白く、白く、白く。
 全てを白く。
 そう願ったのは、数多の願い。
 けれど、色付いたものを白く出来るわけなんて無くて。
 その全てを、白にできるのなら、それは。





 奇跡、と呼ぶ。





 雨の音が聞こえる。
 作兵衛は窓から見える外の景色を見て、溜め息を一つ付いた。
 この時期、他の国では女神が愛した季節だと結婚式を挙げる人間が増えるとか何とか。だか、残念な事にこの国は雨ばかり続いている。
 晴れの舞台が雨なのも風情があっていいかもしれないが、外で挙式を挙げるとなると大変だ。
 まず最初に心配するのは、花嫁のドレス。
 白を基調とするドレスが雨に濡れるだけならまだしも、泥が跳ねたりと汚れたりすれば花嫁のテンションは下がるに違いない。
 それに列席者。ずぶ濡れで米やら花びらやら投げたところで祝福の気持ちなんて生まれない。
 まあつまり、この国にジューンブライドと言う風習は向いていないのだ。
 そう思いつつ、手元の布を器用に縫い合わせていく。
 ミシンを使えるものはミシンを使うが、柔らかい布や薄い布等の縫製が難しいものは手で縫った方が早い。
 既に仕上げに入っているこのドレスの納期は来週だ。ベールも靴も全て一通り揃っている。後はこのレースの縫い合わせだけだ。
 この店は、所謂ウェディングドレスの専門店と言うヤツで、作兵衛はで縫製を担当している。ちなみに、従業員は作兵衛だけである。
 基本的に手先が器用な作兵衛は、大概の無理難題をこなす事が出来た。
 その腕は客からの信頼も厚く、本業であるウェディングドレス以外の依頼主からも絶賛されるほどである。
 本当ならウェディングドレス一本でやって行きたいけれど、正直な話、ウェディングドレスだけで採算が合わないのが事実だ。
 オーダーメイドのウェディングドレスを必要とする花嫁は少なくは無い。自分だけの、オンリーワンの結婚式を挙げたいと願う花嫁がドレスに拘るのは当たり前だ。
 けれど、それは自分の理想のウェディングドレスであって、他人に任せたものではないのだ。
 そこにまず問題がある。
 確かに客の要望には応えるけれど、この店のウェディングドレスはオーナー兼デザイナーが全て決めるのだ。
 デザイン、素材、小物。全てにおいて、その人に一番似合うものを選ぶ。
 儲けたいなら、客の依頼を全て聞けば良い。客が望むように作れば良い。それをしないのは職人の拘りなんて言うものじゃない。
 この店には、こんな噂がある。
 ―この店のウェディングドレスを着る花嫁は、必ず幸せになれる―
 それが噂ではなく事実だと知る人間は少ない。
 それはそうだ。この店のウェディングドレスを着る事が出来るのは、この場所に辿り着けた人間だけなのだから。
 この店は、ちょっと分かりにくい場所にある。
 オフィスビルが並ぶ一角。ビルとビルの隙間を歩くと開ける、切り取られた箱庭のような場所にこの店はあった。あまり広くは無い土地に、乳白色の四角い店を構えている。窓枠は濃い茶色で作られていて、窓硝子には柔らかなレースのカーテン。その中に見える、白いドレス。その建物にくっついている形で、柔らかな茶色の店より少し小さな建物が建っているが、それはオーナーと作兵衛の住居部分だ。そして、店の中からは整えられた庭が見える。庭といっても大げさなものではなく、季節季節の花が咲くだけのものだ。
 そんな場所にある店に辿り着くには地図が必要だ。
 宣伝はしていない。口コミでも広がらない。この店を必要としている人間にだけ地図が届くらしい。
 最初は、ここから少し離れた場所に店を構えていた。
 細々とウェディングドレスを作りそれなりにやっていた。だが、何が発端かは分からないが女性達の間で「絶対に幸せになれる」と言う噂が広まり、一気に問い合わせが増え来客数も増えた。
 店としては喜ぶべき事態であるかもしれないが、とてもではないけれど捌き切れる数ではない。オーナーと作兵衛だけの小さな店だ。一気に出来るものではない。断れば断るだけ、幸せの手伝いが出来なくなる。
 そう思って店を移転させた。電話番号も破棄した。それでも雑誌や口コミだけで店の名前は広がり、都市伝説級の店となっている。
 それでも良い。自分達の手で必ず「幸せ」に出来る人がいるなら、それで良い。
 それが、オーナーの方針。
 作兵衛ももちろん同じ考えだ。一着一着丁寧に作りたいし、それに、受け取った人が笑ってくれるならそれが嬉しい。
 少し休憩しよう。
 座っていた椅子から立ち上がり、背伸びをする。
 珈琲を淹れようか。この前、友人が持ってきた美味しい豆がある。どこかの喫茶店のオリジナルブレンドと言っていた。
 オーナーも作兵衛も珈琲が好きだ。インスタントの場合もあるし豆を挽く場合もある。
 今日は少し気分が沈んでいるから、豆でも挽くか。
 そう思いつつカウンターから続く給湯室のような場所、作兵衛は裏と呼んでいる場所に足を向けようとした瞬間、それは目に飛び込んできた。
 窓の外、静かに振る雨の中で佇む姿。じっとこの店を見ているようにも見える。
 客だろうか。
 この店は看板が出ている間は営業中だ。客であるならば、今、オーナーは出掛けていていないけれど、店の外で待たせるには忍びない。と言うより、この箱庭のような場所に来るのは客しかいない。
 もしかしたら、戸惑っている可能性だってある。この店の扉を開くのは、結婚を控えた女性ばかりではない。相手がいなくても、片思いでも、この店のドレスを必要としている女性は見つけられるのだ。
 作兵衛は裏に向かっていた足を扉に向け、ドアノブを握ると扉を開けた。
「あの」
 そっと、声をかける。雨の所為で顔は良く見えない。
「雨宿り、して行きませんか?」
 戸惑っているなら、いらっしゃいませは禁句だ。
 作兵衛が女性に近付くと、女性はじっと作兵衛を見て。
「すみません、つかぬ事をお聞きしたいんですが…」
 そして。
「ここは、どこですか?」
 そう言った。





 柔らかな紅茶の香りが広がる。
 珈琲を淹れる為の道具は揃っている。けれど、この店で活躍するのは主に紅茶を淹れる為の道具だ。
 カップを乗せたトレイを裏から運ぶと、深い緑色の布が張られたソファに座る女性の前にカップを置く。
「宜しければ、どうぞ」
 テーブルの上に置かれたカップからは、白い湯気と柔らかな紅茶の香り。
「すみません……」
 作兵衛より年上であろう女性ぺこりと頭を下げて、カップに手を伸ばした。
 どうしたらいいんだろう。
 作兵衛の頭の中は、それで一杯だ。
 客であるならば、オーナーが席を外しておりますので少しお待ち下さい、で済む。そして、オーナーが帰ってきて話を進めれば良い。
 けれど、この女性は客であるかどうか分からない。いや、客で無ければ良いと思っている。
 きっと、この女性がウェディングドレスを着れば、モデルの様な見栄えになるだろう。長身、真っ直ぐ伸びた背中、理想のボディライン、長い脚。何を着ても映えるに違いない。
 それでも、目の前の女性がウェディングドレスを依頼に来たのでは無ければ良いと願った。
 依頼があれば作るのは当たり前だ。おそらく、オーナーは依頼を受けるだろう。この店に来た人間の依頼を受けなかった事は無い。
 それが女性であろうと、ウェディングドレス以外を頼む男性であろうと。
 作兵衛が願う展開であるならば、女性は作兵衛の顔を見た瞬間に口にするであろう言葉を口にしていない。
 ただ、ここはどこですか? と聞いてきた。
 余程の事が無い限り、この場所に辿り着く事は無い。入り組んでいる場所にある上に、場所を公開している人気の店ではない。オフィス街にある為、興味本位で遊びに来る子供もいない。
 つまり、この場所に来ると言う事は、この店に用があると言う事だ。
 作兵衛がじっと女性を見ていると、女性は作兵衛の視線に気が付いて「あの」と言い出しにくそうに口を開く。
「何ですか?」
「ここ、お店、ですか?」
「え?」
「いえ、最初はどなたかの家かと思ったんですが、ドレスが飾ってあるので…」
 確かに、一般住宅にドレスは飾っていないだろう。
 この店は、大きく分けて二つの場所に分かれている。
 玄関は真ん中に有り、そこを入ると左手側にカウンターと応接セット。その後ろは中二階に続く階段。右手側には飾ったドレスが見える出窓と作業スペース。一番奥に採寸や着付けをする二畳ほどの場所があり、その場所には常に小さな薔薇柄のカーテンが引いてあった。
 どう見ても、人間が生活する場所ではない。
「一応、店です」
 女性の言葉の意味が分からない。
 何を思って、この場所に来たのだろう。
「じゃあ、ここはやっぱり…」
 女性がポケットから出したのは、白い封筒。よれよれになっているが、それには見覚えがある。 封筒の中には、店の名前が書かれたカードと、この店までの地図が入っているだろう。
「はい、そうです」
 神様ってヤツはな、いるかもしれないし、いないかもしれない。ただ、神様って思うことは全て奇跡ってヤツだと思ってる。
