白く、白く、白く。
 それだけを願っていたのに。







 今日は少し肌寒いな。
 そんな事を思いながら、留三郎はカウンターを磨く。この年代物のカウンターは、こまめに手を入れなければ直ぐに色褪せてしまう厄介なものだったが、留三郎も作兵衛も気に入っていた。
 基本的にこの店の客は少ない。
 宣伝をした事も無いし、電話帳に電話番号も載っていない。もちろん、ホームページも持っていない。そんな店でも細々とやっていけるのは、本業以外にもぼちぼちやっているからだ。
 主に依頼してくるのは友人達で、しかも結構値段が張るものばかり頼んでくれるので助かっていた。ありがとう、と言ってもその言葉を受け取らない天邪鬼が多いので、その分依頼してくれたものに心血を注いで作っている。
 そんな副業すらない時は、基本的にこうして掃除をしているか、スケッチブックに向かうかのどちらだ。
 留三郎の本業はデザイナーだ。留三郎のスケッチブックは既に三桁を越していて、中二階の一角はスケッチブックで塞がれている。捨てようと思うのだけれど、この店を訪ねて来た女性達の思いを無碍には出来ず、溜まって行く一方だった。
 この店のウェディングドレスを着た花嫁は必ず幸せになれる。
 そんな噂が実しやかに囁かれているが、強ち嘘ではない。正確には、涙を捨てる店、なのだが。
 泣いた分だけ。
 流した涙の分だけ。
 それが、辛い事であればある程、幸せに繋がっていく。
 だから、涙を捨てて、笑顔でウェディングドレスを着て欲しい。
 ウェディングドレスは、幸せの象徴だ。留三郎はそう思っている。そう思っているからこそ、その人に似合うウェディングドレスをデザインできるのだ。
 深い緑の柔らかな布地が張られた年代物のソファに座らせて、作兵衛の淹れた紅茶を飲んでもらって、そうして涙の訳を聞く。そうすれば、自然とウェディングドレスのデザインが浮かんでくる。
 それは、その人の為だけのドレス。他に同じものなんて作る事は出来ない。そんなウェディングドレスのデッサンを捨てるなんて出来なかった。
 きゅっきゅ、きゅっきゅ。
 カウンターを磨きながら、新たなウェディングドレスを想像する。
 今のところウェディングドレスの仕事は来ていないが、常に鍛えておかねばいざと言う時使い物にならない。
 うんとロマンティックな物を作ろうか。
 いや、シンプルに流れるように。
 クラシカルなラインも捨てがたい。
 そんな事を考えていると。
 ちりんちりんと、ドアベルが鳴る音。
 買い物に出た作兵衛が帰ってきたのだろうか。そう思って扉の方を見ると、一人の少女が立っていた。
「あの……」
 小さな声でそう言うと、不安そうに留三郎を見る。
 留三郎は、お世辞でもこの店のオーナーには見えない。ここが設計事務所で、一級建築士の資格を持っていると言った方が納得は行く。確かに一級建築士の資格は持っているが、この店を建てる為に取ったようなものだ。
 だが、そんな資格、今は関係ない。むしろ、どちらかと言えば柔和な雰囲気が欲しい。
 この少女趣味な店に不釣合いな留三郎を怖がる女性は少なくなかった。この少女のように。
「どうしたんだ?」
 声が震えていないだろうか。
 留三郎は勤めて冷静に柔らかい声を絞り出す。
「ここ、ロイヤルアンバーさんで間違いないですか?」
「そうだよ」
 ロイヤルアンバー。それがこの店の名前だ
 その名前を口にした女性の目的は、確実にウェディングドレス。おそらく、この扉を開いた少女の目的も。
 一瞬、それ以外ならいいと思ってしまったけれど。
「良かった」
 ほっと胸を撫で下ろして、少女は笑う。
「入りなよ」
「あ、はい」
 留三郎の言葉に、少女はそっと足を店内に踏み入れる。そうして何かが無いことに気が付き、あわあわと慌てると辺りを見回した。
「どうした?」
「あの、すみません、ぼくの近くに杖が落ちていませんか?」
「え?」
「扉開けた時に手から離れたみたいで……」
 そう言う少女から少し離れた場所に白い杖が落ちていた。留三郎はそれを拾い上げると、少女の手に握らせる。
「ありがとうございます」
 少し困ったように眉を八の字にして笑うと、杖で周りの感覚を確かめると少女は足を踏み出した。
「手、貸して?」
「え?」
「ここ、結構ごちゃごちゃしてるから。ソファまで案内するよ」
 そう言って少女の手を取り、ソファまでゆっくりと連れて行く。そして、少女を座らせると、はた、とあることに気が付き。
「ごめん、いつも茶を淹れてくれるヤツが今いなくて……珈琲飲めるか?」
 紅茶の淹れ方は、留三郎は良く分からない。珈琲メーカーで淹れた珈琲ならさっき淹れたばかりだ。
「はい、大丈夫です」
「じゃ、ちょっと待っててくれ」
 カウンターの奥の簡単な給湯室で珈琲をカップに移す。基本的に留三郎はブラックだったが、少し考えてから牛乳を温めて砂糖を入れると、濃い目に抽出した珈琲をそれで割った。
「すまない、待たせたな」
 かたんと少女の前にコーヒーと言うよりカフェオレに近いそれが入ったカップを置くと、留三郎はテーブルを挟んだ椅子に座る。
「この店に来たって事は、ウェディングドレスが必要なんだろう?」
「はい……」
 スケッチブックを開くのが重い、なんて初めてだ。緩慢な動作でスケッチブックを開いて、鉛筆を持つ。
「それで、お願いがあって…」
「どんな?」
「緑色のウェディングドレス、作っていただけ無いでしょうか?」
 少女の言葉に、留三郎は固まった。
「み、…緑色?」
「はい……」
「お色直し用のカラードレスって事でいいのかな?」
「いえ、ウェディングドレスです」
 基本的にウェディングドレスは白い。確かにカラードレスがあるが、それは大体お色直しで使われる。
「ウェディングドレスが白いものだって言うのは分かってるんです。でも、どうしても緑色のウェディングドレスが欲しくて……」
 予想外だ。
 今回の依頼人は、全てにおいて予想外だ。
 何から何まで、どうして良いか分からない。
 この少女を幸せにするための、ウェディングドレスが思いつかない。
 と言うより、この少女の幸せな姿が、思い描けない。
 隣に立つ男が、どんな男なのか。それから思い描かなければならない。
「緑、………」
「すみません…変な事言い出して…」
「いや、変な事じゃないけど、それは早急に必要なもの?」
「いえ、半年後なんですけど」
「半年後……」
「はい」
「じゃあ、半年後に結婚式を挙げるのか?」
 留三郎の問いに、少女は曖昧な笑みを零す。否定は無い。肯定も無い。けれど、半年後。その言葉が指先に伝わって、尚更鉛筆を持つ手が緩慢な動きを見せる。
「こんなお願いじゃ、ウェディングドレスは作って頂けないですよね」
 留三郎の困惑した空気を察し取ったのか、少女はまた困ったように笑った。
 困らせたいわけじゃない。むしろ、幸せにしたい。
 いや、その前に確かめたい事がある。
 留三郎は、ぱたん、とスケッチブックを閉じて。
「あのさ……」
 からからに渇いた喉で、静かに尋ねた。





 ちりんちりん、とドアベルが鳴った。
 いつもなら見送ったりなんなりするのだが、今日は出来なかった。
 真っ白なスケッチブックを見て、留三郎は溜め息を付く。
「参ったな……」
 どうすればいいのだろう。どう説明すればいいのだろう。
 緑色のウェディングドレスなんて作った事が無い。どう作っても、お色直し用のカラードレスになってしまう。
 それ以前に。
 あの少女が結婚する事を、どう説明すればいいのだろう。
 ウェディングドレスが欲しいと言った。しかも、半年後。期限が明確な依頼は大体結婚式まで話が進んでいる場合だ。
 あの少女は、結婚する。
 それを、どう、伝えればいいのだろう。
 椅子の背もたれにもたれかかって、天井を仰ぐ。そうしてゆっくり目を閉じた。
 あいつ、どうするかな。
 真面目なあいつの事だから、デザインすればちゃんとドレスを仕上げるだろう。仕上げたあと、あいつは、前のようになってしまうのではないか?
