君が見た未来を 白く、白く、染めて 自分には似合わない。そんな事は分かっている。 手にした地図を握り締めて、少女は路地と言うには冷たすぎるコンクリートの壁を見上げると、くるりと踵を返そうとする。 けれど、何かが自分を繋ぎとめて。 このまま進めと、手の中の地図が言った気がした。 「…………」 ある訳無い。この先にある訳無い。 そう思いながら、それでもこの先にあるとどこかで信じて唇を噛む。 コンクリートの壁が途切れると、広がった視界。 ぽつんと、コンクリートの壁から切り取られたように不似合いな建物が一つ。 乳白色の壁に、濃い茶色の凝った細工の窓枠。その窓から見えるものに、思わず少女は駆け寄った。 白く流れるような生地に、ふんわりとしたレースが綺麗なドレス。窓の中に飾られたそのドレスは、まるで一枚の絵の様だ。 そう、自分には手の届かないものの様に。 きっと、自分には一生縁の無いもので、着る事なんて無くて、こうして硝子一枚隔てて見つめるだけのもの。 でも、こうしてこんなに近くで見るのは初めてだ。 いつも、興味のないふりをして通り過ぎるだけ。いつも、積み上げられた雑誌をちらりと見やるだけ。 少女にとっては、それだけのもの。 それだけのもの、と思うようにしてきた。 本当は触れてみたいけれど、うん、と頷いて我慢をする。 綺麗なドレスを見れただけで幸せ。こんなに近くで見る事が出来て幸せ。 さあ、帰ろう。 今度こそ踵を返して帰ろうとした時、ドアベルの音がした。 どんな人がこの店を訪れたのだろう。そんな興味からふと扉を見た。 そこに立っていたのは、一人の赤毛の少年。どうやら、看板を出すところだったらしい。その手には、古ぼけたけれど立派な板に横文字で店の名前が書かれた看板があった。 「どうぞ」 少年は笑って、少女を見る。 「いえ、あの…」 「うちに用だろ?」 「……あ、すいません、ちょっと、道に迷って」 「道に?」 「はい。それじゃあ、すみません」 ぺこり、と頭を下げてその場から去ろうとする少女の腕を、少年は躊躇いも無く掴んだ。 「あ、あの…」 「道に迷ったくらいじゃ、うちには辿り着けないんだよなぁ…」 「へ?」 「入りなよ。先輩、お客さん」 「いや、客じゃ…」 少女は、客、と言う言葉にぎくりとする。この店に見合うだけの金額は持ち合わせていない。 このままでは迷惑をかける。 そう思って少女は、少年に「違うんです!」と叫んだが、少年は笑って。 「うちの店の前に来る人間は客って決まってるんだよ」 と意味不明な事を言った。 何か、変な店に来てしまった… あからさまに顔色を悪くした少女に、少年はふっと息を付くと。 「それ、うちへの地図だろ?」 「え?」 「それ持ってる人間の話は、絶対に聞くって言うのが、うちのポリシー」 強く握り締めていたのは、この店に辿り着く為の地図。 少女が踏み出した勇気の一歩。 「ほら」 そう言って、少年はぐい、と少女を部屋の中に引き入れる。少女は抵抗する間もなく、店の中に引っ張り込まれた。 店内は、アンティークな空間に作り上げられている。 飴色のカウンターの隣に、深い緑色の年代物のソファ。その前には綺麗な石が散りばめられたテーブル。店の奥はアンティーク調の小さな薔薇柄のカーテンで仕切られている。 それを見た瞬間、少女の瞳は輝いた。 「ちょっとここに座って待ってろよ」 そう言いつつ少女をソファに座らせると、少年はカウンターの奥に姿を消した。 残された少女は、悪いと思いつつも店の中を見回す。 全てがアンティーク調で纏められていてどこか浮世離れした店内は、夢の世界のようだった。きっと、これがふわふわとした少女なら似合うだろうし喜ぶかもしれない。 けれど、自分はあまりにもこの店には不釣合いすぎる。 こう言うものが好きな自覚はある。