 神様がいるのなら、奇跡があるのなら、今すぐここでそれを見せて欲しい。
 結婚の可能性がないと、教えて欲しい。
 相手がいないとか、そう言う理由で、それでもドレスが欲しいと言う願いで来たと言って欲しい。
 上手く動かない表情筋で作った笑顔のまま作兵衛は必死に祈る。
「このお店、なんですね?」
「ええ、そうです。本当なら、お話を伺うのが筋だと思うんですが、オーナーが出掛けておりまして。帰ってくるまで待って頂けますか?」
「お話…?」
 作兵衛の言葉に女性は不思議そうな顔をした。
「すみません、うちは基本的にお話を伺ってからドレスを作るようにしているので、お客様のご希望に沿ったものが作れるかどうかは…」
 普通オーダーメイドと言うのは、依頼主の希望に沿うように作る。女性が不思議そうな顔をするのは当たり前だ。
 けれど。
「えっと、ドレスって、あれ、ですか?」
 女性が指差すのは、窓際に飾っている数着のウェディングドレス。窓自体に特殊な加工をしているので、ドレスが色褪せる事は無い。定期的に様々なウェディングドレスが窓から見えるようにしている。
「そうですが…あ、もしかして和装ですか?」
 たまに、着物が良いと言う女性もいる。その場合も、引き受けているので問題は無い。
「あの、その、凄く申し訳ないんですが」
 女性は、困ったように笑って。   
「僕の事、知りませんか?」
 そう言った。
「へ?」
 思わず間抜けな声が出る。
「手がかりは、これだけなんです」
 そう言って指差したのは、ポケットから出した手紙。
「お客様の事、ですか?」
 知っていると言えば、知っている。その顔、その姿。だが、それは作兵衛の記憶の中にある姿であって、目の前の女性とは限らない。作兵衛の記憶の中が女性の情報として正しい可能性はゼロではないので、どう答えればいいのか分からない。
「ええ。出来れば、名前辺りを」
「名前…?」
 記憶の中の事を言えと言っている訳ではなさそうだ。
 これは、もしかすると。
「はい…すみません、その、実は」
 どうも、記憶が無いみたいです。
 女性はそう言って、作兵衛の記憶の中にあるままの笑顔で笑った。





「すみません」
 目の前で謝る女性に、オーナーである留三郎は言葉を失う。
 出先から帰ってくると真剣に困った顔で自分を見る作兵衛と女性が店の中にいて、何かややこしい依頼が来たのかと思って笑顔を作ったら、作兵衛がそっと近寄ってきて「記憶喪失らしいです」と言った。
 記憶喪失の依頼人なんて聞いた事が無い。
 そう思って考えているとソファに座っていた女性が立ち上がり、留三郎の前までやって来て頭を下げた。
 その姿に、違う意味で言葉を失った。
 比較的長身の留三郎の前に立った女性は、視線が近い。ヒールの高い靴でも履いているのかと思ったが足元は雨にも拘らずバレエシューズで、着ている白いシャツも羽織っている薄い水色のカーディガンもデニムのスキニーパンツも濡れていた。
「突然お邪魔して、こんな言葉も申し訳ないんですが」
 ポニーテールにしたくせっ毛の亜麻色の髪がふわりと揺れる。
「何か僕に関する情報をお持ちで無いでしょうか?」
 整った眉に釣り目がちの大きな瞳。きつい印象を与えがちの顔だが、本人の雰囲気の所為か柔和に見える。一言で言うなら、中世的な美人であった。
 作兵衛が困惑している理由が分かる。
 彼女の情報は何一つ知らない。この店に初めて訪ねて来た女性だ。この店に来た事のある女性なら、留三郎も作兵衛も知っているし名前や住所などは控えている。
 彼女の今現在の情報は、無い。けれど、留三郎だけではない作兵衛にも違う情報があった。
 名前や経歴。おおよそ、今の時代とはそぐわない情報。
 それを、留三郎や作兵衛は過去と呼ぶ。
 留三郎と作兵衛、そしてこの店を訪ねる男性客の殆どが過去の記憶がある。
 数字にするなら五百年は昔ではないだろうか。少なくとも、江戸時代などではない。忍が必要とされていた時代。戦が繰り返された時代。その時代の記憶。
 自分一人ならそれは妄想や夢で片付けられるかもしれないが、それを共有する人間が多く存在するのだ。
 同じ学園に通っていた記憶。
 同級生だったり、先輩だったり、後輩だったり。同じ時間を過ごした記憶がある。
 全てが全て楽しい記憶ではない。それでも、その学園の記憶は楽しいことの方が多くて、酷く幸せなものだ。
 その共有する記憶の中に、目の前の女性の姿がある。
 男ばかりの学園に、何故か通っていた女性。本人に言わせれば、不運の所為、だそうで。そんな変り種の女性だった。女性にも拘らず、最高学年になる頃には体術では学園最強を誇り、卒業後は小さな村で医者のような事をしていた。
 そんな情報があるから、作兵衛は困惑し留三郎は言葉を失っている。
「すみません、あの、突然こんな事言い出して…」
 二人の困惑を否定を受け取った女性は、「紅茶ありがとうございました」と頭を下げ店を出て行こうとする。
 それを引き止めたのは、留三郎だった。思わず手が出た伸びたというのが正しいのかもしれない。扉に手を伸ばした女性の腕を掴んだのだ。
「あ、あの……」
「どこか、当てがあるのか?」
「え……」
「名前も家も分からないんだろう?」
 名前が分からないとか家が分からないとか、そんな建前を並べなければならないくらいには留三郎は成長している。自分の本音を零す程子供ではない。
 それでも弱みに付け込んだようなやり方で戸惑ったが、そうでもしなければ二度と会えないような気がした。
 そんな留三郎の言葉に女性は「大丈夫だと思います」と眉を下げて笑う。似ている、と言うよりそのものだ。声も、笑顔も、何もかも。
「あ、あの!」
 そこで声をかけたのは隣で見ていた作兵衛だった。
「良かったら、うちに泊まりませんか!」
「え……」
「うちの店への地図を持ってた、って言うなら、それはきっとうちに用があったと思うんです。そう言う封筒なんです、これ。だから、もしかしたら情報がうちにはいるかもしれませんし。男二人所帯ですけど、あ、俺、仕事が立て込んでて、こっちに寝泊りしてるんですよ!」
 必死と言うに相応しい様子で、作兵衛はまくし立てる。
 引き止めなければならない。そうでなければ、この店の意味が無い。この店が出来た意味が無い。叫ぶような喚くような声にその思いは滲み出ていた。
 そんな作兵衛の状態を見て、女性は自分の腕を掴んでいる留三郎を見る。
「うちで、良ければ」
 こんな雨の中傘も差さず女性を追い出すほど非道でもないし、それより何より女性と話がしてみたかった。
 言葉を交わしてみたかった。
 二人の様子を見て女性は少し戸惑った後。
「良いんですか? 僕みたいに素性が分からない人間を泊めたりして」
 明らかに不安と安堵が混じった顔をする。
「良いよ。まあ、男所帯で申し訳ないんだけど。記憶が戻るまで、何か情報が得られるまで居て構わないから」
「そ、そんな…ご迷惑に…」
「じゃあ、そうだな」
 留三郎は少し考えて、店を見回す。
「店の事、手伝ってくれるか?」
「え?」
「この店の客は殆ど女性でな。男じゃ分からない事が結構あるから、そう言うところを手伝ってくれると嬉しい」
 それは本音。採寸の時や着付けの時、女性の手が欲しかった事は多々ある。
「それとも、記憶ってのは全部無い? 何をどうすれば良いかとか。分からないか?」
 記憶喪失にも種類は様々ある筈。生活に支障が出て来るほどの記憶喪失なら病院へ言った方が良いのかもしれない。
 けれど。
「いえ、覚えてないのは自分自身の事だけで、一般常識は覚えてます」
 家事全般は得意です、と笑った。
「お言葉に甘えて良いんなら、お願いします」
 頭を下げる女性に気付かれないよう、留三郎は詰めていた息を吐く。
「そっか。じゃ、……名前、どうしようか」
 名前を呼ぼうとして、女性が名前を覚えていない事を思い出した。 
「あ、どうしましょうか…」
 彼女の記憶は真っ白だ。こんな時の対処法なんて知らない。女性は好きなように呼んでくださいと言うが、良い名前が思いつかない。
 と言うより、一つの名前しか思い浮かばない。
 たった、一つの名前。
「いさく…」
「え?」
 はなこだのさちこだのよくある名前でも、女性名の方が良いだろう。それなのに、口から出た言葉は男みたいな名前。
「いさく、ですか」
 女性は不思議そうにその名前を復唱する。
「ご、ごめん。今考えるから。えっと…」
「いえ、イサクで大丈夫です」
「え……?」
「折角頂いた名前です。変えてしまうなんて勿体無いです」
 違う、君の名前じゃない。
 そう言いたいのに、目の前の女性は記憶の中の、一番綺麗で柔らかくて温かくて幸せの記憶に付けている名前と同じ姿。
 伊作、お前なのか。
 聞きたい言葉が飛び出しそうになる。
 記憶の無い彼女に聞いて分かる事ではない。記憶があったとしても、過去の共有できる記憶があるとは限らない。
 彼女は、まっさらで何も知らない女性なのだ。