 前、と言うより、過去、のあいつに。
 あいつがあの子を失った時は、声なんてかけられなかった。
 じわじわと忍び寄り訪れた絶望を、あいつは受け入れて、そして留三郎から見れば壊れていった。
今は時代が違うと分かっているけれど、確実に壊れる。あいつは、壊れる。人の幸せを願いながら壊れていく。
 どうして。
 今まで上手く行ったじゃないか。
 縁を結んで、ネットワークを広げて、そうして過去を共有してきたじゃないか。
 あの少女に過去があるようには見えない。過去の自分があるようには見えない。純粋に今の記憶しか無い普通の少女だ。
 ……残酷なものだ。
 留三郎は、彼女の残していった名刺を見る。
 三反田数馬。
 作兵衛と歳の変わらない、菫色のやわらかな髪の少女。
 あの時のままの、姿の少女。
 作兵衛にどう伝えたら良いんだ。
 買い物に出たまま帰らない作兵衛の事を考えて、留三郎は深い深い溜め息を付いた。





 驚くほど、冷静だった。
 目の前に差し出された名刺を見て、そうして作兵衛は「あいつ、でしたか」と無機質な声で零す。
その言葉に留三郎は、ああ、とも、違う、とも返せずにいた。
 この店に来た少女の名前は、間違いなく三反田数馬。名前だけなら、他人だろう、と返せたかもしれない。珍しい名前ではある。だが、全く別人だと言う可能性もあった。しかし、留三郎に依頼をしてきた少女は、菫色の髪の少女だった。自分が知る「三反田数馬」に面影どころかそのものの少女だった。
 けれど、記憶は無い。それは、憶測ではあるけれど、そう感じた。空気が違うのだ。この店に来て「久しぶり」と言った人間達と。
 この店を訪れる客で「久しぶり」と言う人間は少なくない。それは一重に共通の「記憶」を持っているからだ。
 自分自身と言うより「過去」の「記憶」。時代は良く分からない。おそらく、戦国なんて呼ばれる時代。江戸時代じゃないと思うのは、自分達が暗躍する時代ではないからだ。
 ―忍、と言う自分達が。
 正確には、忍ではないかもしれない。いや、確かに忍だった者もいる。しかし、記憶は忍のものではなく、忍になる為の学校に通っていた記憶だ。どこかの山奥にあった、学校。
 その場所に、留三郎も作兵衛も通っていた。今とは違う関係だったが、その名残で作兵衛は留三郎の事を「先輩」と呼ぶ。
 今の関係は、どちらかと言えば兄弟に近い。同じ施設で育った留三郎と作兵衛。親の顔は二人とも知らない。それでも、お互いの顔は覚えていた。それから、十数年。施設を出て二人はこの店で暮らしている。
 ――ウェディングドレスの専門店を開こう。
 そう言ったのは作兵衛だった。
 その言葉が償いなのだと、留三郎は知っていた。境遇は違うけれど、自分が幸せに出来なかった「彼女」が笑ってくれるような気がするから。そんな言葉が聞こえた気がした。
 そうして二人が開いたのがこの「ロイヤルアンバー」だ。
 出来るだけ丁寧な仕事がしたかったのもあり、広告や宣伝は行わず細々と副業をやりつつ続けていた時、誰かが「幸せになれるウェディングドレス」と言い始めたらしく、一気に問い合わせが増えてしまい本来の目的が失われそうになった。
 それを機にオフィスビル街で見つけた箱庭のようなこの場所に移転して、自力でこの店に辿り着けた女性にだけドレスを作る事にしたのだ。
 と言うよりも、この店が呼んだ女性、と言うべきか。不思議なことに、この店に来るのは「絶対に幸せになって欲しい」と願う女性ばかり。それはきっとこの店が呼んだのだろうとは、友人の言葉だ。
 今日来た少女も、確かに幸せになって欲しい少女だ。だが、それは今までとは意味合いが違う。あの少女が幸せなら、目の前の作兵衛もまた幸せになって欲しいのだ。
 作兵衛が、少女の幸せを願うと分かっている。痛いくらいに分かる。それが、作兵衛にとってウェディングドレスを作ってきた意味だからだ。
「作兵衛…あの、な」
「食満先輩」
 静かな、声。
「今回、俺に作らせてもらえませんか?」
「え?」
「デザインから、全て。全部、俺に任せてもらえませんか」
 じっと留三郎を見る顔から感情は読み取れない。けれど、そこに強い意思がある。
「この店の噂が本当なら、俺がその手伝いをさせてもらいたいんです」
「けど、三反田は…記憶が」
「無くてもいいんです。この店に来たのが、数馬、なら。幸せになれるのなら。それで良いんです」
 どうして、こんな事になった?
 見覚えのある顔。壊れていく、あの時の顔。
 三反田数馬を、永遠に失った日の顔。
 今は失ったわけじゃない。再び巡り会えたかもしれない。ただ、現実が残酷なだけで。
 せめて、これがこの店じゃなかったら。街中で、ただ出会えただけならば。少しは希望があったかもしれないのに。
 いや、それは我侭だ。
 この店に来る、と言う事はこの店のドレスが必要だと言う事。
 留三郎は、冷めた珈琲を一口飲んでから。
「緑の、ドレス」
「え?」
「緑のウェディングドレスが欲しいそうだ。出来るか?」
 壊れる前に解放してやったほうが良い。
 現実を見て、そうして乗り越えて、新しい道を探せば良い。
 作兵衛の全てだった「三反田数馬」の「幸せ」を導き出す事で。
「緑、っすか…」
「どうする? やるか?」
 これは、留三郎にとっても無理難題。思いつく手段はパステル調の緑にする事くらいだけれど。
「……やります」
 作兵衛は、じっと留三郎を見てそう言った。
「三反田は三日後に来てもらう事になってる。採寸と一緒に話を聞けば良い。本人を見た方がイメージは膨らませやすいから」
「食満先輩」
「ん?」
「ありがとうございます」
 ――だって、ここで死んだら数馬は絶対に喜ばないって、そう思うんです。
 そう、過去の声が聞こえた気がした。
 時間は早く経つもので、三日は直ぐに過ぎ去った。。
 約束の時間が近付くと、作兵衛はまだ封を開けていない紅茶の封を切る。ふわりとした紅茶の香りと柔らかな花の香りが広がった。
 輸入雑貨店で見つけた紅茶で、所謂一目惚れと言うヤツだ。自分で飲んでも良いし、お客さんに出しても良い。そう思って買った紅茶。まさか、こんな形で使う日が来るなんて思ってもみなかったけれど。
 そうしていると、ちりんとドアベルの音。それと一緒に、脳内に沈めていた懐かしい声。
 慌てて給湯室として使っている場所から店へと出ると、涙が零れそうになった。
「こんにちは」
 柔らかな髪は緩く三つ編みにしていて、白いニットのコートを着ている少女。年齢は自分とそう変わらないだろう。
「いらっしゃいませ」
 留三郎の情報通り、白い杖を付いている。作兵衛はゆっくりと近付くとその手を取った。
「あ、あの…」
「ソファまで行きましょう。今、紅茶を淹れますから」
 触れた手は、柔らかくてどうしていいか分からない。そんな作兵衛の戸惑いを感じさせないように、そっと静かにソファまで連れて行くと座ってもらう。
「前の方と違いますよね?」
「はい。今回、お客様の担当をさせて頂く…とま……いえ、さく、と申します」
「サクさん…ですか?」
「はい。ちょっと待ってくださいね。紅茶を淹れてきます」
 そう残して、作兵衛は給湯室に戻る。
 名前を言えなかった。
 顔を見るまで大丈夫だと思っていた心が、ぼろりと崩れた。
 着ている物こそ今の少女だけれど、それ以外は記憶のままの三反田数馬そのものだった。
 ふわりと柔らかい珍しい菫色の髪も、太い眉も丸い目も低い鼻もふっくらとした頬も。全てが記憶の中の数馬だったのだ。
 今にも昔のように「作ちゃん」と名前を呼びそうな程に。
 数馬には、作ちゃん以外呼んで欲しくない。男にちゃんを付けるのもどうかと思うけれど、今際の際に数馬は言ったのだ。
 ――作ちゃん、って呼べばこっち向いてくれるかな、って。
 周りと違う呼び方をすれば、そうすれば。
 ああ、駄目だ。
 考えるのは記憶の数馬の事じゃない。今ソファに座っている彼女の事だ。
 無意識に紅茶を淹れていたのは、きっとそれに体が慣れているからに違いない。いつもと同じ琥珀色の綺麗な紅茶を、取っ手が持ちやすいカップに注いでお盆に乗せる。湯気がゆらゆらと立ち上るカップを、そっと少女の前に置いた。
「ここに、ありますから」
 少女の手を握り、取っ手を握らせる。
「ありがとうございます」
「いえ」
 作兵衛の淹れた紅茶を口元まで持って行き、一口飲んだ。すると。
「これ、菫の紅茶ですか?」
「え……?」
「紅茶の中に菫の香りがします」
 ふわり、と少女は笑った。