少女趣味な、こんな空間は大好きだ。だが、それは似合う人間が言っていい台詞であり、自分が口にすれば笑われるだけだ。 この店の主人はきっと可愛らしい女性なんだろうな。 そう思っていると、がたん、と中二階になった場所から音がした。 何かと思って見上げると、そこには青年が一人。従業員か何かだろうか。手にした箱を持って降りてくると少女をじっと見た。 やっぱり、自分がこの店にいるのはおかしい。 青年の視線を受けて、恥ずかしさで泣きたくなる。 そうしていると、カウンターの奥から少年が出てきて「先輩、お客さん」と言って少女の前にカップを置いた。 「紅茶、飲めるか?」 驚いて顔を上げると、自分の腕を掴んだ少年の顔。 綺麗なカップに香りの良い紅茶。この少年が淹れてくれたのだろうか。 「んな泣きそうな顔するなよ。取って食ったりしねぇし」 ぽんぽんと少女の頭を軽く撫でて、少年は困ったように笑う。 「あ、この人オーナー」 「いらっしゃい」 「え………」 オーナーと言われた青年がにっこりと笑った。そうして、少女の前のテーブルを挟んだ椅子に腰掛ける。 「意外か?」 青年は笑ってスケッチブックを手にした。 「あの……」 「顔に書いてる。まあ、こんな内装だから大体びっくりされるんだよな」 しゅっしゅ、と鉛筆が走る音。 青年の隣に少年も座ると、二人は笑って。 「ようこそ、ロイヤルアンバーへ」 そう言った。 この店は、誰も辿り着けないと言われている店。 オーダメイドウエディングドレス専門店―ロイヤルアンバー― この店のドレスを着た花嫁は絶対に幸せになれると言われている。それは、少女も知っていた。教室の噂話や雑誌の投稿欄、色んな場所で聞いた事がある。 けれど、その存在は既に都市伝説扱いで、物語を語るように誰もが口にするのだ。 だから、この店に辿り着いた時、何で自分が、と思った。きっと、この店のドレスが必要な人は世の中にたくさんいて自分じゃないと思っていたから。 なのに、気が付いたら店の中に自分はいる。 「この店の話は聞いた事あるか?」 鉛筆を走らせながら、青年は聞いた。 「この店のドレスを着たら、絶対に幸せになれるって…」 「そっちじゃなくて」 「え?」 その噂意外は聞いた事が無い。どんな話だろう。 そんな少女の様子を見て、青年はちらりとスケッチブックから顔を上げて。 「この店は、涙を捨てる店なんだ」 そう、言った。 「涙を、捨てる……?」 「そう。幸せになれるのは涙を捨てるから。だから、うちのドレスは幸せになれるって言われてる」 捨てる涙なんて無い。 捨てようにも涙は無い。そんなもの、置いてきてしまった。 「だから、君の涙の理由が知りたい」 「俺、泣いてませんよ?」 青年の言葉に少女は首を傾げる。 少なくともこの店で泣いてはいない。恥ずかしさで泣きそうにはなったけれど。 「俺達には、泣いてる様に見えるけどな」 「え……?」 「この店に来た時から、ずっと」 そんな顔をしていただろうか。頬を触ってみるが、涙の痕なんて無い。 泣いていませんよ。 そう言おうとしたのに、表情筋が引きつったように動かなくなっていた。いつも作っていた筈の笑顔が、作れない。慌ててむにむにと頬を揉むと、少年が「無理すんなよ」と酷く真面目な声で言った。 「君がどんな噂を聞いてこの店に来たのかは分からないが、君にはドレスが必要なんだろう?」 「…………」 「そうじゃなきゃ、こんな場所まで来ない筈だ」 それは、少女の踏み出した一歩。ずっと心の中の奥底に沈めていたもの。この店の地図を見た時、見えた少しの光。 「俺達しかいないから、話してみればいい。知らない人間だから、話せる事だってあるだろう?」 鉛筆の走る音。柔らかな紅茶の香り。少女趣味な空間。それは、少女の気を緩ませた。 