と知り合いだったろ」
「何故?」
「おまえさん、今、あの子って言っただろうが。あの子。子供でも被害者でも少女でも彼女でもなく、お前は特定の個人をさしてあの子って言った。違うか?」
「…………」
「大当たり、ってとこだな…」
 今までヒューズの中でばらばらだったパズルが、徐々に形を形成されていく。
 昨日の夜、ホークアイから電話を貰った。
 カール・シェスターの扱った事件を調べて欲しい、と。
 士官学校時代からロイと友人だったヒューズなら、カールを知っている筈だ、と。
 ホークアイにどうしたのか、と尋ねると。
 婦女暴行事件が明るみになり、その犯人として一番怪しいのがカール・シェスターだと、ホークアイは冷静な声でそう言っていた。
 これが、ロイからの電話だと言うのなら、ヒューズは納得できただろう。
 それが、ロイの腹心である女性で。
 しかも、被害者の名前を告げようともしないとなれば。
 その上、書類を持って尋ねてみれば、親友はこれ以上ないくらい落ち込んでいて。
 決まり手のような、さっきの告白。
 顔見知り、と考えるのが一番妥当な線だった。
「お前…俺が、エリシアがそう言う目にあったらどうするって聞いたよな」
 こくり、とロイは無言で頷く。
「俺は、間違いなく草の根を分けてでも犯人を捜してそいつを殺す。たとえそれが、お前だとしてもだ、ロイ」
 自分の娘が暴行されたとなれば。
 犯人が親友で、たとえやってない、と言っても。
「自分の娘の言ってる事を信じられないで、何が父親だ。親友?そんなの関係ない。傷ついているのはどう見ても、娘の方だろうが」
 嘘をつく子供でない、とわかっているなら尚更に。
「…………」
「ロイ」
「…………」
「ロイ」
「…………」
「ロイ!」
 ぐい、とヒューズはロイの胸倉を掴む。
「お前は馬鹿だよ!何であいつの言うこと信じて被害者の言うこと信じてやらなかった!女の子だろう!例え間違ってたって、そう言う事を認めて吐き出すのがどれだけ辛いか考えてやら無かったのか!」
 そう、女の子。
 被害にあったのは、たった10歳の。
 どうして、あの時の自分は。
 全てをイコールで繋げなかったのか。
 忘れていた。
 懸念していた。
 あの子が強い子だと、思っていた。
 多少の言葉にも糾弾にも動じない、揺ぎ無い意思を持っていた子供だと。
 だから。
 あの時、壊れたことに。
 過呼吸を引き起こし、床に倒れんばかりの状態だった……鋼の錬金術師に。
 確かに認めたけれど。
 あの子供の体に起きた、忌わしい事件を認めたけれど。
 それを、カールとは結びつけられなかった。
 何故か、と問われれば、ただ一言。
 自分が、浅はかだった、としか言いようが無かった。
 それ以外に何が言える?
 女だと認めなかった。
 強姦されたといった少女に、冗談はよせ、とまで言った。
 上半身を裸にさせ、その未熟な乳房を。
 確かにこの目で見た。
 強姦された、傷物です。
 その男に乱暴されて、傷物になりました。
 だから、その男を裁いてください。
 そう体全身で訴えた少女に。
 何も、出来なった。
 信じてやることさえも。
「あの子は、許してくれないだろう」
「当たり前だ!」
「それでも!」
 ぐ、と今度はロイはヒューズの胸倉を掴んで。
「あの子に幸せになって欲しいと願うのは、間違っているのか!」
「……ロイ……」
「私は、どうしようもない人間だ!あの子のいうことを信じず曲解して、最後の最後まで信じてやらなかった!真実だと解っても……今更、どうしてやることも出来ない!だが……」
 あの子の。
 あの子達の。
 幸せを願った気持ちに嘘偽りは無い。
 いつでも。
「私は、どうすればいい……ヒューズ……」
 ロイの肩が、震えていた。
「ロイ……」
 ふ、とヒューズはロイの胸倉を掴んでいた手を離して。