 そうこの紅茶は、菫の花が入った紅茶だ。紅茶の中に菫の花が入っていて、お湯を注ぐと菫の花が広がるのだ。
「よく、ご存知ですね」
「菫の花、好きなんです。ぼくの髪を見た人が、菫みたいだ、って言ってくれたんで」
 胸の奥の柔らかい場所が、きりりと音を立てる。
 それはきっと、この少女の伴侶となるべき人間の言葉なのだろう。だから、こんなに柔らかく笑うのだろう。その中に少しの寂しさが見えたけれど、作兵衛は敢えて気にしないようにした。
「早速本題に入りたいんですが、緑色のウェディングドレスが必要との事で」
「はい」
「どのような場所でお式を?」
「それ、言わないといけませんか?」
「そう言う訳ではないんですが、場所によっては向く形向かない形とありますので」
「そう、ですか…場所は…森、です」
「森?」
「はい。森の中、なんです」
 森の中の教会だろうか。もしくは森の中のレストラン。最近、様々な場所で結婚式は行われる。何一つおかしいことではない。
「お色直しはしない、との事ですよね?」
「はい」
「緑以外のご希望はありますか?」
 留三郎のように、器用に聞きながらデザインする事は出来ない。作兵衛はメモに単語を書き込みながら質問を続ける。
「特に無いです」
「ご希望の形なども無いですか?」
「…すみません。ぼく、ウェディングドレス、見たこと無いんです」
 カップを持ったまま少女は苦笑いを零した。
「見た事が無い…?」
「はい。生まれつき目が見えないんです。だから、言葉は知っていてもわからないものが多いんです」
 失言だった。白い杖を持っているから、視力は弱いのだろうと思っていた。先天性で視力が無い事も考えておくべきだったのに。
「申し訳ございません!」
 作兵衛が慌てて謝ると、少女は首を横に振る。
「いえ。大丈夫です。なので、サクさんの思ったように作ってください」
「わかりました。力の限り尽くさせて頂きます。あの、それから、もう一つ申し訳ないんですが…」
「何ですか?」
「採寸させて頂いて宜しいでしょうか?」
「採寸?」
「はい。うちの店は男しかおりませんので、自分がする事になるんですが…すみません、お嫌なら測れる場所を紹介します」
 作兵衛の言葉を聞いた少女は目を丸くしてから、にっこりと笑って。
「構いません。お願いします」
 ことり、とカップをテーブルの上に置いた。
「…いいんですか?」
「え?」
「いや、その、顔も分からない初対面の男に体を触られるのはお嫌じゃないですか?」
 目が見えないと言う事は、作兵衛の顔も分からないと言う事だ。ただでさえ、採寸と言う行為を男がすると言うので嫌がる女性は多いのに、顔も分からない相手が触るのは気持ち悪いのではないだろうか。
「確かに、普通なら嫌だって思うかもしれ無いんですけど」
「けど?」
「サクさんの声聞いたら、信頼できるなって思って。だから、お願いします」
 ぺこりと頭を下げて「人様にお見せできるような体型ではないんですが…」と小さく付け足した。
 もしかしたら、数馬かもしれない。
 数馬だったら何でもしてやろう。そう思ったけれど、それでなくても良いと思えた。ほんの少しの会話と少女の空気。それだけで、少女を幸せにしたいと思った。
 この少女を、三反田数馬と言う少女を幸せに出来る手段がこの手にあるのなら、何でもする。
 それは、過去への贖罪かもしれないけれど。
 数馬を失ったのは、一瞬の油断だった。
 あの学園を卒業して直ぐの事、学園を巻き込んだ大きな陰謀があった。それを阻止する為、たくさんの卒業生が学園を守る為にと集まった。
 作兵衛と数馬もその一人だった。
 忍になる事を選んだ作兵衛と、町の薬屋で医学の知識を活用する事を選んだ数馬は、完全に道が分かれていた。きっと、会うとしたらそれは偶然で。けれど、刃を交える関係ではない事に作兵衛は安堵していた。
 基本的に作兵衛は仲間と言うものを重んじる類である。忍としては甘すぎるその感情は、学園で学んだ誰もが持つもの。その為に、学園に集まった。
 あるものは戦い、あるものは謀り、あるものは削ぐ。この学園で己に与えられた全ての力を使い、学園を守った。守った、けれど。
 一つだけ守れなかった命。そんな事態を想像していなくて、呆然としてしまった。
 一人だけ、命を落とした。
 誰一人、不運だなんて言わなかった。馬鹿だとも、忍らしくないとも。
 数馬の胸に刺さった手裏剣は殺傷能力があるものではなく、毒殺する為のもので。何か方法が無いかと忍装束を肌蹴た時に、柔らかな胸の膨らみに気が付いた。
 その時の感情をどう現すのか、作兵衛は知らなかった。
 腕の中で荒い息を繰り返す数馬の名前すら呼べずに、ただ震えることしか出来なかった。
 何で、俺を庇ったんだ。
 漸く搾り出せた言葉に、数馬は笑って。
 だって、仲間じゃないか。
 そう、静かな声で言った。
 ぼろりと零れた涙。自分が油断さえしなければ、そうすれば、数馬を失わずに済んだのに。こんな事で大事な友達を失うなんて思わなかった。
 大事な、大事な、友達。
 これから一生刃を交える事無く、たまに会っては笑い合えると思っていたのに。先に死ぬのは、きっと自分で。そんな覚悟していたけれど、こんな覚悟は出来ていない。
 作ちゃん、ごめんね。
 作兵衛の涙を見て、数馬は困ったように笑った。
 作兵衛と数馬の周りには、仲の良かった四人が集まり、偉いぞ、と声をかける。その側で、何も出来ないと崩れ落ちるように泣いた医術に長けた、亜麻色の髪の先輩。
 肺から溢れた血を一度吐いて、口元を拭って。
 作ちゃん…
 小さな声で名を呼ぶ。
 唇を噛み締めていた作兵衛が、数馬の手を握ると。
 最後まで、作ちゃんって呼んでごめんね。
 いつも、作兵衛は数馬に「何で俺だけちゃん付けなんだよ」と零していた。他の友人達は呼び捨てなのに、作兵衛だけいつも「作ちゃん」。子供扱いされているようで、気に入らない部分もあった。それでも数馬は六年間作ちゃんと呼んで、卒業の時に「次に会ったら、ちゃん付けやめろよな!」と約束させたのが昨日のようだ。
 その時の約束の事だろうか。そんな事気にしなくてもいいのに。今、ただ数馬の声が聞こえているだけで良いのに。
 馬鹿野郎、そう怒鳴ろうとしたら。
 でも、作ちゃん、って呼べばこっち向いてくれるかな、って…
 その言葉に、繋ぐ言葉を作兵衛は持っていなかった。
 作兵衛が何を言うか戸惑っていた間に、数馬は作兵衛の顔をじっと見てふわりと笑って目を閉じた。
 そこから、作兵衛の記憶は無い。記憶が無いというよりも、その部分だけ空白になっている。
 冷めていく体温も、硬くなって行く体も、何一つ覚えていない。
 次の記憶は、数年後だ。
 どこの城にも所属せず、たまたま仕事を請け負った城仕えの忍として、留三郎がいた。そこかまた新たな記憶が始まり、ぶつりと途切れる。死んだのかと思えば、留三郎は笑って「お前は一番長生きだったんじゃないか?」と教えてくれた。
 どうしてその間の記憶が無いのかは不明だが、ともかく、作兵衛の記憶は曖昧で鮮明だ。繋がっていないけれど、持っている記憶は誰よりも鮮やかなのだ。
「あの、サクさん?」
「はい?」
「すみません、あの、本当に申し訳ないです…」
 メジャーを回したウエストを見ていたのかと思ったらしい少女が、すみません、とうな垂れる。素肌に触っている訳ではないが、発熱作用のある下着の上からでも十分に柔らかな感触は分かった。
「こちらこそすみません。考え事をしてしまって」
「そうなんですか?」
「ええ、三反田様に似合うドレスの事を考えていました」
 泣いていないだろうか。
 正直、少女が目が見えないことに少し安堵する。目の前の鏡を見ると酷い顔をしていた。
「宜しければ、相手の方のタキシードのお写真とか見せていただけませんか?」
「え?」
「それに、似合うものを作りたいんです」
 女々しい。
 今更、そんな事をしてどうなる。相手の顔を知ったところで、この気持ちを断ち切れると言うのだろうか。
 きっと、優しい人なのだろう。
 きっと、柔らかな人なのだろう。
 数馬じゃない、と思っているのに、数馬ならば自分を選んでくれただろう、とそんな妄想をする。腕の中で笑って息絶えた数馬であるならば、それならば、自分を選んでくれたんじゃないか、と。
 たくさんの感情が綯い交ぜになって、暴走しそうだ。
 次の言葉を待っていた作兵衛に、少女は笑って。
「ごめんなさい。写真が無いんです」
 そう、言った。
「そう、ですか…」
 確かに、結婚式の前に写真を撮るのは新婦の場合が多い。新郎の写真を、と言われても困るだろう。
