教室を開けると、いつもの毎日が始まる。 予鈴が鳴るか鳴らないかぎりぎりのところで机に鞄を置いて、数馬は肩で息をした。 「数馬、髪、ぼさぼさ」 隣の席の藤内が苦笑する。藤内はと言えば、机の上に既にきちんと教科書とノートを並べていた。 「直してる時間なくて…」 「全く、女の子がそんなのでどうするんだよ」 そう言って藤内は自分の鞄の中から櫛を出し、鞄の中から様々なものを取り出す数馬の髪を梳く。それに対して数馬は太い眉を八の字にしてごめんねと笑った。 この光景は二年三組の教室でほぼ毎日見られる光景で、二人の関係を知らないものは付き合ってると思っている人間が多いだろう。 今まで藤内が特定の女の子と仲が良かった事が無かった所為か、ちらほらと噂に上る光景だった。 浦風藤内は、かなりの好物件だ。 見た目も中々、身長も中々、性格は真面目で優しい。男女隔てなく接する事もあり、藤内に恋心を抱く女子は少なくないだろう。実際、去年のバレンタインデーは結構な数のチョコを貰っていた。 その藤内に「彼女」の出現。積極的では無い藤内に恋心を抱く少女達の地味だが情熱的なアピールが始まったのは、数馬がこの学校に来て直ぐの事だった。 三反田数馬は、高校二年生での途中編入と言う珍しいパターンの生徒だ。 だが、一学期の初めの始業式の日に転入して来たので、注目を集めることは無かった。途中編入なんだねーくらいの感覚で女子の友人たちに言われたくらいである。 元々学科の多い高校で、進学を目的とした普通科だけで三クラス存在し、それとは別に就職に有利な情報処理科や食品関係を扱う食品科など合わせて一学年に八クラス有り、学科が違えばどこの誰がどんな経歴を持ってこの学校に来たのかなんて分からない。 もう一つ原因があるとすれば、数馬の存在感だろう。別に何ら珍しい事もないのだが、数馬には何故か存在感と言うものが薄く、未だに教師でさえその存在を忘れる事が多かった。 その数馬が、藤内の彼女。面白くないと思いつつも、浦風君も女の子に興味あるんだ! と喜んだ少女達は果敢なアタックを始めたが、藤内自身が自分のことには超が付くほどの鈍感なので、気付かれることは無かった。 「数馬、出来たよ」 「えーっと、これは?」 「渾身の作なんだけど。ツインテールって可愛いよね?」 どこか少女じみた藤内は、いつも可愛い髪形を数馬に強要する。と言うより自分で作り上げる。 数馬は身支度をしないとか、外見を気にしないとか、そんな類の人間ではない。 ただ、たくさんの不運が重なって髪が暴発するだけなのだ。 「藤内、楽しんでるよね?」 「だって、数馬の髪がぐちゃぐちゃなのが悪い」 藤内がそう言ったところで、予鈴代わりの校歌が鳴り響く。 「大丈夫、いつもちゃんと予習をしてるから! ちゃんとツインテールになってるよ」 数馬の頭をぽん、と叩いて藤内は数馬の後ろの自分の席に付いた。 彼は、美容師になるつもりだろうか。数馬は自分の髪を一房掴んで溜め息を付いた。 「…………」 「大丈夫だから! 大丈夫だから! 沈まないで孫兵!」 ぺたりと地面に頭を付けているイケメンなど、一生に一度見られるか見られないかの光景だ。昇降口で数馬に土下座するイケメンを、生徒達はちらちらと見て行く。 「いや、これは、僕が悪い」 「そうじゃないって!」 それは、つい先刻の話。数馬は、あんた、伊賀崎君の何なのよ! 的な言葉を言われ何かの弾みで突き飛ばされ、見事に学校の金魚やら亀やらが泳ぐ浅い池に落ちた。 体育の授業の後だったので、ジャージ姿だったのが救いだろう。制服は濡れずに済んだ。周りにいた友達がタオルを大量に持ってきてくれたお陰でそんなに大変な事態にはならず、今現在髪が濡れているくらいだ。 藤内の折角の作品だったが、数馬自身派手だなーと思っていたのでありがたくポニーテールに変更させてもらっている。 「相手の子だって悪気があった訳じゃないし」 「でも…」 「ほら、孫兵。立って立って」 そう言いながら、数馬は知り合いの中では細い気がする孫兵の腕を引っ張って立ち上がらせた。 「髪、こんなにびしょびしょじゃないか」 「大丈夫だって。