 その女性に無意識で呼びかけてしまった名前。イサクと言う名前。
 ごめん。
 留三郎は記憶の一番鮮やかな部分に謝って、「じゃあ、イサクで」と言った。それを聞いた女性――イサクはお願いしますと頭を下げる。
「あの、それで…僕はお二人をなんて呼べば良いんでしょうか?」
 そうだ。自分達は名乗っていなかった。
 留三郎は慌てて、懐から名刺を取り出すとイサクに渡す。
「俺の名前は…」
「けまさん」
「え?」
「けまって読むんですよね、この字」
 自分の苗字は珍しい自信がある。しょくまんと呼ばれる事の方が多い。もしくは、名刺を見て名前を尋ねられる事の方が多い。それを、イサクはすらりと読んでしまった。
「そう、食満留三郎、って言うんだ。この店のオーナー件デザイナー。こいつは富松作兵衛。縫製の担当してる」
 動揺の為に声が震えそうになるのを必死で、留三郎は自分の名前を名乗ると作兵衛の名前を告げる。
「あ、俺のことは作兵衛でいいですから」
「そう言う訳には…」
「じゃあ、作兵衛に君を付けてください」
 初対面の相手の名前を呼び捨てにするわけにもいかない、と言うイサクの気持ちも分からないではないが、作兵衛の記憶にある面影で「富松さん」なんて呼ばれたくは無い。
「でも…」
「そうしてやってくれ。きっと、こいつの方が年下だから」
「え?」
「…違うな、そんな気がするから」
 伊作じゃない。けれど、伊作に似すぎているイサクはきっと作兵衛よりは年上だ。そんな気がする。
「分かりました。それでは食満さんと作兵衛君、って呼ばせて頂きます」
 作兵衛の一人になった子犬みたいな目に弱いのは、留三郎だけではないらしい。イサクもまた、何か感じ取ったのだろう。
 それを聞いた二人は。
「それじゃ、今日から宜しくな。イサクさん」
「お願いします」
 そう言って頭を下げた。 





 店に頼んでいたシャツを引き取りに来た男は驚いた。どれくらい驚いたかといえば、沈着冷静の切れ者と会社では有名な男が鞄を落としたまま作兵衛に近付き「どう言う事だ!」と叫んだ程だ。
「あ、シャツ出来てます」
「そうじゃない! どういう事だ!」
「まあ、色々ありまして…」
 男が知る限り、この店は二人の強面の男が繊細なドレスを作っている店だったのに、それなのに。
「いらっしゃいませ、えっと、紅茶と珈琲どちらをお入れすればいいんでしょうか?」
 柔らかな声が背後から届く。
 その声に作兵衛は「すいません、珈琲でお願いします。ミルクだけ入れてください」と返した。
 わかりましたと小さく返事をして、柔らかな声の主は裏に入っていく。それを確認して、作兵衛は胸倉を掴んでいた見覚えのある男性に、落ち着いてくださいと静かな声で言う。
「落ち着いていられるか!」
「いや、あのですね…」
「あれはどう見ても伊作ではないか!」
「伊作じゃねぇよ」
 ちりんとドアベルの音が響いて、別の声がした。その声に気が付いた男は作兵衛から手を離し、今度は扉の方へ足を向ける。
「鞄、落としてるぞ」
「そんなものどうでも良い! あれは!」
「伊作じゃない、彼女は伊作じゃない」
「だが!」
 鞄を差し出しながら、留三郎はふっと息を付き。
「作兵衛」
「はい」
「さっき携帯に連絡が入ったから、花屋に花を取りに行ってくれるか?」
「ブーケですか?」
「いや、プリザーブドフラワーだ。結構な量だから彼女と行って来てくれるか?」
 作業スペースで作業していた作兵衛にそう頼んだ。
 それを受けて作兵衛は、針を針山に刺して細々としたものを入れるものの中に入れると立ち上がる。
「わかりました。シャツは、上がって直ぐのところにありますから」
「ああ、分かった」
 留三郎の前を通り裏に声をかけると、さっきの柔らかな声の持ち主がトレイに珈琲が入ったカップを持って出て来た。
「あ、イサクさん、ちょっと付いてきて貰えますか?」
「はい…あ、でも…」
 すっと男を見てから自分が持っているトレイに視線を移して戸惑っている姿を見て、作兵衛は苦笑いを零してトレイから珈琲の入ったカップを取るとことりとテーブルの上に置く。
「大丈夫です。オーナーの友人ですから。それじゃ、行って来ます」
「おう。あ、これ持ってけ」
「え?」
 ほい、と留三郎が作兵衛に渡したのは両手に乗る位の紙袋。ほかほかと温かい。
「鯛焼き。あんことクリーム。まあ、二つしかないから、分かってるな?」
「分かってますよ。行きましょう、イサクさん」
「あ、はい、それじゃ行って来ます。ごゆっくり!」
 作兵衛に手を取られ、柔らかな声の持ち主であるイサクがぺこりと二人に頭を下げて扉を潜った。
 残されたのは、留三郎と。
「富松が伊作と呼んでいたぞ!」
「まあ、ちょっとややこしい話なんだ。座れよ、シャツ出してくるから」
 ぴ、とソファを指差して留三郎は中二階に続く階段へと足を向ける。
「何がややこしいんだ!」
「色々と。お前は普段冷静なくせにこう言う時だけ文次郎化するのやめろよ」
 袋に入れられたシャツを片手に階段を下りて、指定席である椅子に腰掛けた。そうして男に、まあ座れよと促す。男は渋々とそれに従った。
「で、何がどうなっている?」
 砂糖の入っていないミルク入りの珈琲に手を伸ばす事無く、男は膝に肘を付いて留三郎を見る。
「あれは、伊作じゃないのか」
「伊作じゃない」
「だが、富松は伊作と呼んでいたぞ」
「それは、俺の失敗。彼女、名前が分からないんだ」
「は……?」
「名前どころか、自分自身のこと何も分からないんだと。それで、名前を呼ぶのにどうしようかってところで、俺がいさくって言っちまって。彼女はそれを気に入って、イサクって俺達は呼んでるだけの事だ」
 男の綺麗な顔の眉間に縦皺が刻まれた。
「最初から順を追って話せ」
 真っ直ぐな男の視線を受けて留三郎はぽつりぽつりと話した。
 イサクが、庭に立っていた事。この店への地図を持っていた事。記憶が無い事。日常生活に支障は無い事。行く当てが無いのでここにいる事。イサクに関する情報を探している事。
 それを全て聞いた男は、深い溜め息を付き。
「それは、あれか? 不運の一言で片付けるべきか?」
 こめかみを押さえてそう言った。
「だから、彼女は伊作じゃない」
 それを受け止められる程、男は馬鹿でもなければ賢くも無い。冷えたカップに手を伸ばして珈琲を一口飲むと、用具委員会は馬鹿ばかりだ、と愚痴るように零す。
「他人の空似だろう?」
「…お前はな、あいつを残して逝ったから分からないだろうが、あいつの執着は相当なものだったぞ」
「え?」
 思い出すのは、留三郎が知らないであろう過去の出来事。
「断言する。さっきの女性は伊作だ」
「そんな訳無いだろう?」
「どうしてそんな事が言える? 私とてお前とて過去の記憶がある。富松もだ。それに、あのやっと見つけた花屋の娘も。お前の携帯の電話帳に入っている名前は何だ? 可能性を否定するのはお前達の馬鹿なクセだ」
 そう、自分達はたくさんの奇跡を知っている。大小様々な奇跡。大きな奇跡は出会えた事。小さな奇跡は覚えている事。その奇跡が集まって、今こうして不思議な縁を結んでいる。
「記憶が無いくらい、伊作なら考えられない事じゃないだろう。この店に来た、と言う事は何らかの関係があると考えて良い。むしろ、伊作である可能性を否定する事の方が難しい気がするぞ」
「そんな都合の良い話があってたまるか」
「……お前には、そろそろ話しておくべきかもしれないな」
「何をだ?」
「伊作の、執着」
 それは、先程男が零した言葉。
 おおよそ、記憶にある伊作とは執着と言う言葉とは無縁だった気がする。何事も受け止めて、流して。柔らかな川の流れのような性格だった。執着していたのは、主に人の健康面だった筈。
 確かに過去の記憶の中で留三郎は伊作より先に死んだ。
 だが、それで何かに執着しているとは思えない。死ぬ前に伊作の顔が過ぎって、執着したのは自分の方だ。
 ウェディングドレスの専門店、って出来るんですかね。
 それは作兵衛の言葉だった。
 留三郎も作兵衛も施設の出身だ。親の顔は知らない。関係的には兄弟に近いが、作兵衛は記憶があった為、幼い頃から自分を食満先輩と呼んでいた。
 その作兵衛が思春期を迎えた頃に言った言葉だ。
 分かっていた。それが、贖罪だと言う事が。作兵衛は過去の記憶で大事なものを失い、留三郎は大事なものを残した。それを贖う為の言葉。
 そこで、ウェディングドレスなんて思い浮かぶのは作兵衛らしいなとは思ったけれど。
 女性の幸せの象徴のような、ウェディングドレス。それを作りたいなんて、留三郎からすれば突飛な考えだった。自分達は手先は器用ではあったが、繊細な感覚の持ち主ではない。あんなに綺麗なものを作れる自信は無かった。
 けれど、それを作る事で大事な人が笑ってくれるような気がしたのは確か。
 それから二人で勉強して、資格を取ったり感性を磨いたり技術を身につけたりと奔走した結果、この店が出来たのだ。
 そして、この場所に店を移転して直ぐに迷い人がたくさん現れた。
 ここ、どこですか?