 作兵衛は全ての感情をシャットアウトして、ひたすらに採寸する。腕の長さ、肩の幅、全ての情報を小さなノートに書き綴る。
 そうして。
「出来ました」
 少女にコートを着せて、歪に笑った。
 ゆっくりと少女の手を取って小さな薔薇模様のカーテンを開けると、小さな靴の場所を教える。
「半年、ですね」
「え?」
「半年後、綺麗なドレスを用意させて頂きます」
 もう、彼女と会うことは無い。
 作兵衛はそう思いながら、少女の手を取った。
 彼女に会えば、心がざわめく。誰かの幸せなんて願えなくなる。幸せを願う事で出来上がったこの店にいられなくなる。
 彼女のドレスを仕上げたら、そうしたら、きっと思いを断ち切って、自分の幸せを描く事なんてなくなる。
 その為に、彼女にはもう会わない。
 幸せなんて、要らないから。
 数馬は幸せだったのか、今でも分からない。それでも、目の前にいる少女を幸せに出来る手段をもっているから。
 数馬の声で笑い、数馬の声で自分を呼ぶ、少女を。
「サク、さん」
「はい?」
 からっぽにした心で、にこりと笑う。
「半年後、お会いできるのを楽しみにしています」
 その言葉が作兵衛の心に、暗い影を落とした。





「作兵衛」
「はい」
「……お前、その」
「何ですか?」
 ぐじゃぐじゃと丸められた紙。その真ん中に座る作兵衛。
「彼女の、ウェディングドレス、作れそうか?」
「イメージはあるんです。緑を包むような」
「包む?」
「はい。柔らかな彼女を包むような」
 見たことのある目だった。
 数馬が死んで数年後、仕えてた城で出会った時の作兵衛の目。かげつきの作兵衛と呼ばれていた作兵衛の目。
 からっぽの作兵衛の目。
 壊れていた、作兵衛の目。
 少しだけ違うのは、その目に小さな希望がある事。その先にあるのが、絶望だと知っている目だけれど。
「作兵衛」
「何ですか、食満先輩。その顔」
 戸惑った表情をしているのかもしれない。かける言葉を探して、何度か辺りを見回すと、目に入ったのは。
「なあ、作兵衛」
「はい?」
「…そのドレス、意地でも仕上げろよ」
 からからの声で、そう言う。その言葉に、作兵衛は笑って。
「わかってますって。この店の信頼を潰すような真似はしません」
「そうか。じゃあ、俺は先に部屋に戻るな」
「はい」
 目に入ったのは携帯。その先にはたくさんの希望の糸。それを手にして留三郎は店を後にした。


 季節は巡り、柔らかな春がやって来た。


「……また、見てたのか」
 うっすらと光の差す店内。春の訪れを迎えた季節の光は柔らかく温かい。その光がカーテンを通して店内を照らしていた。
 窓硝子自体が遮光硝子で出来ているが、夜の内は深いソファと同じ色の緑の厚手のカーテンを閉めている。けれど、今はそれは開けられていて幾重にも重なったレースのカーテンが窓を縁取っていた。
 その柔らかな光の中で佇むのは、既に身支度を整えた作兵衛と一着のドレス。
「今日で、最後ですから」
 春の光に映えるそのドレスにそっと柔らかな白い花を添えて、作兵衛は笑った。
 おそらく留三郎がデザインしたなら、こんな涙が出そうなほど柔らかくて温かいドレスは作れなかっただろう。
 全て、作兵衛が決めた。
 ドレスのデザイン、型紙、布地、小物。このドレスを形成している全てのものを、作兵衛が決めて作り上げた。
 これ以上のものは作れないと思います。
 その言葉は最もだと言える出来だ。基本的に作兵衛は、留三郎のデザインしたドレスを縫う作業を請け負っている。型紙を作ってドレスを縫い上げるのは作兵衛の仕事だ。だが、デザインや布地、全てのバランスを見るのは留三郎の仕事。
 それでも、このドレスだけはと作兵衛が全て決めて一人で作ったのだ。
 まるで、全ての思いを込めるように。
 幸せに、幸せに、幸せに。ただ、それだけを。
 仕事はこのドレスを縫うだけではなかった。たくさん、とは言い難いけれど、幸せの手伝いは自分達が出来る範囲の事をさせて貰ったつもりだ。その間、副業は留三郎が請け負ったけれど。留三郎自身の縫製の腕は確かだ。作兵衛がいつもやっている仕事が出来ない訳ではない。副業を頼んで来る友人達には、富松じゃないのか、なんて憎まれ口を叩くヤツもいたりもしたが、それは既製品より遥かに出来の良い物だった。
 その分、作兵衛はドレスに全てをつぎ込んだ。
 いつも裏方を務める作兵衛がそこまでした理由は一つ。依頼主が作兵衛にとっては「全て」に等しかったから。
 等しい、と言う表現は間違いかもしれない。近しい、重ねている、願っている。そう言った方が、正しいのかもしれない。
 依頼主は、一人の盲目の少女。名前は「三反田数馬」。菫色の柔らかな髪の少女。
 それは、作兵衛の記憶の中で一番鮮明な姿そのものだった。
 作兵衛の記憶は、留三郎よりも鮮明だ。曖昧な部分が無い。的確で、そんな事まで覚えているのかと驚かされることばかりだ。その分、記憶が待ったく無い部分がある。その記憶は、留三郎が知っていた。
 一緒に忍務をこなした時期の記憶。
 再び出会ったときは、かげつきの作、なんて呼ばれていた。数馬を目の前で失い、姿を消していた作兵衛。自暴自棄になっているのではないかと心配したけれど、作兵衛は驚くほど冷静で、仕事も熱心だった。良く笑い良く泣き、何一つ変わってはいなかった。初めて一緒に仕事をした人間は、それが作兵衛だと思っただろう。けれど、留三郎には分かってしまった。
 もう、壊れた後なのだと。
 壊れてしまったのは、作兵衛の想い。他人への想いは留三郎が知るものだったけれど、数馬が作兵衛に残したものは、壊れてしまった。
 あの場所にいた全員が分かってしまった。数馬が作兵衛に抱いていた想い。作ちゃん。その呼び名に込められていた想い。だからこそ、留三郎の肩で留三郎にとって誰よりも大事な人は泣き叫んだ。数馬と強い繋がりを持っていた四人はその場で泣き崩れた。
 そして、作兵衛は、数馬の頬をゆっくりと触って――笑った。
 嘲笑や微笑、そんなものじゃない。ただ、目を細めて口角を上げてそれしか表情を知らないかのように、笑った。手は震えていたのに、体は全てを拒絶するかのように小刻みに震えていたのに、表情だけは柔らかだった。
 それは、数馬の表情と同じだった。
 その表情を、作兵衛は浮かべている。気が付くとその表情なのだ。数馬の最期の笑顔のままなのだ。その所為か、作兵衛は見た目は温和なのに中身は熱血漢、等と言われていたのだ。
 作兵衛の本当の想いは分からない。けれど、確かにあの学園で数馬に抱いていた想いは、数馬と築いた感情は、壊れていた。
 留三郎が見たのは、その片鱗に過ぎない。忍でありながら長生きをした作兵衛は、少しずつ少しずつ壊れて行き、最期の言葉を作兵衛の友人からこの時代に生を受けて知った。
 俺は、数馬の幸せを作れたかな。
 作兵衛は、自分の人生を歩んだ訳ではない。数馬が歩む筈だった人生を歩んだのだ。
 歪んでしまった、数馬の想い。数馬が、作兵衛に残した想い。
 ただ、君が好きだよ。
 その言葉は歪んで、今に至る。
 だから、作兵衛はドレスを作った。
 腕の中で静かに息絶えた少女の生まれ変わりのような少女の為に。
 少女に、自分達のような記憶は無い。それは、分かっている。それでも、作兵衛は作る事を選んだ。
 まるで、自分の人生すら託すかのように。今、幸せになれる筈の作兵衛の人生を託すかのように。
「…食満先輩」
「ん?」
「俺、今日は店に出ませんから」
 それは、ずっと作兵衛が言い続けた言葉。
 二度と少女には会わないと。もう二度と、あの少女と会うことは無い、と。
 理由は分かっている。留三郎はそれを強要しない。
 そう、昨日までは。
「なあ、作兵衛」
「はい」
「俺、紅茶淹れるの上手くないの知ってるな?」
「それは…」
「この店は、ロイヤルアンバー。ドレスを作る為に必要なものがある。それは、涙の理由と美味しい紅茶だ。分かるな?」
 涙を捨てて幸せになる店。その涙を包み込む柔らかな紅茶の香り。それが、この店には欠かせない。
 それを作兵衛も分かっている。だが、こればかりは譲れない、とじっと留三郎を見た。その視線に留三郎が返したのは、小さな缶。
「これ…」
「その紅茶、今日、淹れてくれるな?」
 作兵衛の知らない紅茶だ。留三郎は基本的に珈琲を好む為、紅茶には詳しくは無い。その留三郎が仕入れてきたであろう紅茶。
「……裏から出なくていいなら」
「それでもいい。頼むぞ」