こんなのいつもの事だし」 眉間に皺を寄せる孫兵の顔は、悲壮さも相俟って綺麗なものに見える。 伊賀崎孫兵は、文句なしのイケメンだ。 整った顔立ちに、男にしては白い肌。少し茶色がかったさらさらの髪。だからと言って決して女性らしさは感じさせず、引き締まった体と高身長のお陰で彫刻のような美しさをかもし出していた。しかも、頭も良いと来ている。こんな好物件を野放しにするほど女子と言う生物は甘くは無い。 それだけならただの美少年だが、孫兵は爬虫類マニアで昆虫マニア。常に虫かごと虫取り編みを携帯している「不思議ちゃん」だったりするので、そう言うミステリアスな美少年が好きな女子生徒にはたまらない存在なのだ。 そういう訳で、孫兵は学校で女子人気が一位二位を争うイケメンだったりする。 しかも孫兵に思いを寄せる女子生徒は情熱的で良く暴走するので、数馬にとってこう言った事件は日常茶飯事、生活の一部だった。 「だから、気にしないで」 「数馬…」 「ほら、今から飼育小屋行くんでしょ?」 「………」 「ぼくは帰るだけだから、ね?」 「……ごめん」 「大丈夫。じゃ、ごめん、ぼく、帰るね?」 「うん、気を付け……」 数馬が手を振ると、孫兵はゆっくり手を振った瞬間、壁に吹っ飛ばされた。 「三之助ェェェェ!」 「あれ、孫兵……また吹っ飛んだ?」 孫兵をいとも容易く壁まで吹っ飛ばしたのは、少々ぼーっとしている生徒で。数馬はその名前を大きく叫ぶ。 「ちょ、孫兵、無事?」 「あ、うん……三之助、ブレーキって言葉、知ってる?」 「一応。おっかしいなあ、ぶつかると思って止まろうと思ったんだぜ、俺」 高身長の孫兵より背が高くがっしりとした体躯の生徒――次屋三之助は、一部の女子から絶大な人気を誇る「体育系男子」だ。 顔はそこそこ、性格天然。女の子には優しい上に運動神経抜群。様々な要因が組み合わさって、そこそこ女子生徒から人気のある男子ではある。 孫兵と並ぶとその魅力は三倍増しとか何だとか。ともかくタイプの違う二人の男子生徒が並べば否が応でも目立つのは仕方ない。 「孫兵、折れてない? 折れてない?」 「数馬、僕、そんなにひ弱じゃないし、結構骨太だから大丈夫」 身長の低い数馬がぴょこぴょこと跳ねて、何故か孫兵の頭頂部を確認しようとしていた。保健委員の数馬は他の人間が気にしない場所をたまに気にする癖がある。 「でさ、どうやったら、体育館に辿り着けると思う?」 無自覚な方向オンチである三之助だが、自分が迷子と言う自覚はあるらしい。 三之助の方向オンチはGPSですら匙を投げると言う、ある意味一本筋が通った方向オンチであった。故に、部活動には所属しておらず、頼まれたら助っ人で様々な部活に顔を出すような対応であったが。 「いいよ、連れて行くから」 体育館は目の前だが、おそらく三之助は反対方向に行くだろう。そう言う方向オンチなのだ。 数馬が三之助の手を取ると、そこに。 「職員室ー!」 聞き覚えのある叫び声と、腰の辺りに鈍い痛み。腰に何かがぶつかってきたらしい。それは、確認などしなくても。 「左門、一度落ち着こうか?」 数馬はぎりぎりと自分に頭突きをくらわせた生徒の頭を掴み、にっこりと笑う。 「数馬、タイムっタイム!」 「職員室は、二階の突き当たり。ね?」 女子にしては握力の強い数馬の指に込められた力は結構なもので、頭を鷲づかみにされている男子生徒――神崎左門は鶏が首を締められたような声を零した。 この左門は、三之助と対を成す、一言で言うなら「決断力のある方向オンチ」だった。 三之助は自分が迷子になった自覚はあるのだが、左門はほぼ無いので直感で道を探そうとする。そうすると何だか良く分からない場所に飛び出るのだ。この状況がまさにそれで、二階の職員室に行こうとしているのに別の棟の一階の昇降口にいる、と言う訳の分からない事態が起こっているのだ。 「孫兵、ごめん。三之助頼める? ぼく、左門連れて行くから」 「あの……数馬、腰、大丈夫?」 「ああ、そんな柔に出来てないから。それに、安産型だし」 安産型と言う言葉は否定しないが、だからと言って腰を強打しているのが平気な理由にはならない。 