 そう尋ねる男性客。女性客がメインのウェディングドレス専門店に男性客。それは、全て留三郎と作兵衛が持つ過去の記憶に中に存在する顔。しかも、その顔が自分達を見て名前を呼ぶからたまったものじゃない。
 最初は、驚きと感動と、久しぶりの言葉。それを何度も繰り返すうちにたくさんの繋がりが出来て、今ではあの頃よりも強固な絆になっている。
 目の前の男もそうだ。
 過去の記憶がある。だから、伊作の事を知っている。そして、伊作を探している自分の事も知っている。
 その男が口にしたのは「執着」。それも、自分じゃなくて、伊作の。
「死を恐れた」
「え?」
「元々生きることに関しては口煩い類ではあったが、死を恐れるような人間ではなかった」
 確かに、伊作は死を受け入れられないような柔な人間ではなかった。それが、死を恐れるなんて。
「お前が死んだ後、自分の死を恐れたんだ」
「どうして…?」
「子供だ」
「え……?」
 言っている意味が分からない。
「文次郎や長次に口止めされていたがな、お前が死んだ後、伊作は子供を産んだ。誰の子供かは分かるな?」
 ねえ、留さん。帰って来たらね聞いて欲しい事があるんだ。今? 駄目。絶対帰ってこれるおまじないだから。だから、頑張ってね。
 何度も、頭の中で繰り返した言葉。留三郎が記憶の中に残した大事なもの。
 ――守れなかった、伊作との約束。
 ころりと背中を冷たいものが滑り落ちた。
「だから、伊作は自分が死ぬ事を恐れた。お前を失って自分まで失えば、この子はどうなるのかと。お前がいた証である子供はどうなるのかと」
 知らない。自分は知らない。途切れた記憶の先を。
 誰も言わなかった。自分に子供がいたなんて言わなかった。ただ、笑って「探してやるよ」とそれだけ。
 ある者は、先輩には世話になりましたから、と。
 ある者は、伊作先輩もきっといますよ! と。
 ある者は、不運だが悪運だけは強い、と。
 そう言って探してくれていた。
「伊作が天寿を全うした事は知っているな」
 男の言葉に、留三郎は静かに頷く。
「長寿と言うわけでもないが、そこそこ長く生きてな。かなりの縁談が来たようだが、全て断って一人で子供を育て上げた。子供は男でな、名前は琥珀。立派に育って、戦忍を経て忍術学園の先生になったが、生涯独身だったそうだ」
 一体どんな人生を伊作が送ったのだろう。男の話は短いけれど、その一言一言は重くて、留三郎の動きを奪う。
「私との縁談も上がったんだ。まあ、文次郎ともな。それに、小平太。もれずに長次。伊作を一人にしておくには忍びない、と言った人間達が言い出したが全員もちろん断った。そんな感情誰も持っていなかったし、お前がいたからな」
 若くして死んだ記憶はある。
 今で言う、二十代後半くらいだろうか。作兵衛と一緒の忍務をこなした時は二十代前半だ。城仕えの忍者だった留三郎は、少々危険な忍務の際、若い忍を庇って死んだのだ。甘いと言われるかもしれないが、留三郎は自分より下のものを見捨てられない性質だった。それは、あの学園の中で培った優しい部分。忍としては失格かもしれないけれど、若い忍を守れたことは嬉しかった。そんな、馬鹿みたいな死に方。独り善がりな、死に方。
 だから、きっと伊作は誰かと幸せになったと思っていた。伊作を残して死んだ自分など忘れて、幸せになっていると思っていた。
 それなのに。
「私は、お前の死に様を聞いた時、やっぱりなと思った。お前は甘かったからな。だが、伊作を残して死ぬとは思わなかった」
「…………」
 冷めた珈琲に白い膜が浮かぶ。
「お前達は、大概馬鹿だったが、それでもいとおしい馬鹿だった。馬鹿みたいに一途で、馬鹿みたいにお人好しで、馬鹿みたい優しいお前達が、私達は好きだった」
 ふと、男の口元に浮かんだ笑み。
「だから、お前達が夫婦になったのは当たり前だと思ったし、幸せになれると思っていた」
 こんな優しい言葉を知らない。
 いつも、喧嘩したり厭味を言ったり馬鹿みたいに笑いあったり競い合ったり高めあったり、そんな関係の友人達だったから。
「留三郎」
 名前を呼ばれて、答える事が出来ない。
「…………」
「しっかりしろ! お前は、何の為にこの店を開いた! この店は何の店だ!」
 やや乱暴にカップをテーブルに置くと、男の叱咤が飛ぶ。
「お前は、伊作を幸せにしたかったんじゃなかったのか!」
 幸せにしたかった。
 伊作を、幸せにしたかった。
 あの時、伊作の元に帰っていたなら幸せに出来たかもしれない。
 そんな後悔が降り積もって、この店を開いた。贖罪は、作兵衛だけのものじゃない。自分のものでもあった。
 伊作が、この時代に生まれていたら。伊作が、自分と同じように記憶を持って生まれていたら。自分は幸せに出来ないかもしれないけれど、それでも、伊作を幸せにする手段が欲しかった。
 伊作が、自分を選ぶとは限らないから。
 そんな時現れたのが記憶を失った「イサク」。
 記憶が無いことに安堵したのは事実だ。曖昧なままでいられる。自分を知らないと落胆する事もなく、自分を覚えていると怯える事も無い。
 曖昧で優しい時間が嬉しかった。記憶が戻らなければいいと願うほどに。記憶が戻ってしまえば、この店への地図を持っていた意味を聞くことになる。
 それが、怖かった。
「なあ、仙蔵」
 男の名――仙蔵の名前を呼んで、留三郎は笑う。
「彼女を幸せへと導く事が、伊作が幸せになることに繋がると思うか?」
 仙蔵は何も言わない。否定も肯定も。
「俺は、伊作を幸せにしたかった。子供の顔すら見れなかった…子供がいたことも分からなかった馬鹿な男だけど、それでも、幸せにしたかったんだ」
 ねえ、留さん。
 柔らかく呼んでくれる声が好きだった。自分を呼んでくれる時の笑顔が好きだった。ただ一つ、帰る場所だった。
 幸せに出来なかった事を悔やんで、引き摺って、男だけのウェディングドレス専門店を開いて、生まれ変わっても馬鹿だけれど。
 不安と困惑と全てを綯い交ぜにした表情から、いつもの強い視線を持った留三郎のものへと変わる。
 そして。
「頼みがある」
 仙蔵に、真摯な声でそう言った。





「イサクさん」
「何ですか?」
「何も、思い出せませんか?」
 店への帰り道、大きな袋を持った作兵衛がイサクに尋ねる。そうすると、イサクは「すみません」と小さく零した。
 イサクは何も思い出さない。
 本当に真っ白なのだと思い知る。
 自分を見ても、留三郎を見ても、何も言わない。さっき店を訪ねて来た仙蔵を見ても何も言わない。
 もしも、今のイサクの記憶ではなく伊作の記憶があるのならば、気が付く筈だ。同じ記憶を共有する人間だと。気付かずとも、何らかの反応がある筈だ。
 特に、留三郎に対しては。
 作兵衛の記憶は、曖昧な場所が無い。記憶がある部分と無い部分。その差ははっきりとしている。友人達の話では、留三郎と伊作は卒業して数年経ってから夫婦になったと聞いた。作兵衛は覚えていない。
 けれど、今の留三郎にとって伊作との記憶が大事なものだと分かる。
 口に出した事は無いけれど、不意にスケッチブックに鉛筆を走らせた時にモデルになっているのは、伊作の姿。
 色んなデザインを考えないと、腕が鈍る。
 そう言って、金槌を持っていた手を鉛筆に変えてずっと描いて来たのだ。
 留三郎には幸せになって欲しい。ずっと、思ってきた事だ。自分を、弟みたいに可愛がってくれた肉親に一番近い人。それだけじゃない縁だけれど。
「イサクさん…」
「はい?」
「イサクさんは、どんな人が好きですか?」
「え?」
「いや、どんな男の人が好きなのかなって……」
 作兵衛の口から零れた言葉に、イサクは驚いたように目を丸くする。
「あ、違うんです。うち、ほら、男だけだから女性の意見も必要で、その、あの……」
「あ、彼女へのプレゼント?」
「へ?」
「さっきの花屋さんのお嬢さん、作兵衛君の彼女さんでしょう?」
 そんな事は一言も言っていない。そんなオーラを出していたのかと慌てる作兵衛を見て。
「……救急箱」
「え……?」
「あ、そんなもの、女の子は貰って喜ばないですよね……でも、何でだろう。作兵衛君から貰うなら、きっと救急箱が嬉しいんじゃないかって思ったんです…」