「後悔するくらいなら、どうして信じてやらなかった……」
「………」
「子供だろう?どうして……」
「どうしてだろうな……」
 ロイもヒューズの胸倉を掴んでいた手を離し、そのまま下に落とす。
 その瞬間。
「ぐっ!」
 がす、とロイの鳩尾に入れられた拳。
 痛みを発する場所に手を当て、ロイは拳の主を見る。
 そこには。
「エド……」
 驚いたような、ヒューズの声。
「久しぶり、ヒューズ中佐」
「久しぶりって、お前……何でこんなところに?借り出されたのか?」
「違うけど。ちょっとヤボ用」
 信じられない、と思った。
 ロイは、じんじんと痛む鳩尾を押さえてその姿をまじまじと見る。
 三つ編みにされた、綺麗な金糸の髪。
 意志の強い、釣り目がちの金色の目。
 真っ赤なコート。
 歳の割には、小柄な体。
 そこに、立っていたのは。
 左手で拳を作り、そこに立っていたのは。
「鋼、の……?」
 真っ直ぐに自分を、ヒューズを見て立っている……エドワード・エルリック。
 その後ろには、鎧の弟も立っていた。
「おう、アル。お前は付き添いか?」
「そんなとこです」
「中佐は何やってんの?」
「いや、こいつに怒りの鉄拳をだな…ま、今お前がかましてくれたけど」
 鳩尾を押さえて体を曲げたロイの背中を、ヒューズはバンバンと叩く。
「そう言うわけだから。お前らは、用事済ませたら早く帰りな」
 一頻り笑った後、ヒューズは二人の肩を叩いて、酷く真面目な顔でそう言った。
 子供に知らせていい事件じゃない。
 そう、判断して。
「あー、うん。そうする」
 エドは、何事も無かったかのように笑って辺りを見回す。
 目的の一つは果たされた。
 もう一つは。
「見つけたー!」
 言うより早く、そこから走り出し、廊下の角を曲がってきたと思われるハボックの顔面に。
 頭突きを、喰らわせた。
「った……!」
 何が起こったか解らないハボックは、顔面を両手で押さえて蹲る。
 隣で、驚いたようにホークアイがエドを見ていた。
「え、エドワード君……?」
「中尉、昨日はありがとう。…正直、助かった」
 何事も無かったかのように笑って。
「ここにいて、大丈夫なの……?」
「ああ、あれなら治まったから。もう、平気」
 困惑した、ホークアイの顔。
 その顔を、苦笑しながらエドは見て。
「ごめんね……中尉」
 満面の笑顔を浮かべた。
「……しっかし、あれだな……少尉って、結構顔固いな……」 
 自分の脳天を摩りながら、ぶつぶつと文句を言い、エドはロイ達のいた場所に帰って行く。
 それを追うように、ホークアイとハボックも小走りでその場所に近付いた。
「さー、これで後用事は一つ!」
「用事って、お前、こいつやらハボック少尉に攻撃を仕掛けることだったのか?」
 楽しそうなエドを見て、ヒューズは首を傾げる。
「ま、それに近いけど……。大佐、あいつ、どこにいる?」
「あいつ……?」
「カール・シェスター少佐。会いたいんだけど」
「!」
 エドの言葉に驚いたのは、ロイだけではない。
 その場にいた、ヒューズ以外の人間が目を見開いて、エドを見た。
「兄さん?」
「鋼の……?」
「エドワード君?」
「エドワー…ド?」
「何だ、エド。お前、あいつと知り合いなのか」
「ん?ちょっとね……」
 軽く手を振りながら、エドはヒューズの問いかけに答える。
 会えるはずが無い。
 会わせる訳には行かない。
 カールは、エドを……強姦した張本人なのだから。
「駄目よ、エドワード君!」
「何で?」
「だって、昨日みたいな……」
「それに関しては、大丈夫。これは、ケジメだから……」
 ホークアイの言葉に、エドは、へら、と笑って。
「落とし前は、自分でつけるさ」
 酷く厳しい眼光を、その場にいた全員に向けた。
 偶然とは、たまに恐ろしい結果を連れて来る。
 未だ犯人とは確定されていないが、最重要参考人として事情聴取されていたカール。