 留三郎はぽんぽんと頭半分ほど低い作兵衛の頭を叩いて、「着替えてくる」と店を後にした。
 残された作兵衛は手の中の紅茶をじっと見て、裏に向かう。それから、作兵衛も留三郎も気に入って購入した少々値の張るカップを棚から取り出した。
 彼女に会うことはもう無い。
 彼女が数馬だったら良いのに。そう思ったことは確か。記憶を持った数馬が自分を探してくれるのではないだろうか。そして、いつかこの店を訪ねてきてくれるのではないだろうか。そう思ったけれど、彼女を見て思った。
 そう、記憶が無いと言う事は全て真っ白だと言う事。
 この店に数馬が足を運ぶと言う事は「ドレス」が必要で、それは「幸せ」になる為で、作兵衛を探してではない。もしも、記憶を持っていたとしても、既に未来を選んでいた場合はただの「久しぶり」だ。
 自分の、浅はかな考えだった。それを、彼女が教えてくれた。彼女が数馬だとしても、彼女は作兵衛と重ならない幸せを見つけている。
 彼女が、数馬なら良いのに。
 ドレスを仕上げながら思った。彼女が、本当に自分が知っている数馬なら、間違いなく幸せになると言う事だ。自分が辿った幸せじゃない。彼女自身の幸せだ。
 それでいい。
 不思議と笑う事が出来た。自分が探していた数馬はもういないのに、それでも、笑う事が出来た。
 それで、十分。
 カップを眺めてことりと置くと、ふと時計を見た。少女との約束の時間は、店の開店と同じ午前十一時。それまでに、カウンターを磨こう。
 そんな事を考えている作兵衛の笑顔に、留三郎は溜め息と焦燥と僅かな希望を見出す。
 焦るな、大丈夫、まだ大丈夫。
 ふう、と息を吐いてソファの前に置かれた石を散りばめたテーブルの上にスケッチブックを広げて。
「よっしゃ」
 作兵衛が仕上げたドレスをじっと見ると、鉛筆を走らせた。
 どれだけの時間が経っただろう。留三郎が無心で鉛筆を走らせている間に、作兵衛はカウンターを磨くのを止めて裏に入ってしまった。思わず時計を見れば時間は午前十時五十五分。
 丁度、頃合だ。
 スケッチブックを閉じると、ソファと向かい合わせに置かれた椅子の上で祈りの形を作る。
 どうか、どうか。
 店の前には、名前の書かれた看板が出されている。そこで気が付いた。彼女は目が見えない。それでは、この店が開いているかどうか分からないじゃないか。
 慌てて立ち上がり扉まで向かって勢い良くその扉を開くと。
「あ……」
 今まさに扉を開こうとする少女が、そこに立っていた。
「いらっしゃい」
 出来るだけ柔和に笑うと、少女の手を取る。そうすると、少女は本気で驚いている顔をした。確かにいきなり手を取られては驚くだろう。
「あ、あの……」
「お約束の品は出来てるよ、三反田さん」
 そう言って、少女の手を取ったまま窓際の柔らかい光が当たる場所に彼女を連れて行った。
「え、あの…」
 驚かれるのは仕方ない。普通は色々と説明してから手渡すものだ。それでも、留三郎は早くそのドレスを見せたくて。
「これが、約束のドレス」
 見えなくてもいい。それでも、この感触を知って欲しい。そう思ってドレスの裾を少女の手に握らせた。
「これが、ウェディングドレス…?」
「そう、三反田さんの為のドレスだ」
 ウェディングドレスがどんなものか知らないと言った少女の為のウェディングドレス。
「でも、ウェディングドレスって…」
「確かに。言葉しか知らなければ、これがウェディングドレスだとは思えないと思うよ。でも、これ以上のドレスは無いと断言させてもらう」
 ウェディングドレスは、どちらかと言えば光沢のある布で作る場合が多い。オーガンジーのような薄い布も使うが、手触りはさらさらとしたものだ。
 だが、作兵衛はそれを良しとはしなかった。留三郎がドレスに向いていない生地を選ぶ事もある所為か、少女の為のドレスは。
「このドレスはリネンで出来てるんだ」
「リネン…?」
 柔らかな感触の布を選んだ。
「そう、リネンの布をナチュラルエアーソフト加工して染色してる。ジャスパーグリーン、と呼ばれる緑色仕上がってるよ」
 そう、このウェディングドレスの依頼は「緑色のウェディングドレス」を作る事。純白のものではない。ジャスパーグリーンは青と緑の中間色に近く、その色で柔らかく加工したリネンの布を染色した。しかも。
「でも、この模様は…」
 少女の手に触れている部分には、刺繍が施されていた。布を染める前に、小さな五枚花弁の花を刺繍していたのだ。手に触れると、その花の形が分かるように刺繍されている。
「刺繍だよ。でも、色は全て緑なので安心していいから」
「………でも」
「もう一枚の方だな?」
 少女に握らせたのはリネンのドレスだけではない。それと共に。
「それは、正絹のシフォンジョゼットって言う布。リネンとは違った柔らかさだと思うんだけど」
 作兵衛が拘ったのは、柔らかさ。
 少しでも柔らかい布を、と探した結果だ。確かに、もっといい布はあった。それでも、作兵衛は最後にリネンと絹を選んだ。
 リネンは、基本的にナチュラル志向の人間に好まれるざっくりとした肌触りの布で、服を作る生地として使われるのはワンピース等のゆったりとしたものが多い。コットンと最後まで悩んだけれど、最終的にリネンを選んだ。
 それは、自分達が身に纏っていた忍装束と同じ麻の生地だったから。
 その生地に刺繍をし染色を頼んで出来上がった布で作ったのは、胸元で切り替えるアンピールドレス。袖は無く胸の下の切り替え部分はアンティークのレースでスカート生地と切り替えられており、スカート部分は生地を何枚も重ねる事によって柔らかなドレープを作り出していた。
 それだけでは、ただの緑色のドレスのようなワンピースに見える。それを作っている作兵衛を見て留三郎は何をやっているんだと思っていた。形としては悪くは無い。だが、ウェディングドレスとしては成り立たない。それを、解決したのが、正絹のシフォンジョゼットだ。シフォンジョゼットは、名が示す通り絹の布の事である。だが、最近では絹に似せた繊維で作られているものが多く、単価も安い為それを用いる事が多いけれど作兵衛はあくまで絹に拘った。どうして、と訪ねると彼女には自然ものの方が似合うと思うんです、とぽつりと零した。
 そうして手に入れたシフォンジョゼットをどう使うのかと思えば、その布で出来上がったリネンの緑色のドレスを包むように仕立てたのだ。ノースリーブの緑のアンピールドレスに、シフォンジョゼットで作ったケープカラーの胸元で切り替えるドレスを重ねたもの。
 それが、このウェディングドレス。だから、少女の手には二枚の布が握られている。
 淡い緑を包む柔らかな白。そして、仕上げには
「これを着て欲しいんだけど、一人では無理……どうした?」
 ウェディングドレスの裾を握っていた少女は小さく震えて、「ごめんなさい」と俯いた。
「え、あの、やっぱりさらさらしてる布とかの方が…」
「こんな、きれいな、ウェディングドレス、ぼくにはもったいない、です」
 ドレスから手を離して、その場に立ち尽くすと瞳から大粒の涙が零れる。
「でも、ドレスが必要なんだろう?」
「……必要、無いんです」
「え……?」
「ごめんなさい、ドレスが必要じゃなくて、ただウェディングドレスが見てみたかっただけで、でも、こんなに綺麗なドレス、作ってもらえるとは思ってなくて、ごめんなさいっ…」
 両手で顔を覆って泣き崩れそうな少女に、留三郎は手を伸ばした。
「話、聞こうか」
「え?」
「うちの店には、こんなジンクスがあるんだ。涙を捨てると幸せになれるって。本当は、涙の理由を聞いてからドレスを作るんだけど」
 何かある。間違いではない。この少女には、何かある。
 留三郎はそっと少女の手を取ってソファに座らせると、テーブルを挟んで置かれた椅子に腰掛けた。
「どうしてドレスが必要ないんだ?」
 少女が言った条件は三つ。半年後、場所は森の中、緑色のウェディングドレス。おおよそ、結婚式には不向きな条件だったけれど、自分だけの結婚式と言うものに憧れる女性は少なくない。留三郎はその類だと思っていた。もちろん、作兵衛も。
「……着る資格が無いんです」
「資格? ドレスにそんなものは必要ないと思うけど」
 作兵衛の話では、少し体型を気にしていた部分があったからその所為かと尋ねればそうではないと返って来る。
「聞きにくいんだけど、破談?」
「いえ、違います」
「なら、どうして…」
「幸せになっちゃ、いけないんです」
「え……?」
「いちばん、たいせつなひと、苦しめた、から…」