「それは、イサクさんが貰って嬉しいものですか?」
 年頃の女性にはおおよそ必要の無いもの。確かにあの子なら喜ぶかもしれない。花屋の仕事は何かと指先を痛める事が多い上に、結構な重労働だ。それでも、一般的な意見ならば貴金属等が上がる筈。
「いや、僕は…あんまり、ものに執着がなくて」
 そんな状態で、救急箱なんて言葉が上がる筈が無い。
 作兵衛は見えた一筋の光に、ありったけの希望を詰め込む。
「……あ、でも、一つだけ」
 イサクは、似合わないかもしれませんが、と一つ付け足してから。
「好きなものがるんです」
 といたずらっぽく笑った。





 イサク、と言う女性は所謂好物件と言うヤツだった。
 美人でスタイルも良く、性格は柔和で温厚。たまに怒る事はあるけれど、それは誰の為だ。
 家事は得意な方だと言うのは間違いないらしく、料理は上手で、裁縫の関係も店の事も手伝えるくらいの器用さだった。
 本当に、記憶が無いのが残念だとしか言い様が無い。
 きっとイサクが記憶を取り戻せば、伴侶となるべき人間が待っていて幸せになれるだろう。
 どこかで、イサクを幸せにする人が待っているのだろう。
 それが、自分でないのが一つ心残りだけれど。
 仙蔵の言葉で知った、自分が残した人の人生。
 前向きな彼女の事だから、きっと、別の誰かと人生を歩んでくれると思っていた。
 自分が死んだら、泣いてくれるだろうとは思ったけれど、吹っ切って幸せになってくれたと思っていた。
 それなのに。
 留三郎はあまりミシンが好きではない。ミシンを使った方が効率的だと言うのは分かっているが、自分が作るものは大概手縫いだ。
 細々としたものを作る事が多い所為もある。だからと言って刺繍が好きな訳ではない。ただこうして、針と糸で黙々と縫う作業が好きなのだ。
「何を作ってらっしゃるんですか?」
 ことり、と作業テーブルに置かれたカップ。温かい湯気と一緒に珈琲の香りが立ち上る。
 驚いたように顔を上げると、そこにはイサクが笑っていた。
「寝ないのか?」
 今日、こちらの店で寝るのは留三郎の番。イサクには、比較的綺麗な留三郎の部屋を明け渡し、作兵衛の部屋で留三郎と作兵衛が代わる代わる寝ていた。
 作兵衛は昨日徹夜でドレスを一枚仕上げたばかりなので、ゆっくり寝てもらいたい。
 いつもならリビングで時間を過ごすが、今日はこうして店の方で作業をしていた。
「寝ようと思ったんですが、灯りが見えたので」
 店の全てに灯りを点けている訳ではないけれど、作業場には手元で作業する分には十分の灯りが点いている。それをイサクが見つけたとしてもおかしくは無い。
 イサクは、不思議とこんな間を読むのが上手かった。人との距離のとり方を知り尽くしていると言うか何と言うか。邪魔をしないように、そっと、一番欲しいものをくれるのだ。
 留三郎は、針を針山に刺して手にしていた布の塊に万が一珈琲を零しても被害が無いようにと、隣の椅子の上に置いてからカップを手にした。
「美味い」
 少々根を詰めていた体に温かい珈琲は染み渡る。
「良かった」
 トレイを持ったままイサクは微笑んだ。
 伊作、ならば。もっと遠慮なく「疲れているときは寝る!」とそのまま寝床に連れていかれるだろう。
 柔和で温和であった伊作だが、留三郎や同じ学年の人間には容赦なかった。
 もしもここで、イサクが「早く寝てください!」と自分の首根っこを掴んだのなら、留三郎は引き摺られたに違いない。
 過去の記憶に。
 だが、イサクはどこまでも優しい女性だった。伊作の片鱗を見せない。伊作である筈の素振りを見せない。だから、彼女は伊作ではない。
 彼女が幸せになれる方法があるのなら、協力しよう。
 過去に置いて来た大事な人を幸せに出来なかった償いにも近い、この感情が少し邪魔だけれど。
 それでも、彼女を幸せにしたいのは確か。
 記憶を無くした、真っ白な女性。
 母親の愛情や、柔らかい女性の愛情を知らずに育った自分達に、温かい愛情を少しでも分けてくれた彼女を幸せにしたい。
 幸せになるべきだ。
 留三郎はカップを置いて、じっとイサクを見た。
「食満さん?」
「ちょっと、そのまま後ろ向いて」
「え?」
「頼む」
 少し困った笑顔を見せる留三郎に、イサクはちょっとだけ戸惑うと分かりましたと後ろを向く。
 イサクは基本的にパンツを好む。スカートも似合うのに、と作兵衛が零せば動きやすいのが好きなんですと照れくさそうに笑っていた。
 そんな事を思い出して作業台の上の箱の中からメジャーを取り出し、足から腰、腰から肩の長さを測る。イサクのサイズを書いた作兵衛のメモ帳を見れば早いのだが、生憎それは作兵衛が自室に持って行ってしまっていた。
「あの……?」
「うん、OK。イサクさん」
「はい?」
「明日の朝、作兵衛が起きたら一緒に店まで来てくれるか?」
「そのつもりですけど…?」
 明日も店は開けるのだから、手伝いをしているイサクが店に出てくるのは当たり前だ。不思議そうな顔をするイサクに留三郎はそれ以上言葉を出せずに「そうだな」と肯定の言葉を返す。
 きっと、留三郎の抱えている様々な思いはイサクには伝わらない。伊作を知っていてイサクを知っている人たちは、馬鹿だ、と言うだろう。それも分かっている。
 けれど、それで良いのだ。自分は馬鹿で良い。
「じゃあ、今日はゆっくり寝てくれ。珈琲ありがとう」
「あの、お手伝いできる事があればしますけど…」
「いや、これは、自分の手で仕上げたいから。おやすみ」
「わかりました。おやすみなさい」
 ぺこり、と頭を下げてイサクは店から住居部分の方へ消えていく。
 全ては、明日だ。
 何度も鳴るメール着信の音。何度も鳴る電話着信の音。それを全て無視して留三郎は、ひたすらに針と糸で布と布を繋ぎ合わせていく。
 そうして、どれだけの時間が過ぎただろう。
 留三郎はぷつりと糸を鋏で切り、出来上がった布をひらりと広げる。
 それを、奥にあった胴体だけの布のマネキンに着せ、中二階に上った。探しているのは、この店を初めて開いた日に手に入れたもの。留三郎の一目惚れというヤツだ。
 中二階は基本的に物置のようになっていて、ベールなどの小物を置いている。
 その中に置いていた、一つの小物。それと平たい箱を一つと靴を一足。それらを持つと中二階から降りた。
 窓から柔らかい光が降り注いでいる。この時期には珍しい晴れ間だ。曇天か雨ばかりで陰鬱としていた空気もすっきりとしたものになる。
 いい日だ。
 諦めを覚えたつもりは無い。執着を無くしたつもりは無い。それでも、今日が彼女との別れの日。
 伊作に良く似たイサクとの、お別れの日。
 家族、なんてものを今は知らなかった留三郎と作兵衛に、ほんの少しだけ優しさをくれた彼女を送り出す日。
 きっと、彼女はびっくりするだろう。驚くだろう。もしかしたら、泣くかもしれない。そして、綺麗に笑ってくれれば嬉しい。
 留三郎は滅多に見せない微笑を浮かべて、作業台の上に箱を置き、そして小さなケースを置いた。
 いつか、伊作に渡せたら。そう思っていたけれど、いつかはきっと来ないから。
 だから、彼女に。
 叶わない恋の物語が詰まったものなんて花嫁に差し出すのは申し訳ないけれど。
 そう思いながら、裏に行き珈琲メーカーで珈琲を沸かしていると、凄まじい勢いで扉を叩く音。何事かと思いながらカーテンを捲って扉を開けると、目に入ってきたのは拳だった。
 その拳を見た後、その場に座り込む。殴られた、と理解した瞬間立ち上がり拳の相手を見ると、第二弾を構えていた。
「お前なぁ! 朝一番に来てどういうつもりだ!」
「どう言うつもりはこっちの台詞だバカタレィ!」
 自分目掛けて飛んできた拳をかわし、相手のスーツの胸倉を掴むとごん、と額を相手の額に打ち付ける。
「貴様!」
「何のつもりだ!」
「喧嘩しても構わんが、とりあえず中に入れろ」
 どうやら、早朝の襲来者は一人ではないらしい。
「そうだぞ!」
 別の声が二つ聞こえて、留三郎は眉間に皺を寄せながら。
「何だ…?」
 そう、本気の声で聞いた。
 ここは、ある種の駆け込み寺的存在ではあるが、それは女性の為にあるもので男の為にあるものではない。