 犯人と断定されいなければ、その階位は軍属の中で意味を持つ。
 彼は、まだ少佐であり、軍属としてある程度の自由が許されていて。
 おそらく、別の場所への移動途中だろう。
 何の因果か…二人の軍人、ブレダとファルマンが両脇を固めた状態で、カールはその場所に姿を現した。
 それを見た瞬間。
 エドは、ゆっくりと足を踏み出し。
 そして。
 ……カールの前に、立った。
「やあ、君は……」
 いつもと変わらない、柔和な笑顔。
「久しぶりって言った方がいいのかな、シェスター少佐」
「……綺麗に、なったね」
「お世辞か?」
「ううん、違うよ。あの頃より、ずっと綺麗になった」
 にこりと笑って、カールはエドにそう言う。
 何度も、綺麗になった、と。
「まさか、あの子が国家錬金術師になるなんてね……」
「あんたが、あの二人の知り合いだとは思わなかったよ」
 平然と、何事も無かったかのように、二人は会話を交わして。
「そういえば、もう、昔みたいな格好はしないのかい?もう一人の女の子と一緒に着てたじゃないか。真っ白なワンピース…」
 可愛かったのに。
 うっとりとそう零すカールに、エドは。
「まあ、足がこんな状態じゃな……」
 それが、合図だったと言わんばかりに両手を合わせて円を作り離すと、自分の左足に両手を重ねる。
 バチィ、と光の粒子がエドの左足の膝から下を走り、練成が行われたことを証明していた。
「……左足、どうかしたのかい?」
「現在、生憎と…機械鎧でね……」
「機械鎧…ああ、だから二つ名が鋼なのか」
「そう言うことだよ。カール・シェスター少佐!」
 一瞬の出来事だった。
 エドは、左足を懇親の力で振り上げ、カールの急所を蹴り上げる。
「!」
 ……その場にいた男性は、殆ど自分の股間を押さえていた。
 それと同じく、カールも押さえていたけれど、他と違うのは白い泡を吹き出してその場に倒れこんだ事くらいだろうか。
「おい!」
 カールの右隣を固めていたブレダが、膝を付きカールの顔を確認する。
 ……気を、失っていた。
「駄目ですね、これは……」
 胸の前で十字を切り、ファルマンはカールに向かって手を合わせる。
「エド、大丈夫か?」
 ブレダは下からエドを仰ぎ、その表情を伺って。
 心底心配そうに声をかけた。
 また、発作が起こるのではないか、と。
 けれど、エドの口から飛び出した言葉は。
「てめぇなんか、一生不能でいろ!!!!!」
 どぎつい、一言だった。





 異様な雰囲気だった。
 押し黙ったロイとハボック。
 不機嫌そうなエド。
 表情の読めない鎧のアル。
 どうしたものか、と考えあぐねているホークアイ。
 三人で顔を見合わせてはため息をつく、ブレダ・ファルマン・フュリー。
 そして。
「この顔合わせだと、何か問題があるのか?」
 なんの因果か一緒に雪崩れ込んでしまった、ヒューズ。
 その言葉に最初に口を開いたのは、ロイだった。
「鋼の……」
「何だよ」
 名前を呼ばれたことが不服なのか、素っ気無い返事をエドは返す。
「最初に謝っておこう……すま……」
 ない。
 そういおうとした瞬間に、早業と言える錬金術で生成されたエドの右腕から伸びる刃物の切っ先が、ロイの眉間ぎりぎりに押し当てられた。
「それ以上言ってみろ。…たとえ、あんたでも殺してやる」
「鋼の……」
「謝るなよ、絶対」
「でも、エドワード……」
「あんたもだ、ハボック少尉」
 同じように謝ろうとするハボックにも、同じようにその切っ先を向けて。
「謝ったら、殺してやるからな!」
「おいおい…エド。あんまり話が穏やかじゃないぜ?」
 刃物を振り回してまで謝罪を拒むエドに、ヒューズは苦笑いを零しながら話しかける。
 が。
「中佐は黙っててくれない?」
 エドは、凄まじい眼光でそれを一蹴すると、目の前にいるロイとハボックの二人を見た。