 少女の手が柔らかなスカートを握り締めて、膝の上で震えた。
「苦しめた?」
 留三郎の言葉に、少女は首を縦に振る。
「それは、君が?」
 もう一度、首を縦に振る。
「誰かを苦しめたから幸せになれないなんて、そんなのあっていい訳だろう?」
「でも!」
「誰にだって幸せになれる権利はあるんだ。この店は、その為にある」
 そう、誰だって幸せになれる権利はある。この店はその手伝いをする為にあるのだから。
「だから、三反田さんにはあのドレスを着て欲しい」
「いえ、ですから、ぼくにドレスは必要ないんです…」
「必要だから、この店に着たんだろう? この店はウェディングドレスの専門店だ。しかも、君は名前を知っていた。と言う事は、この店が何の店であるか知っていた筈。そうだろう?」
 この店がロイヤルアンバーだと知っていた。だから、留三郎はそこに絶望を一瞬見たのだ。
「どんな理由があるにせよ、三反田さんが幸せになれる場所があるなら、ドレスを…」
「結婚、する訳じゃないんです」
「え?」
「結婚の予定は、ありません」
 ぎゅっと握ったスカートに皺が深く刻まれる。
「結婚の予定も無いのにウェディングドレスを頼んで、申し訳ございません。お代はお支払いします。ですから、ドレスはどうか…」
「結婚の予定が無いなら予定が無いで別に構わないよ」
 そんな女性は珍しくない。彼氏もいない、そんな人だって来る。それでもドレスを作るのは、その人がウェディングドレスを必要としているから。それを手に入れることで幸せになると分かっているから。
 そして、知っている。
 目の前の少女が結婚をしない事を。
「一度、着てみてくれないかな」
 そうすれば、分かる。あのドレスが、この少女の為にだけ存在するのだと。作られたのだと。
「………っ」
「そんな顔しなくて良いから。ウェディングドレスを結婚する前に着ると婚期が遅れるだの言うヤツもいるけど、気にしなくて良いから。頼む、着てやって欲しい」
 留三郎が頭を下げると、少女は何度も大きく首を横に振る。
 頑な過ぎるその態度に、留三郎はメールを思い出した。
 三反田数馬と言う少女は、生まれつき目が見えない所為か内向的。何事にも消極的で、殆ど家から出た事が無い。結婚の話は一切聞かなかった。記憶の有無については不明。近所でも三反田家に娘がいる事を知らない人間は多数。
 たくさんの希望の糸からもたらされた情報。
 その情報の文面の最後には、言い合わせたかのように一言こう添えられていた。
 富松作兵衛の幸せを祈る。
 留三郎がメールを送ったフォルダの名前は「忍術学園」。
 あの最後を見た人間達だ。
 作兵衛の幸せは、この少女にかかっている。この少女がドレスを着てくれたら、それで作兵衛の思いは昇華出来るかも知れない。
 そんな留三郎の願い。
 そして、可能性があるのなら作兵衛の「友人」になって欲しい。依頼主にこんな事を言っては駄目だと分かっているけれど。
 友人であるのなら、あの時、作兵衛が失ったものを取り戻せるかもしれない。
 作兵衛が歩むべきだった人生を。
「何で、そんな事言うんですか!」
 ガタン!
 少女は勢い良く立ち上がってテーブルを揺らす。
「三反田さん…?」
「幸せになんてなれなくていい! 幸せになんて……」
「それは、君が、誰かを苦しめた所為?」
「ウェディングドレスは、ずっと憧れでした。だから、見てみたかった。白いドレスを着る資格なんて無いから、だから、緑色なら……っ」
「何も悪いことは無いじゃないか。女性なら憧れて当然だし、それに…」
「ぼくの我侭なんです! ただの我侭なんです! ウェディングドレスが見たいって、それだけの…」
 ウェディングドレスがどんなものか知りたかった。そう少女は言うのだろう。だが、それだけで終わる話ではない。
 この少女の涙を捨てさせて、そして幸せを見つける手伝いがしたい。
「じゃあ、あのドレスはどうすればいい? 君に合わせて採寸して君の為に作ったものだ。君以外の人間には着る事は出来ないし、麻と絹で出来た緑色のドレスが必要な人はいないと思うよ」
「……っ」
「あのドレスは、着る事で完成するんだ。だから、君に着て…」
「どう、して」
「ん?」
「何で、そんなに優しいんですか! ぼくが、ぼくが……」
「優しくなんてないよ、ただ、ドレスを着て欲しいって我侭いってるだけだから」
「………何で、……………、そんな事………」
 良く聞き取れない。
 拳を作って震える少女は俯いて呻くように言葉を紡ぐ。そして、持っていた小さな鞄から封筒を取り出してテーブルの上に置いた。
「…三反田さん?」
「すみません、失礼します! 不足分は中の住所に請求をお願いします!」
「ちょ……!」
 踵を返して走り出そうとした少女の手を思わず掴む。
「待って、危ないから!」
「離してください!」
「いや、だから、落ち着いて」
 目が見えない人間が慣れない場所で走り出すのは危険でしかない。それなのに、少女は留三郎の手を振り解こうと必死だ。
「離して! 離して下さい!」
「落ち着いて。な、ちょっと、落ち着いて」
「離して下さい! 食満先輩!」
 少女の口から、自分の名前が紡がれる。
 少女には名前を教えていない。そして、自分は少女に先輩と呼ばれる関係ではない。少女が口にするなら食満さん、もしくはオーナーさん。
 絶対に、食満先輩では無い。
「今、何て言った?」
「え……」
「今、俺のこと、何て言った…?」
 掴んでいた手に思わず力が篭る。
「あ、あの…」
「もう一回俺のこと、呼んでくれ。頼む!」
「あ、えっ、その…」
「君が名前を知っているのは、俺じゃなくて、うちの従業員の筈だ。君は俺の名前を知らない筈だ。もし、俺の推測が正しいなら、君の言葉の意味が理解できる。君は、……三反田数馬、だな」
「そう、です…」
 少女の名前は三反田数馬。肯定の言葉は当たり前だ。そうじゃない、聞きたいのはその言葉じゃない。
「いや、聞き方が悪かった。俺の後輩の一人、忍術学園保健委員会の三反田数馬、だな」
 記憶の有無は不明。不明なのだ。無い訳ではない。
「俺の記憶が確かなら、三反田が受けた毒は神経性で致死量を越えた場合は助からない。助かったとしても、視力を失う。あいつはそう言っていた」
 ぐにゃり、と少女の顔が歪んだ。
「お前は、三反田、だな」
 奇妙な沈黙。それは否定と取るに十分だった。違う、の言葉が返って来るだろう。そう思っていたのに。
 それなのに。
「ど、して…」
「三反田?」
「食満先輩なら、分かるでしょう? ぼくが作ちゃんに何をしたかを! 作ちゃんの幸せ、全部奪った事を…」
 しゃくりあげながら、言葉を零す。
「ぼくが、あの時馬鹿みたいな言葉言わなかったら、そうすれば!」
「お前、どうして…」
「何も出来なかった! あの場所で死んだぼくは、何も出来なかった! 作ちゃんが壊れていくのを見てることしか、出来なかった…」
 あいつの事知ってるか? かげつきの作、だそうだ。何でかげつきかって? ああ、それがな、あいつの影は意思をもってるらしい。だから、影付きの作、って呼ばれてるみたいだぞ。
 不意に過ぎる、同僚の忍の不可思議な言葉。
 影が動く? そんなことあるわけ無い。
 ゆらりゆらりと揺れていた、作兵衛の影。
 そんな事ある筈が無い。そういい切れない自分がいる。作兵衛の影は、意思を持っているのではなくて、寄り添っていたのだ。ずっと、ずっと。
 影が薄い。そんな事を言われていたこの少女が、死して尚寄り添っていたのだ。
「目が見えなくても構わなかった…見えなくても、感覚が覚えてたから…でも、また馬鹿みたいに…」
「ウェディングドレスが見たい、って思ったか?」
 少女は――留三郎が知っている数馬は、小さくこくりと頷く。
「でも、白じゃなくて、緑色はどうして?」
 ウェディングドレスは、あの時代には無かった。それでも、白系と言うのは話で聞いている筈だ。なのに、数馬は緑を選んだ。
 ぐっと唇を噛んだ数馬に、留三郎はもう一度優しく「何でだ?」と尋ねる。
 数馬は、やや戸惑って、そして。
「……この髪に、一番似合う色だって…」
 消え入りそうな声で言った。
 誰が言ったか、なんて聞かなくても分かる。
 手を掴んでいる体は強張っていて、今にも崩れ落ちそうな状態だ。
 きっと我慢をして来たのだろう。馬鹿みたいに自分を責めていたのだろう。そうでなければ、こんなに泣き叫びそうな顔はしていない。
 留三郎は、思わず少女の手を引きテーブル越しにその頭を自分の胸に抱えた。
「お前等、馬鹿だな」
 何処かで見たことのある表情。