 こんなやっと日が昇った時間帯に突撃してくる男の集団など、ただの珍客だ。
「食満先輩!」
「食満さん!」
 思ったより大きな物音だったらしく、住居部分から作兵衛とエプロン姿のイサクが店に飛び込んで来る。作兵衛は突然の来客に目を丸くした後「七松先輩、またスーツ破いたんですか?」と間抜けな事を聞いた。その隣でイサクが「皆さん珈琲で宜しいでしょうか!」と更に上を行く間抜けな事を聞く。
 留三郎は二人に落ち着くように言うが、二人は聞いてはいない。
 その時。
「いさっくん……」
 ぽつり、と声。
 いつもここに来る時は明るく大きな声で入ってくる男が、静かにその名を口にした。
「…仙蔵の言う事は本当らしいな」
「私が嘘を言った事があるか?」
「どの口がそれを言う?」
 隣の男の口をぎりぎりと引っ張りながら、寝ていないのかくまの酷い男が眉間に皺を寄せた。
「お前ら、何があったんだよ」
「何があったはこっちの台詞だ! メールも電話もどうして返事を寄越さない!」
「いや、それどころじゃなくて…」
「それどころじゃなくて、は私達の台詞だ。ともかく、これを……」
 鞄から何かを取り出そうとした瞬間、目に入ってきたのは。
「…………」
 言葉を奪うには十分のもの。
 特殊加工した窓から入り込んだ光が照らすのは、柔らかなシルエット。
 マネキンが着ていたのは、見紛う事なきウェディングドレスだった。
「食満先輩、これ…」
「俺が作った。まあ、趣味で作ったようなもんだから、お代は頂け無いけど」
 その言葉に作兵衛が動いて、ウェディングドレスに近付く。
 生地はシルクシャンタンの光沢を帯びたものだ。ラインはマーメイド。袖の無いタイプのドレスで、背中は大きく開いている。これといった装飾は無いが、トレーンが取り外しが出来るものになっており、シフォンジョゼットで出来たロングトレーンが靡いていた。そのトレーンの腰に来る部分に、淡いシャンパンゴールドのシフォンジョゼットで出来た薔薇を模したような飾りがバックコサージュのように付いている。
「イサクさんの、ですね」
 ドレスをみた作兵衛がくるりと振り返り、留三郎を見てそう言った。
「まぁな。と言うわけだ、イサクさん」
「え?」
「分かったんだ。君の情報」
 それは、留三郎が仙蔵に頼んだこと。
 イサクの情報を調べてくれ、と。
 仙蔵に頼むと言う事は、忍術学園の仲間に頼む、と言う事。
 ここに来て、自分を殴った文次郎やイサクを昔の呼び名で呼んだ小平太もその一人。仙蔵は鞄から書類を出そうとして、そこで止まっている。
「君は、捜索願が出ている。家は、ここから随分と離れた場所だよ。ご両親も結婚する男性も君を探している。まだ、連絡は取っていないけど、今日、するつもりだった」
 イサクの情報は直ぐに入ってきた。こう言う時、公務員の後輩がいるというのはありがたかった。
 最初から頼んでいれば、直ぐにイサクの情報は手に入っただろう。それをしなかったのは、留三郎の我侭。イサクとの時を過ごしていたかった、我侭。
 家は、ここから離れた雪深い地方にある事。
 結婚の予定があって、近く結納を済ませる筈だった事。
 それだけなら、迷う事無くイサクに告げられただろう。情報が入った事を。けれど、どうしても渡したいものがあったから出来なかった。
 名前を聞いた途端、出来なくなった。
「君の名前は、善法寺伊作。まぐれだけど、名前は当たってみたいだ」
 顔も名前も声も、何もかも同じ女性。
 だから、誰もがその女性は伊作だと言った。間違いなく留三郎が会いたがっていた伊作だと。
 それでも、伊作には幸せになる道が見えている。自分のいるべき場所に戻れば、幸せが約束されている。
 そんな女性に、ましてや、記憶を持たない女性に、過去から引き摺っている自分の気持ちを伝えることなんて出来なかった。
 作兵衛は分かっているのか、ぎゅ、と唇を噛み締める。
「これは、俺からのお礼だ。美味しい料理作ってもらったり、店、手伝ってもらったり。あ、もし和装だったら連絡くれると嬉しいんだけど。白無垢でもお色直しでも出来るだけの事はしたいから」
 笑ってそう告げる留三郎を見るのは、泣きそうな瞳。
 喜んでくれたかな。もしかしたら、他のデザインが良かっただろうか。本人の意思を聞かず作ってしまったドレス。店のポリシーに反するドレスになってしまったかもしれない。
 それでも、伊作に出会えたらこんなドレスを作るんだと思っていたから。
「……イサク、さん?」
 僅かに震えながら、イサク――伊作は「帰りたくないです」と呟いた。
 それは、驚くしかない言葉。
 自分の情報が欲しいと言っていた伊作。名前も帰るべき場所も分かったのに、それなのに。
「ごめんなさい、ご迷惑ですよね」
 何も返さない留三郎に、伊作は目一杯の笑顔を浮かべてそう言った。
「あ、いや、あの……」
「僕、帰ります。自分の家に」
「それは、どうかと思うがな」
 そう言ったのは、仙蔵だった。
「これを見ろ」
 留三郎に差し出したのは、鞄の中から取り出した書類。
「あながち、彼女の帰りたくない発言は間違っていないのかもしれないぞ」
 仙蔵から手渡された書類を見て、留三郎は目を見開く。それから目を泳がせて、口元を手で覆った。
「どうしたんすか、食満先輩」
 作兵衛がドレスから離れて留三郎に近付くと、書類を覗き込む。そして、留三郎と同じポーズを取った。
「それから、二枚目」
「二枚目?」
 書類には二枚目があった。留三郎と作兵衛が二枚目の書類を見ると、そこには。
「ど、どう言う……!」
「少なくとも、お前たちの為じゃない」
 文次郎がふんと鼻を鳴らして。
「どっかの馬鹿が不運に不運を重ねて阿呆な方向に言ってるから、見てられなかっただけだ」
「あ、一番頑張ったのは文次郎だぞ! だって、あの曲者と手を組んだからな!」
 何事も無かったかのようにそう言った後、小平太がにっこりと笑ってそう言った。
「は……?」
「雑渡昆奈門。覚えているだろう? 面白いことに文次郎が探し出して頼み込んだんだ」
 覚えのある名前。学園の関係者ではない。けれど、伊作にとっては関係者で間違いは無い。昔は曲者なんて呼ばれた二周り近く年上の凄腕の忍だ。
 その名前が、今出てくる理由が分からない。
「仙蔵!」
「面白かったぞ。昔も見た事が無いくらい切羽詰って…」
 文次郎が顔を真っ赤にして仙蔵の首を絞める。
「小平太、どう言う事だ?」
 不意に話を振られた小平太は、それ?、と首を傾けてから。
「いさっくんのお里の問題なー。曲者が捻じ伏せた!」
 あっけらかんとそう言った。
「捻じ伏せただと!」
 おおよそ、伊作の家の問題は素人がどうこう出来るレベルではない。一流企業に勤める仙蔵や文次郎でも無理な話だ。
 一体、あの曲者は何をしているのだろう…
 そう思っていると。
「あの……」
 不安気な声。
 そうだ、この状況で一番不安なのは留三郎でも作兵衛でも無く、当事者である伊作だ。
「僕、どうなるんですか…?」
「いや、あの、その……」
 どう伝えれば良いのだろう。
 ただ分かるのは、伊作にはこの店のウェディングドレスが必要だったこと。
 涙を捨てて幸せにならなければならなかったと言う事実。
 どう見ても、どう考えても、いやもしかすると伊作にとっては幸せだったかもしれないけれど、それでも世間一般から見れば、伊作の結婚は「政略結婚」だった。
 過去の記憶の中であるならば、それはありふれた事で気にも留めなかっただろう。むしろ、自分達の意見が尊重された留三郎達は幸せだった方だ。
 だが、今の伊作に降りかかっているのは、一回り程年齢の違う男性との結婚話。それが、格式ばった家同士が決めたなら仕方ない部分もあるが、伊作は中小企業のお嬢さんで、相手はそこに融資している地方銀行の役員の息子。玉の輿と言えば聞こえは良いが、伊作の家は不況で経営が悪化しており、どこの銀行にも融資を断られその地方銀行だけが首を縦に振ったのだ。
 それだけで、事の顛末が分かってしまう。
「調べた所、有名な馬鹿息子だ。ちなみにバツイチ。理由は自分の浮気」
 首を絞めていた文次郎を振り払って、仙蔵が淡々とそう告げる。
「善法寺、と言ったな?」