「何に対して謝ろうとしてるのか、わかんねぇけど………もし、オレの推測通りの事だったら、殺してやるから」
「兄さん……?」
 がしゃん、と金属が擦れ合う音を響かせて、アルがエドを見る。
「オレは、あんた達の自己満足の道具じゃねぇ」
「!」
 その言葉は、ロイとハボックの胸に確実に突き刺さった。
「あんた達は謝れば、少しは気が楽になるんだろうけど。悪いが、オレはそんなもの望んじゃいない」
 強い強い、瞳だった。
 いつも前を向いていた、強い子供の瞳。
「確かに、昨日はヤバイところを見せた。それがオレの本質だとか思うんだったら、今すぐに縁を切ってやる」
 過呼吸を起こし、怯えた姿。
 確かにあの姿は、エドの一部でありエド自身である。
 しかし、あの姿は。
 過去の残像に怯える、小さな子供のエド。
 カール・シェスターに怯えた……10歳の。
「しかし、君は……我々が怖いのだろう?」
 ロイが、強いエドの視線を受けて、すっと顔を上げる。
「ああ、怖いよ」
「エドワード君……」
 エドの言葉に、ホークアイが心配そうにその顔を見た。
「怖かったよ。信じてもらえないのはな。でも、しょうがないだろう?あいつは、あんた達の親しい人間で、オレは同じただの軍属だ。オレだって、自分の親しい人間の言葉を信じるさ」
 どんなに間違っていても。
 自分の親しい人間の言葉を信じたい。
 そう思うのは、人の常だ。
「あんた達が怖いと思ったのは、あの時だけだ。オレが怖いのは、……軍属でも男でもねぇ……あいつ、だけだったんだ」
「兄さん……」
「あいつの影が、怖かった。それだけだ」
 怯えていた。
 青い軍服に。
 男の匂いに。
 麝香の香りに。
 震えるほど、息が出来なくなるほど、意識を失うほど。
 怯えていた。
 怖かった。
 幼い頃の自分は、その全てを持つものが怖かった。
 だけど、今は違う。
 確かに、カールと同じものを匂わせる者たちもいる。
 しかし、それはほんの一部に過ぎなくて。
 人が優しいものだと。
 温かいものだと。
 今の、自分は知っている。
 右腕と左足を失うことで、エドはその恐怖から開放されたのだ。
「でも、もう怖くない」
「鋼、の?」
「ケジメはつけたからな」
 先程の急所蹴り。
 左足の機械鎧を、これ以上無い程硬い物質に変化させ懇親の力で蹴り上げた。
 間違いなく、再起不能だろう。
「もう、あいつは女を襲う事なんて出来ねぇよ」
「エドワード……」
「あいつは、痛みを知らなかった。だから、等価交換だ」
 自分の受けた痛みを。
 相手に返しただけ。
「オレは、もういいんだよ……アルだってここにいるし」
 傷物でも何でも、傍にいてくれると。
 弟は確かにそう言った。
 それだけで、エドは。
 過去の傷などどうでもいい、と思えたのだ。
 痛かった。
 辛かった。
 羞恥より何より、あの痛みが怖かった。
 10歳そこそこでは、羞恥など殆ど無い状態で。
 強姦された、と言う事実より何より、体に植えつけられた痛みと恐怖が。
 周りから押される「傷物」の烙印が。
 今日の今日まで怖かった。
 痛みは、右腕と左足を失った時の事を考えれば、まだ押さえつけれなくは無かった。
 ただ、心の痛みが。
 それを、アルは。
 弟、は。
 ほんの少しの言葉で、解放してくれたのだ。
 傷物でも何でも、自分を創ってくれたのがエドだ、と。
 その言葉が。
 全てを解放してくれた。
「だから、オレに対して謝るのは間違ってる」
「君の裸を見た」
「オレが勝手に裸になっただけだろうが」
「お前の言うこと、信じなかった…」
「だから、あいつの関係とオレの関係を天秤にかけりゃ、しょうがないって」
「しかし……」
「あーもう!あんたら鬱陶しい!オレを誰だと思ってる!鋼の錬金術師エドワード・エルリックだぜ?強姦されたくらいで、人生なんて悲観してられるか!」
 がたん!