 ずっと見てきた、弟みたいな作兵衛の表情。我慢して我慢して、それでも我慢していた表情。感情が堰を切る前の表情。
「お前の言葉は馬鹿じゃないと思うし、作兵衛はただ馬鹿なだけだったんだって思う」
 ぽん、と背中を叩いて。
「三反田の感情を受け止めるだけ、あいつには余裕が無かっただけなんだ。きっと、普通に三反田が女の子として出会ったなら、あいつはその言葉を受け止められたと思うよ」
 六年間一緒に生活していた子が女の子で、その上それを知ったのが失う時だったから、だから作兵衛は壊れただけだ。もしも、数馬が女の子だと言う事が分かっていたなら、作兵衛はきっと違う感情を抱いていたに違いない。
 そうでなければ、狂気に良く似たあの感情を今も持ち続けている筈が無い。
「三反田」
「………」
 返事は無い。
「…まだ、あの馬鹿の事好きか?」
 あの時の感情のままならば、それならば。
 数馬は頑固な性格だったと思う。返事なんて貰えないかもしれない。それでも、少しの可能性に賭けた。
 この店に来てくれたのが、作兵衛への想いが引金なのだと。
「どうだ?」 
 腕の中で、震える頭が小さくこくりと縦に動いた。
「もう一度、会いたいって思ってくれたか?」
 返って来たのは、肯定。何度も頷いて、小さく嗚咽を零す。
 記憶を持ちながら、諦めながら、幸せになれるわけが無いと思いながら、それでも悲鳴を上げた感情がこの店に導いたのだろう。
 絶対に幸せになれる、この店の扉に。 
「もしかしたら、三反田の目が見えないのはあいつの事だけを覚えている為、かもな」
 他に新しい情報が視覚から入ってこないように、あるいは、数馬が無意識に意図的に。
 ちょっと待て。
 思い出して、留三郎はすっと数馬から腕を解くとその姿を見る。
「三反田、杖は?」
 持っていた筈の白い杖が無い。
 視力が無いのなら、杖が無ければ歩くのも困難な筈なのに。
「もう、いりません」
「要らない?」
「半年前、……角膜の提供の話があって…」
 きちんと見えるまでになるには、手術とリハビリで半年後だろう。そう、言われました。
 数馬は、そう言った。
 一つの条件。半年後。それは、結婚する訳ではなく視力が宿るまでの期間。
 そうなると。
「俺の顔が、見えるのか…?」
「はい……」
 だから、扉を開いた瞬間あんなに驚いたのかと勝手に納得する。
 声だけしか聞いていなかった人間の顔を見てみれば、記憶の中に存在する顔。驚かないわけが無い。
「それじゃあ、あのドレス…」
 見えていたのだ。
 作兵衛が作った、作兵衛の想いが詰まったドレス。泣きそうなほどに柔らかなドレス。見えるわけが無いと思いながら作った筈のドレス。
「驚きました。あんなに綺麗なドレスがあるのかって」
「……あの、ドレスは特別だ」
「え?」
「三反田の為に作った特別なドレスだ。三反田が綺麗だって思ってくれたんなら、それ以上の褒め言葉は無いよ」
 緑を覆う白。
 変則的なドレスを綺麗だと思ってくれたのなら、それは、きっと、思いは伝わっている筈。
 隅々まで綺麗な細工を施した、世界に一つだけの、数馬の為のドレス。
 そうなってくると、もう一つ疑問が残る。
「じゃあ、森の中、って言うのは?」
 作兵衛が森の中だと聞いたから、ロングトレーンにはしたくないと言って裾は短めにデザインした。足元はパンプスではなく、ヒールが高くない白いブーツになっている。
「……あの学園のある場所です」
「え……?」
「きっと、緑の中に緑のウェディングドレスがあったら綺麗だろうなって、溶け込むだろうなって。ぼくの姿を隠してくれるかなって」
「隠れる?」
「思い出がいつもあの学園だって言うのもあって……それに、もう、作ちゃんに迷惑かけたく無いから、出来る事なら森になりたいなって」
 どうして、こうも後ろ向きなのだろうか。
 自分への感情に疎い二人の後輩。馬鹿みたいに、自分なんかが、と思い込んでいる後輩達。
 それでも、どうにか思いは繋がっている。掛け違えたボタンみたいになった思いは修復できる。
「それは、つまりあいつの為にウェディングドレスを着てみたかった、って解釈してもいいんだな?」
 やや躊躇って、数馬は「隠してもしょうがないですよね」と笑った。
 神様は、もしかしたらどこかにいるのかもしれない。
 だから、この店にたくさんの糸を繋いで、そして、たくさんの奇跡を起こしているのかもしれない。
 半年後? 目が見えるようになるから。
 森の中? 一緒に過ごした場所だから。
 緑色のドレス? 似合う色だって言ってくれたから。
「なあ、出て来いよ」
 留三郎は、声をかける。
「聞こえてるんだろ。お前がすべき事は、分かってるだろ?」
 するべき事は紅茶を淹れる事じゃない。
 二度と会わないんじゃなくて、ドレスを作ってさよならじゃなくて、全てを断ち切るんじゃなくて。
 留三郎の言葉の意味が分からない数馬が涙をごしごしと拭って、その顔を見る。
 どれだけ時間が経っただろう。数秒にも思えるし何時間にも思える。その不可思議な時間の沈黙を破ったのは。
 絨毯を踏みしめる靴の気配。
 それを見た数馬が呆然としたまま、その人物を見ている。
「紹介が遅れました、三反田様。うちの従業員、そして、三反田様のドレス製作の全てを請け負った富松作兵衛です」
 いやに丁寧な言葉を使って、留三郎はカウンターの向こうからこちらに歩いてくる作兵衛の名前を数馬に告げた。
「そして、俺の後輩。用具委員会の富松作兵衛だ」
 呆然と立ち尽くす数馬と動けなくなる作兵衛。
「数、馬……?」
 掠れた様な作兵衛の声。
「作ちゃん……?」
 震えるような数馬の声。
 二人は、戸惑ったままお互いから視線を外す事が出来ない。 
「作兵衛」
 留三郎が名前を呼ぶと、作兵衛は弾かれた様に視線を数馬から留三郎に移す。
「俺、ちょっと出てくるから。紅茶、淹れろよ」
 固まっていた作兵衛に声をかけて、留三郎は数馬をゆっくりとソファに座らせる。
「あ、あの……」
「お前達二人の最大の問題は、話した時間の少なさだ。もう一回、ちゃんと話してみろよ。そうすれば、少なくともこの時代に二人とも記憶を持って生まれてきた意味がわかるんじゃないか?」
 羽織るものなんて必要の無い季節。財布と携帯。それがあれば何とかなる。
 自分はここにいない方がいい。
「じゃあ、行って来るから。店番頼んだぞ、作兵衛」
 作兵衛の肩を叩いて、扉へ向かう。扉を開けば、柔からかな春の日差し。ちりんとドアベルを鳴らして扉を閉めると、看板を裏返す。
 今はともかく時間が必要だ。
 きっと、二人の事だから夜まで何て言わないだろうけれど、それでも少しの時間でも二人っきりにさせてやりたい。
 歌いだしたいくらいの気持ちを押さえて、留三郎は一度店を振り返ると。
「ありがとな」
 店の名前に、感謝を告げた。





「いい匂い」
 作兵衛が淹れた紅茶を一口飲んで、数馬は笑った。目元が赤くなっているのが、少し可哀想に見える。
「……ごめんね」
「え……」
「馬鹿みたいな事、言ってごめんね」
「何…?」
 作兵衛は挙動不審な素振りを見せた後、どうして良いか分からず留三郎の指定席の椅子に腰掛けて、数馬を見た。
「死ぬ前と、緑色のドレス。ほんとに、ごめん」
 馬鹿な事なんかじゃない。そう言わなければならないのに、目の前に数馬がいると言うだけで息が止まりそうになる。
 呼吸の仕方を、言葉の紡ぎ方を、思い出せなくなる。
 何を言えば良いか分からないのだ。
 会ったら、なんて仮定していなかったから。この時代で会えるなんて思って見なかったから。
「でも、まさか、作ちゃんが作ったとは思わなかった」
 不意に数馬が視線を窓際に向ける。そこには、作兵衛が作った不思議な風合いのドレス。
「声はそっくりだな、って思ったけど」
 ゆっくりと立ち上る湯気。紅茶の香りは柔らかに二人を包む。
「声…?」
 何でカタコトみたいな言葉しか出てこないのだろう。それが歯がゆい。
「作ちゃんとサクさん。ちょっと泣きそうになった」
 そうだった。ドレスの為の採寸や話をした時は数馬は目が見えなかった。自分が富松作兵衛だと知らなかった。
 声だけの存在。
 自分の声を覚えてくれていたのかと思うと、不覚にも泣きそうになる。
 そんな作兵衛の葛藤など知らず、数馬はじっと作兵衛を見て。
「あんな素敵なドレス、ぼくには勿体無い」
 そう口にした。
「どうして…?」
 お前の為に作ったドレスなのに。そう言えたらどれだけ楽だろう。作兵衛にその言葉を紡ぐだけの勇気は無かった。