 文次郎は大きく息を吐いて、伊作を見た。
 その姿は、文次郎の記憶の中にある伊作そのものだ。本当なら名前を呼びたいところだが、ぐっと堪えて。
「戻る事を考えているなら直ぐに戻ると良い。記憶が無くても自分が育った土地なら、やっていけるだろう。それに、このまま何の連絡も無しにここにいると、この馬鹿が誘拐犯になる」
 誘拐犯。その言葉に伊作は顔を青くする。
 その顔を確認して、あるいは、と繋げた。
「ここに留まるのなら、それも可能だ。こいつは馬鹿だが人間としては出来ている方だ。それに、こんな少女趣味満開の店に女性が一人もいないと言う状況も見苦しい」
「文次郎!」
 褒めているのか貶しているのか分からない文次郎の言葉に、留三郎は声を荒げる。
「何だ、お前はこの女性に留まって欲しくは無いのか?」
「…そ、それは……」
 仙蔵がちらりと留三郎を見ると、もごもごと口篭った。
 本当は、いて欲しい。
 伊作との生活は楽しかった。
 毎日美味しい朝ご飯を作ってくれたり、自分のシャツにアイロンをかけてくれたり、美味しい珈琲を入れてくれたり、買い物袋を持って返って来る姿を見るのが嬉しかった。
 無くした未来の先を手に入れたようで、楽しかった。
 ドレスを作ったのは、未練を断ち切る為。誰かのものになる女性を好きになる事を断ち切る為。
 伊作への思いを断ち切るのではなく、目の前にいる女性に抱いた恋心みたいな気持ちを沈める為。
「……留三郎は、何を考えてるんだ?」
 酷く不思議そうな小平太が留三郎を見る。
「何をって…」
「だって、いさっくんがいるんだから。何か問題でもあるのか?」
「問題は山積みだろうが! 家の事とかそんなの色々!」
「それは、私達が引き受けるぞ?」
「え……?」
 小平太は、お日様みたいに笑うと。
「家の事は曲者が捻じ伏せて問題ないし! 料金も保健委員会割引適用だから何とかなるし! いさっくんのお里がこっちに引っ越すのも視野に入れてるし! それに何より私達がいるじゃないか!」
 色んな問題発言を含みながら、一番力強い言葉をくれた。
 そう、ここには仲間がいる。血の繋がりより繋がりの深い仲間が。
 けれど、それだけで伊作の人生を決めて良い訳じゃない。留三郎や仲間の思い込みで、伊作の人生を左右する権限は無い。
 けれど。
「そういう訳だ、善法寺さん。貴女次第だ。貴女がこの店に残りたいのなら何一つ問題は無い。どうする?」
 仙蔵の言葉に、伊作はぎゅっと拳を作って。
「僕は……」
 ぽたり、と伊作の瞳から涙が落ちた。
「ここに、いたいです…」
「伊作さん……」
「食満さんも作兵衛君も、凄く良い人で、記憶の無い僕に優しくしてくれて…記憶が無い僕にとってはこの店が全ての世界なんです」
 なあ、伊作。
 留三郎はぎゅっと胸の辺りを掴む。
 なあ、伊作。俺は、お前を守ってやれなかった酷い男だけど、子供を抱き上げることも出来なかったどうしようもない男だけど、お前が好きだった気持ちは間違いない。だけど、お前に良く似たこの人を好きになっても良いか? お前を幸せに出来なかった分、目の前のこの人を幸せにして良いか?
 答えなど返って来ない問い掛けを繰り返して、留三郎は歪に笑うと。
「…伊作さんの答えが出るまで、ここにいてくれると嬉しい」
 ほろりと解けるようにそう言った。
「記憶が戻って家に帰りたいなら、家に帰れば良いと思う。でも、今の状態が一番だって言ってくれるなら、ここにいて貰いたい」
 それが、本音。
 きっと、家に戻れば違う形の幸せは待っているだろう。それでも、この店が良いと言ってくれるならその言葉に甘えたい。
「…いいんですか?」
 震えるような声。
「もちろん。いいよな、作兵衛」
「あ、はい! それに、俺もいつまでもこの店にいられる訳じゃないですしね」
「え……?」
 驚いた顔をする留三郎に、作兵衛はちょっと照れたように笑う。
「俺が出て行ったら、一緒に住んでくれる人が必要でしょう?」 
「お前……」
「俺だって家族なってくれる子がいるんですよ!」
 そうだった。作兵衛には家族になってくれる子がいる。自分達は一人じゃない。それを思い知らされた。
「そういや、お前達仕事は?」
 今日は平日だ。出勤前だったのだろうか。スーツ姿の三人を見て留三郎は尋ねる。
「今日は休みを取った」
「へ?」
「昨日から走り回って仕事の準備などしていない」
「は?」
「やー、朝一の新幹線で帰ってこれて良かったぞ!」
「え?」
 何となく文次郎の目のしたのくまが濃いのや、疲れている仙蔵の表情、小平太の伸びた髭は気の所為じゃないらしい。
「お前等……」
「あ、僕、珈琲入れます!」
 伊作がごしごしと目を擦って裏へと飛び込む。それと同時に作兵衛が着替えてきますと住居部分に戻った。
「どういう風の吹き回しだ…」
 正直、どうしていいか分からない。
 自分や伊作の為に走り回ってくれたのか分からない。 
「……彼女が伊作で無かったとしても、彼女を放っておけなかった」
 仙蔵が緑のソファに腰を下ろすと、大きく息を付いてそう言う。
「お前は、伊作の死に際をしらないだろうがな」
 文次郎が仙蔵の隣に座った。
「俺達に言ったんだ。お前のところに行っても良いか、とな。子供が育って親の手が必要なくなって、俺達もいい歳になって。あいつの執着がお前だけになって、……死ぬ間際にそう言ったんだ」
「そうだぞ。だから、私達は不運が起きて留三郎に会えないなんて事が無いように、お地蔵様にお祈りしたからな!」
 その小平太の言葉を聞いて、「祈る神を間違ったかもしれん」と文次郎が眉間に皺を寄せる。
「前は伊作に世話になったしな。恩返し、と言うのも変な言葉だが。それに…」
 三人の視線が留三郎に集まった。
「何だよ…」
「お前への恩返しでもある」
 仙蔵ははっきりそう言った。
「俺……?」
「お前がこの店を始めなければ、こうして集まることも無かっただろう。お前みたいな馬鹿がいたから、こうしてまたくだらない話が出来る」
 この店がなければ、きっと、誰一人自分の記憶を語ることは無かっただろう。記憶と認識すら出来なかったかもしれない。
 再び巡り合えたのは、この店のお陰。
 戦いばかりの時代から、違った意味で戦いばかりだけれど命を奪い合う場所じゃないこの時代に持ってきた記憶を肴に酒を呑む事が出来るのは、この店のお陰。
「だから、私達がした事に何か感じるのであれば」
「あれば?」
 ふん、と文次郎が鼻を鳴らして。
「貴様が幸せになれ」
 そう言い放った。
 それには、自分達は十分に幸せだから、と聞こえた気がした。
 何とも言えない空気がその場所を包む。そうすると、柔らかな珈琲の香り。
「あの、珈琲の好みが分からなかったので…」
 そう言いながら伊作がテーブルの上に四つの珈琲を置く。それと一緒にミルクポーションと角砂糖を持ってきた。
「私は、ブラックのミルクのみ」
「無糖だ。ミルクはいらん」
「砂糖だけ! ミルクはいらない」
 きっと、この店に来ることは増えるだろう。
 彼女はこの店に掛け替えの無い人物になるだろう。
 だから、覚えてもらいたい。自分達の好み。
「分かりました。あの、お一つお聞きして良いですか?」
「何だ?」
「どうして、皆さんは…食満さんの為なら分かるんですが、僕の為にまで…」
 伊作にしてみれば、初対面の人間達が自分の為に駆けずり回ったのが不思議でしょうがないのだろう。
 その言葉に、三人は声を揃えて。
「人徳!」
 そう言った。
 そんな五人の下まで、役所に行っていた長次が婚姻届を持ってやってくるまであと少し。





「気に入ってくれたか?」
 ドレスを見ている伊作に尋ねると、はい、と柔らかい声が帰ってくる。
 伊作の両親には、きちんと連絡を入れた。ここの住所と自分の素性、そして伊作に記憶が無いこと。話すと両親は驚いていたけれど、仙蔵、文次郎、小平太、長次、そして雑渡昆奈門の名前を出すと泣きながら感謝の言葉を伝えて来た。
 やはり、結婚の話は政略結婚で泣く泣く娘を手放すところだったと言っていた。しかし、その話は昨日の時点で破談となり、伊作の両親の会社は倒産手続きを取るそうだ。そして、新しい土地で一からやり直すという旨を聞いた。