数馬は「昔」から自分の体型を気にするタイプだった。 むっちりも今では魅力の一つだが、昔はそれに類似する言葉は無かったような気がする。それも相俟って、数馬は自分のむちぽよな体型を気にしていた。 それを思い出して孫兵が苦笑いすると。 「見つけたぞ!」 別名、便所スリッパと呼ばれる上履き代わりのスリッパで凄まじいダッシュを見せる男子生徒が一人。 それは、お前、それ本当に便所スリッパか? と言わんばかりのスピードで数馬達の集団に近付き左門の首根っこを掴む。 「お前は、少しは、俺の話を聞け! な!」 「ちゃんと聞いたぞ。真っ直ぐ言って右、だろう!」 「お前は直ぐに右に曲がった上に斜め走行しただろうがぁぁぁ!」 ごいんと左門の頭を殴ると、便所スリッパダッシュの男子生徒は集団を見て。 「三之助、お前も迷子か! 今日は、バレー部の助っ人だろう!」 「そうなんだよ。でもさ、体育館が遠くて」 「体育館はお前の後ろだ!」 無駄に叫びつつ、お前良く血管切れないな、の勢いで怒鳴り続ける。 これも、数馬がこの学校に編入してから見られるようになった光景だ。 怒鳴っている男子生徒――富松作兵衛もまた編入してきた生徒の一人。こちらは数馬とは違い目立ちに目立って今の地位を確立している。 教師たちの頭を悩ませていた迷子コンビの行動を掌握した上に、孫兵がひっそり連れていたけれどいつの間にかいなくなっていた真っ赤な蛇を探し出したあと素手で掴んで籠に戻し、最後に頭は良いし性格には問題ないけれど一つの事に集中すると他が目に入らなくなる藤内の暴走を一撃で終わらせる、と言う偉業を編入初日の始業式に成し遂げたのだ。 それは有名になるだろう。 既に数ヶ月が経った今、作兵衛は「頼れる兄貴分」として学校では有名な存在だった。 「作ちゃん、これからバイトじゃなかったっけ?」 数馬が作兵衛に尋ねると、苦虫を噛み潰して「今日は遅番だから」と力なく呟く。 「じゃあ、左門お願いして良い? 三之助を体育館に連れて行くから。孫兵は一応保健室に行ってね? 三之助に吹っ飛ばされたんだから」 作兵衛の言葉を聞いた数馬が握っていた左門の手を作兵衛に渡して、今度は三之助の手を取る。 「それ言ったら数馬の方が、腰……」 「ぼくは、平気。いつだってそうでしょう?」 数馬の言葉には妙な説得力があった。 数馬は丈夫な方で、思い出しても大きな怪我も病気もせず、それこそ死と隣り合わせのお産でさえ何度か乗り越えた程だ。 それは「今」の話ではないけれど。 「ほら、全員解散! 注目集めてるよ!」 良くも悪くも数馬の周りは目立つ。 ここにいない藤内も含め、ミステリアスイケメンの孫兵にマニア人気の三之助、男女共に好かれる体質の左門、そして兄貴分な作兵衛。 元々、藤内と孫兵、そして三之助と左門は仲が良かったようだけれど、数馬と作兵衛が編入してきてからますます仲が良くなったように見える。 元からその形であったかのように。 注目を集める男子の傍にいると何かとやっかみを買いやすいが、大概が「友達」としてそこにいる数馬に気付き、相手が暴走でもしない限りは害は無い。もちろん陰湿なものもない。実際、さばさばした性格の数馬は結構な女子の友人に恵まれていた。 「三之助、行こう」 じゃあね、作ちゃん、左門、孫兵。 そう言って、数馬は傍にある体育館に三之助を連れて行く。 それを見た孫兵と左門は作兵衛をちらりと見た。 「どうした?」 その視線に気が付いた作兵衛が首を傾げると。 「前の奥さんが他の男と歩いているってどんな感じなのかなぁって」 何事もオブラートに隠す事をしない左門がそう尋ねる。孫兵もそれに頷いた。 「別に……今は、関係ないだろ?」 遠ざかっていく、三之助と数馬の後姿。その後姿に不安や焦燥は覚えない。昔の数馬は確かに作兵衛の奥さんで家族で。けれど、今の数馬は今の数馬だ。 作兵衛がゆっくりと二人の背中に視線を向けると、孫兵と左門の二人は顔を合わせて。 ぜったいに、いまのかずまもすきだよね と、唇だけ動かしてそう確認した。 H26年 1月発行「sweet sweet home −spring−」より一部抜粋。 戻る |