 エドの言葉を聴いたヒューズが、思わずよろけて机にぶつかる。
「おい、エド……」
「何?」
「お前、だったのか?」
「何が?」
「カールに……」
「あ?あいつに強姦された10歳の子供の話なら、オレ」
 平然と、エドワードは。
 その言葉を発した。
「ちょ、ちょっと待て……お前、女だったのか?」 
「そうだよ」
「そうだよって、……」 
 ヒューズは何か答えが欲しくて、周りにいる人間を見る。
 しかし、誰一人俯いたまま答えてはくれなかった。
「じゃあ、何か?カールは昔…お前を、その……」
「強姦した。そんだけだよ」
 頭が痛い。
 ヒューズはそんな思いだった。
 今まで男だと思っていた子供が少女で。
 年端も行かない頃に、強姦されていた。
 自分達と同じ、軍属の手によって。
 しかも、目の前の少女は……。
 平気でそれを公言している。
「何で、あんたが泣きそうな顔するんだよ、ヒューズ……」
 ヒューズは、ぎゅ、と気が付けば腕が目の前の少女を抱き締めていた。
「中佐……?」
「すまねぇな。お前は、謝るなって言うけど謝らせてくれ。俺たちの知り合いが、ホント馬鹿な真似したよ……」
 思い出したのは、いとしい娘の顔。
 年端も行かない、可愛い娘。
 娘を持った父親だからこそ、どうしても。
 目の前の少女を抱き締めずにはいられなかった。
「女の子なのになぁ……辛いこと、言わせたな」
「辛くねぇって」
「俺は辛いよ。年頃の娘が強姦された、なんて言ってるなんてさ。しかも、それが俺たち軍属の所為となりゃ……」
「別に、オレ、は……」
「泣けとは言わない。ただ、自棄になるな。お前はもっと自分を大事にしていい。その為に、この馬鹿ども利用して良いから」
「バ……」
 ロイがヒューズの言葉に抗議の声を上げようとした瞬間。
 厳しい声で、ヒューズはロイの言葉を遮った。
「馬鹿だろ、ロイ。お前、こんな年頃の娘に何言わせてるんだ。親の気持ちになってみろよ」
「………」
「こんなに可愛い15歳の娘だぜ?これから将来もある。どんな男がもらってくれるかも解らない。
その時、そんな過去を公言してみろ。どうなると思うんだ……」
「中佐……」
「その言葉はな、お前が言っちゃいけない言葉だ、エド。自分を戒める為ならやめとけ。悪いのは全部俺達だからな」
 ぽん、とその背中を叩いてヒューズは笑う。
「これから先、お前の事傷物だ、何て言う馬鹿が現れたらとりあえず俺の所に来い。3秒で殺してやるから」
「…………」
 その言葉に、エドは言葉を失った。
 一瞬思い出したのは、父親、と言う言葉。
 そうか、この男は。
 この中で唯一、父親だったのだ。
 娘を持つ、父親。
「中佐。あんたが、その言葉を言うべきはオレじゃないだろ?」
「あ?」
「エリシアちゃん、だっけ。自分の娘さんの為にその腕は取っておきなよ」
「エド……」
「娘さんに妙な男が近寄った時にさ。そん時、その腕を存分に使ってやれよ」
 ヒューズを見上げて、エドは笑った。
「オレは、本当に大丈夫。こんなのでも心配してくれるヤツがリゼンブールにいるし。それに、アルがいる。オレの言葉を聞いてくれる中尉もいるし。心配してくれる人たちもいる」
 泣いてくれたウィンリィ。
 抱き締めてくれたホークアイ。
 自分の為に、真夜中駆けずり回ってくれた、軍人たち。
 そして、傍にいてくれると言った弟。
 それだけで、十分だった。
「それにな、阿呆みたいに気にして死にそうな顔してる大人もいるしな……だから、大丈夫」
 ヒューズは、そう言いながら眉を下げて笑うエドの額をペシ、と叩くと。
「……なら、いい」
 満面の笑顔でそう答えた。
「ただ……」
 ゆっくりと、ヒューズの手を解き、エドはロイとハボックの二人を見る。
 そして。
「オレに対して、何か非があるって思うなら、一生忘れないでくれ。………自分の言葉。それだけでいい」
 それだけを、ぽつりと零した。
 一生忘れないでいてくれれば。
「オレ、あんた達嫌いじゃないから」
 憎みたくもないし、嫌いたくも無い。
 鳩尾と顔面に入れた鉄拳と頭突きは、痛みの等価交換。
 二人がもたらした痛みなど、それくらいなのだ。
 エドがそう言って笑った瞬間。
「ごめんね……」