 だから、理由を聞きたかった。
 留三郎との会話は聞こえていたから分かっている。
 白いドレスを着る資格が無い、幸せになるわけにはいかない。
 その理由は自分だという馬鹿な話だけれど。作兵衛には自分が壊れていると言う自覚は無かった。と言うより、その記憶は無い。
 数馬が傍にいたと言うなら、その記憶を取り戻したいけれどその記憶は小さな欠片も思い出せない。
「だって、似合わないから」
「え、似合うと思うけど」
「何で…?」
「だって、お前を見て作ったんだから。そりゃ、確かに食満先輩みたいに綺麗なデザインには出来なかったけどさ…お前の空気はふわふわしている」
「ふわふわ?」
「ああ。会った時から思ってた事。数馬が女の子として生きてたら、こんな感じなんだろうなって。忍装束着てなかったら、こんな風に笑ったんだろうなって」
 作兵衛が何気なく零した言葉に、数馬は俯く。
「数馬?」
「……今すぐ、男として生きます」
「へ?」
「だ、だって、そんなふわふわしてないし! 目が見えるようになって顔見たら、やっぱり下膨れだし! 眉太いし、睫少ないし!」
「え、それの何が問題なんだ?」
 数馬の突然の発言の意味が分からない。
 別に何一つ女の子でも問題は無いと思うのに、むしろ、ああ女の子だったらこんな風なんだろうな、そんな風に考えられたのに。
「どう考えたって、あのドレスに釣りあう見かけじゃない!」
 ――本当に、女の子なんだ。
 作兵衛は、目の前の数馬を見てそう思った。あの頃は容姿の事なんて気にしていなかった様な気がする。気にしていたのは、怪我や迷子や人の事ばかり。自分の事なんて影が薄いことくらいしか気にしていなかったのに。
 こんな部分もあったのかな。
 そう思うと、心の中の柔らかい部分がざわりと音を立てた。
「外見、じゃない」
「え?」
「確かに外見は考えた。あのドレスの形は体型が隠れるし。肌もシフォンの重ねたドレスのお陰で露出してない。でも、それ以上に…お前の雰囲気で作ったんだ」
 いつも内に秘めていた柔らかい部分。それを覆っていた、強い部分。その全てを思い出して、柔らかな麻のドレスとさらさらとした薄い絹のドレスを重ねたのだ。
 その言葉に、数馬は一瞬泣きそうな顔をしてまた俯いた。
 少し、沈黙が重い。
 どうにかしなければ。
 その時、はっと思い出す。
「あの、ドレス、さ」
「何?」
「ホントは、まだ完成じゃねぇんだ」
「え?」
「数馬が着て、えっと、これ…」
 作兵衛が慌ててごそごそと椅子の後ろから出したのは。
「これ…」
「うん、数馬なら前髪出した方がいいと思って、それでショートベールとこれの組み合わせ。髪は高めに結って後ろをふんわりさせたアップで、それで…」
 作兵衛がそっと見せたのは、細工の綺麗な王冠。シルバーとスワロフスキーのビーズで出来ている。大きさは、作兵衛の手におさまるくらい。
 これももちろん作兵衛の手作りだ。
「クラウンて言うんだ。ティアラとどっちにしようか迷ったんだけど。数馬のふわふわした髪ならこれが似合うかなって…」
 くるりと目を丸くした数馬に、作兵衛は落ち着かないものを感じて慌てるように捲くし立てる。
「そ、それでな! ちょっと用意してるんだけど、あの、バックコサージュって言うのがあって、ホントは腰に付けるんだけど、数馬の場合胸の切り替えの部分の後ろに付けるようになってて、ちょっと小さめに作ってある生花の菫のバックコサージュで、あ、あの菫を選んだのは数馬の髪、菫みてぇだから! 地味かもしれないけど、あ、っと……ごめん…」
 そこまで言って、謝罪を口にした。
 地味だなんて。そんな事言ったら数馬は気にするかもしれない。その上、見た方が分かりやすいものを説明するなんて、馬鹿すぎる。
 久しぶりに、それこそ五百年ぶりに会ったのに、数馬を笑顔にする手段を持っていない。
 綺麗なドレスを作っても、着て貰えない。
 何も出来ないのか。まだ、何も出来ないのか。
 作兵衛が膝の上でぎゅ、と拳を作ると。
「また同じこと言うし」
「え?」
 からかうような響きを含んだ言葉に顔を上げれば、そこにはあの頃と何も変わらない数馬の笑顔。
「言ったよね、菫みたいだって言った人がいたって」
 確かに聞いた言葉。
 菫の紅茶を飲んだ数馬が言った言葉。
「覚えてない? ぼくの髪を見て言ったのは作ちゃんだよ」
 お前の髪、菫みたいだな。
 作兵衛が覚えていない言葉。けれど、数馬の中では大切な言葉。
「俺、言ったか…?」
「うん、言った。また同じ事言われるとは思わなかったから」
 思わなかったから。
 同じ言葉を数馬は繋げて。
「嬉しかった」
 あの頃と同じ笑顔で、首を傾ける。
 ああ、この感情をどうしたら良いのだろう。
 もしかしたら、神様はいるのかもしれない。
 神様がいるから、自分達にもう一度あの時途切れた人生を歩ませてくれているのかもしれない。
 今まで存在なんて信じていなかった神様と言う名前の奇跡に、少しの希望を寄せる。
「数馬…」
「ん?」
 会ったのは二度目。けれど、歪だった絆は輝きを取り戻して、昔の関係に戻っている。
「あのさ、……」
 今度は自分の番。あの時告げられなかった言葉を、渡す番。
「ずっと言いたかったんだ」
「何を?」
「お前が、作ちゃんてまた呼んでくれたらな、って」
 何度でも、お前の声を探すから。
 お前が呼べば、振り向くから。
 あの時、言えなかった言葉。
 その言葉を聞いた数馬は。
「……反則だ」
 小さく呟いて、顔を覆った。
「駄目、か?」
 さっきまで呼んでいた。そうじゃない、その「作ちゃん」じゃない。ただあの時のように、自分の姿を見て言って欲しいのだ。
 花が綻ぶように、自分の名前を。
 顔を覆っていた手をゆっくりと外して、数馬は紅茶のカップを掴む。
「……これ、何て紅茶?」
「え?」
「この紅茶」
「ああ、これ? 俺も知らないんだ。食満先輩が持ってきた紅茶で…何か問題があったか?」
 慌てる作兵衛に、数馬は顔を真っ赤にして。
「美味しい」
「え?」
「作ちゃんが、ぼくの為に淹れてくれた紅茶だから、美味しい!」
 そう言ってぎゅっと目を瞑った。
 自分を呼んだ名前は、柔らかい響きではなかったけれど、それでも自分を特別だと言ったと同じ言葉に。
「お、おう……」
 不器用な作兵衛は、そんな返事しか返せなかった。




「お前が探してきた紅茶、ご利益あったぞ」
 缶コーヒーを手にして、留三郎は携帯電話の向こうにそう話しかける。
「しあわせ、なんて紅茶があるとは思わなかったがな」
 最近、諸事情で茶道を始めた友人が探してきてくれた紅茶は「しあわせ」と言う名前の日本で作られている紅茶だった。
 作兵衛に手渡した紅茶は、きっと今頃二人のしあわせに繋がっているだろう。
「…きっと、上手く行く。何せ、あいつにはロイヤルアンバーが付いてるからな」
 壊れていた作兵衛に留三郎が渡した石は、幸せの象徴と言われている石だった。
 お守りだ。
 そう言って渡した石。
 それは、その時の自分には必要なかった石。自分を幸せにしてくれた石。だから、今度は作兵衛の幸せに繋がればと思っていたのだ。
「…今日は、パス。あいつの話を聞きたいんだ。また、そうだな…今度はみんなで飲みに行こうぜ」
 酒を呑む誘いを断ると、留三郎は「じゃあな」と告げて通話を終えた。
 今日は、あいつの好きな酒を片手に話を聞こう。
 惚気だってなんだって聞いてやる。むしろ、喜んで聞いてやる。
 少しだけ冷たい空気を含んだ風が吹いてきた。
 その時、携帯電話に届いたメール。それは作兵衛からで、早く帰ってきてください、の一文だった。
 さあ、どんな未来が待っているだろう?
 自然に上がる口角を止める事なんて出来ない。
 帰路に着く人々の間を縫って、留三郎は少し浮かれた足取りで自分の店に足を向けた。







 いらっしゃいませ。
 どんなドレスをお求めですか?
 幸せが白とは限りません。貴女のお好きな色でお作りします。
 その前に、好きなだけ泣いてください。
 この空間は、誰もいませんから。
 紅茶はお嫌いですか?
 紅茶は幸せを呼ぶんです。一口飲んでください。
 そして、涙の訳を聞かせてください。それが、素敵なドレスになりますから。
 ああ、言い忘れていました。



 ようこそ、ロイヤルアンバーへ







不器用な少年に安らぎを







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