 どうやら、雑渡昆奈門はこの時代に弁護士をやっているらしい。腕は確かだが、清廉潔白であるかどうかは分からないとは文次郎の言葉だ。
 記憶も所有しているらしく、今度この店に来るとの事。新しい副業の顧客が増えるのは間違いないだろう。
 そんなこんなで、当分の間伊作を預かることになった。
 伊作が強く望んだのもあるし、こちらの方に記憶喪失などを扱う医者がいる事も理由の一つだ。
 少しずつ思い出していけばいい。
 時間はきっとまだあるし、伊作が帰りたいと言えば帰すつもりでいる。
 望んだ形とは違う結果だけれど、こんな凪いだような時間も悪くは無い。
 本当なら、伊作に過去の記憶があって運命的に出会えて添い遂げられるのが一番だけれど、そんなに上手く行かない事を知っている。
「あ、そうだ。これ」
「え?」
「このドレスに似合うと思うんだ」
 留三郎が手にしたのは、作業台に置いていた小さな箱。中二階から探し出したものだ。
 中を開けると、綺麗なネックレスが入っていた。
 真珠のネックレスのように数珠繋ぎになった丸く白い宝石。所々に淡い黄色が走っている。
「綺麗ですね」
 少なくとも、伊作はこんな綺麗な石を見た事が無かった。ただ、所々に走る黄色が何かを思い出させるけれど。
「これ、ロイヤルアンバーって言うんだ」
「ロイアヤルアンバーって…」
「そう。この店の名前。まあ、花嫁さんにはちょっと不似合いな石かもしれないけど」
「どうしてですか? こんなに綺麗なのに」
「人魚姫の話があるだろう? あれのモデルになった女神様の涙って言われてる。けど、護り石だし、いいかなって」
 この店の名前を決めて、宝石店で見つけたもの。
 いつか、このネックレスを渡せたらいいな、と思いつつ手に入れたものだ。
「どうした?」
「いえ、僕の好きなものに似てるなって」
 まじまじとネックレスを見ていた伊作がふと零す。
「好きなもの?」
 伊作は自分の好みを口にしたことは無い。伊作も自分が零した言葉に気が付いたのか、何でもないです、とそのまま俯いてしまった。
「言ってみろよ」
 これから一緒に暮らしていくのだ。好きなものを一つ位知っておきたい。
「まあ、この石はボーン、バタースカッチ、オリーブ、何ていう種類もあるけど…」
「こはく」
「え?」
「琥珀。好きなんです。この前作兵衛君にも話したんですが、昔から好きで。二十歳のお祝いの時にペンダントを買ってもらいました」
 似合わないと思うんですが。
 照れくさそうに笑って、伊作は留三郎を見る。
「あのさ…」
「はい?」
「これ、琥珀…」
「え?」
「アンバーって琥珀の事で…ロイヤルアンバーはその中でも希少な白い琥珀の事なんだ」
 何時だっただろう。
 少なくとも今の記憶ではない。前の記憶だ。
 琥珀が護り石だと知って、伊作に贈った。少しでも伊作を護ってくれるようにと。南蛮から伝わったと言う小さな石を贈った。
「伊作さんが好きな石なら、良かった。この石は、きっと、伊作さんを幸せにしてくれる」
 伊作が琥珀を愛してくれたのは分かる。自分達の子供に付けた名前だ。見ることの叶わなかった我が子の名前。
 その石を目の前の女性も好きだと言ってくれるのは嬉しかった。
 少し目を閉じて、ゆっくりと開くと、そこには目にたくさんの涙を溜めた伊作の姿。
「伊作さん?」
 どうしたのだろう。何か気に障る事でも言っただろうか。
 留三郎が慌てると、伊作はにっこりと目を細める。
「ねえ、留さん……」
 震える声で、名前を呼んだ。
「話があるんだ。帰ってきたら、話そうと思ってたんだ。でも、帰ってこなかったから、今、言うね。子供が生まれたんだよ。留さんに似た男の子。琥珀って名前付けたの。戦忍なってね、忍術学園の先生になったんだ。琥珀は、僕を幸せにしてくれたよ、ずっと、ずっと」
 ぐしゃりと歪んだ笑顔。
「留さんの言う通り、琥珀が幸せにしてくれたんだ。だから、留さんがいなくても大丈夫だったよ」
 頭が真っ白になった。
 今見ているのは白昼夢? それとも何かの幻?
 目の間にいるのは、記憶喪失の女性で、記憶は無くて、だから、過去なんて分かる訳なくて。
 それでも。
「伊作……?」
 がちがちになった指で、そっと目の前の伊作に手を伸ばす。
 涙が指先を濡らして、温もりが伝わって来た。
「……馬鹿だよねぇ。ロイヤルアンバーのドレスを着た花嫁は幸せになれるって話を聞いて、家出して、ここに来た時すっ転ぶなんて。不運はね、相変わらずなんだ」
 伊作の口から零れるのは、留三郎が知らない真実。
「絶対に結婚なんかしたくなくて、留さん探したけど見つからなくて、どうしようもなかった時に、封筒が届いたんだ。もう、どうにでもなれって……留さん?」
 俯いたまま動かない留三郎の顔を伊作がゆっくり覗き込む。
 そうすると、留三郎は力いっぱい伊作を抱きしめた。
「おまっ……記憶っ…、」
「今思い出したんだ。留さんが、同じ顔して言うから」
「何、を?」
「この石はきっとお前を幸せにしてくれる、って。だから、ずっと大好きだったんだ、琥珀」
 ほろほろと崩れた伊作の記憶を覆っていたもの。
 琥珀が、この店の名前が呼び起こした、安っぽい言葉かもしれないけれど、留三郎にとっては間違いなく――奇跡。
 もう一度会いたいと願って付けた店の名前。
 悲しい逸話を持つ石だけれど、愛を咲かせる石として護り石になっている石。
 それが、琥珀。
 最初は、アンバーだけのつもりだった。けれど、調べて見つけたロイヤルアンバーと言う乳白色の石を見て、それに決めてしまった。
 この事は作兵衛にも言っていない。
 きっと、幸せにしたい誰かがいたのは二人とも同じだったけれど、申し訳ないと思ったけれど付けてしまった名前。
「ねえ、留さん」
「……んだ?」
「僕、ここにいていいかな? それでね、このドレス着て良い?」
 伊作の手が留三郎の背中に回る。
「この店のドレス着たら、幸せな花嫁さんになれるんだよね?」
「……ちょっと、違う」
「え?」
「涙を、捨てたら…幸せになれるんだ。だから、もう泣くなよ…」
 この店のドレスが、幸せに繋がるのはその為に涙を流しているから。たくさんの涙を捨てて、そうして前を向いて幸せになれるのだ。
 伊作にも、涙を捨てて欲しい。
 自分のいなかった月日に流した涙も、不条理な事に流した涙も、全部、全部。
「留さんが泣いてるからじゃないか」
「うるせぇ…っ」
「留さんがいるのに、留さんが、とめ……っ」
 しゃくりあげるよう泣きながら留三郎の肩に顔を埋める伊作を、ぎゅっと抱きしめる。
 それだけ泣いたら幸せになれるのかなんて分からない。
 けれど、きっとたくさん泣いてお互いがお互いを思った分だけ泣いたら、きっと。
「伊作」
「ん?」
「ありがとな……」
 伝えたい言葉はたくさんあったけれど、今はそれだけを。
 自分を待っててくれてありがとう。
 自分を愛してくれてありがとう。
 この店に来てくれてありがとう。
 記憶を取り戻してくれてありがとう。
 ありがとうと言う言葉がゲシュタルト崩壊しそうなほど、何度も呟くと。
「お前が、生まれてきてくれて、良かった」
 伊作の肩に顔を埋めて、ちっぽけな奇跡に感謝した。







 その店は、オフィス街の中にある。
 ビルとビルの隙間を抜けると開ける箱庭のような場所。
 店の扉を開くと、いらっしゃいませ、と柔らかい声がする。
 柔和な雰囲気を持った女性が、そっとソファまで案内してくれる。
 そして、赤みがかった髪の少年が美味しい紅茶を淹れてくれて。
 目の前には、少し怖い印象の青年がスケッチブックを持って座っている。
 そして言うのだ。

 涙の訳を聞かせてください
 この店は、涙を捨てる店です。
 幸せになる為に、涙を捨てる場所です。
 だから、たくさん泣いていいんですよ。
 紅茶はいかがですか? 気分を落ち着けてくれますよ。
 お話を聞いたらドレスを作りますから。
 ああ、そうだ。言い忘れていました。





 ようこそ、ロイヤルアンバーへ






頑なな青年に愛を







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