 そう言って泣き出したのは、フュリー。
 それにつられる様に、ハボックが。
「お、おい……」
「もっと、我々がしっかりしていれば……」
「すまん……」
 続くように、ファルマンとブレダが。
 泣き始めた。
「ちょ……、なんであんた達が泣くんだよ!?」
「君が泣かないからよ」
「ホークアイ中尉……」
 中尉は困ったように笑って、エドを見る。
「君の言葉は胸に痛い。突き刺さってくる刃物みたいなものだから。だから……」
 昨日、ホークアイもエドの言葉に涙を零した。
 子供の悲鳴は、言葉は。
 胸に突き刺さる、悲痛な刃物だった。
「……少し、辛いわ」
 信じなかった。
 否定した。
 守ろうともせず、壊した。
 そんな大人たちを。
 嫌いじゃないと、言った子供の声。
 同罪だと、誰もが思っていたから。
 その言葉は。
 胸に痛くて、痛くて。
 抱え切れそうに無かった。
「約束しよう、鋼の」
「……?」
 それまで俯いていたロイが顔を上げ、エドの視線を捉える。
「君に言った言葉は一生忘れない。だから、君も約束してくれ」
「何、を?」
「必ず、幸せになると」
「!」
「我々は、その為に努力は惜しまない。君が望んだ幸せの為に」
 許される事ではない。 
 解っているから。
 それでも、願うのだ。
 浅はかな、大人たちは。
 罪と罰と傷を背負った子供の行く末が、幸せなものになりますように、と。
「……どんな形でもいいんだな?」
 エドは、ロイの言葉を受けてそう言う。
「ああ……」
「じゃあさ、とりあえず……」
 とりあえず。
 何故その言葉が出てくるのか解らないが、ロイはエドの言葉に耳を傾ける。
 と。
「何か、食べるもの無い?昨日から何も食べてなくて……」
 出てきたのは、そんなあまりにも間抜けな一言だった。





「なあ、アル」
「何、兄さん?」
 宿に戻ったエドは、アルの背中に背を預けてその名を呼んだ。
「オレ、結構幸せ者だよな」
「え?」
「お前がいてさ。村に帰ればばっちゃんとウィンリィがいる。オレの為に泣いてくれる、馬鹿みたいに優しい軍人がいてさ…」
「うん……」
「その上、幸せになれって言う、馬鹿な軍人もいる」
「うん……」
「オレ、かなり果報者だったりするな」
 くすくすと小さな笑い声。
「アル……」
「何?」
「……今日だけ、泣かせてくれな……」
 エドは、ぎゅっと膝を抱えて顔を埋める。
「今日が終わったら、もう泣かないから」
「うん……」
 アルは、あえて振り向かなかった。
 エドが、一人できちんと全てを処理しようとしているのがわかったから。
 過去も、今も。
 そして、これから進むであろう未来も。
「絶対、元に戻してやるからな、アル……」
「え?」
「…なんでもないよ」
 ぼろぼろと涙を零しながら、エドは小さく笑う。
 聞こえてないのなら、それでいい。
 幸せだと思う。
 自分を、愛しているといってくれた人たちがいたから。
 どんな過去があったにせよ。
 愛してくれる人たちがいるから。
 『君が望んだ幸せの為に』
 ふと思い出したロイの言葉。
 自分が望む幸せは何だろう。
 こぼれる涙を左手の甲で拭って考える。
 いくつも道はあるかもしれない。
 それでも、たどり着きたい幸せは。
 ただ、がらんどうな鎧の弟の体を取り戻して。
 あの日々に帰ること、だけだった。





 ホントはね。
 兄さん。
 ボクも、この鎧の体じゃなくて。
 自分の体で、抱き締めてあげたかったんだ。
 だけど、今はきっと。
 この体の方が兄さんを傷つけずにすむから。
 ねえ、兄さん。
 ごめんね。
 ごめんね。
 ごめんね。
 元の姿に戻ったら、一番最初に。
 兄さんを抱き締めるよ。



 なんにもないけれど 未来を全部 きみにあげるから


 ボクの全てを
 ぜんぶ、あげるよ。
 兄さんに。



 いつか、この体の痛みも消えて。
 この心の傷が消えたら。
 ずっと一緒にいたいと思った。



 それが、多分一番幸せなんだと思った。


 お前と、ずっと一緒にいたいんだ。
 なぁ…アル。






あとがき→



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