「こんな外見で言うのも、何なんですけど」 「何か問題あるのか?」 「いや、だって、どう見てもその、……」 すらりとした身長。綺麗だけれどどちらかと言えば凛々しい顔立ち。ポニーテールにしたばさばさとした髪。少女にしては筋肉質な足。 一見すると、男勝りな少女だ。セーラー服を着ていなくて、そのボディラインがくっきりしていなければ少年に見えるかもしれない。 「それを言うなら、俺なんてこの顔でこの店のオーナーだ。問題ないだろ?」 確かに、この店の雰囲気は青年とは違いすぎる。同じ鉛筆を走らせるのでも建築士と言われた方が納得が行く。 この人たちは魔法使いかもしれない。 少女は、そんな事を思う。 今から話そうとする事は、きっと馬鹿みたいで、少女には似合わなくて。でも、そんな話でも聞いてくれるかもしれない。 目の前にある二つの顔がそう思わせた。 そう思った少女は、自然と笑みを作る。それは、とても困っていたけれど。 「俺、前世みたいな記憶があるんです」 「前世みたいな?」 「もしかしたら、俺の空想かもしれないんですが。時代劇みたいだから、前世って思ってるだけかもしれないんですけど」 「はっきりしてるんなら、記憶じゃないのか?」 「……記憶、だと、いいなって思います」 それは、幸せな記憶。 それを紐解くように、少女はぽつりぽつりと言葉を選んで話し続けた。 「その、記憶の中で、忍者の学校に通ってるんです。すっごく楽しくて。友達も先生も先輩も後輩もみんな大好きなんです」 「うん」 「俺は、何ていうのか分からないんですけど、今で言う宅配便と郵便が混じったような仕事の家の娘だったんですよね」 「馬借?」 「そうです。良く、知ってますね」 おおよそ、その職業は一般的に知られているものではない。少女も記憶が無ければ分からないだろう。 けれど、それを青年はさらりと言ってのけた。 「まぁ…それは。それで?」 首を傾げる少女に青年は苦笑いを零して、話を続けるように促す。それを受けて少女は、再び言葉を繋げた。 「忍者の学校に通ってるけど、将来はその跡を継ぐことになってて……」 じわり。 幸せな記憶の中で、広がる染みのように不安が広がっていく。 「無理矢理結婚でもさせられたのか?」 「いや、無理矢理なんてとんでもない! むしろ、なんであいつが俺を選んだのか分からなくて…」 「あいつ?」 「クラスメイトだったんですよ。俺なんかより、ずっと綺麗な顔立ちの男で。武士の息子で長男だったのに、自分の家を継がないで馬借の跡を継ぐって言った馬鹿です」 ふわり、と少女の顔に笑顔が浮かんだ。 「いっつも馬鹿みたいに喧嘩して、仲直りして、すっごい大好きな友達の一人で。だから、突然結婚しようって言われた時にはびっくりしました」 「突然だったのか?」 「唐突で。ホント、行き成りで。勝手に人の人生決めるんじゃねぇ! って思ったんですけど」 「好きだったんだ」 「…………はい」 だから。 そう繋げる少女の声が、少し震えた。 「結婚するって決まって嬉しかったし、楽しみだったんですけど…」 「どうしたんだ?」 「俺、そこで死んじゃいました」 明るく言おうとしているけれど、声の震えは止まらない。 「死んだ?」 「多分。そこで、記憶が途切れてるから。その時、俺はその手段しかなくて、独り善がりな感情で動いてて…」 「どうしてそう思うんだ?」 「最後に見たのは、あいつの泣き顔だったんです」 あいつの泣いた顔なんて初めて見ました。 ぽたり。 今まで笑顔を必死で浮かべていた少女の瞳から、雫が落ちる。 「死にたくないって思ったけど、駄目で。その涙も拭えなくて。記憶はそこで終わるんです」 何度も、何度も繰り返し夢に見た泣き顔。 笑顔にしたいのに、どうすることも出来ない自分に悔しくて涙が溢れて。 だから、心の奥底に沈めていたもの。 「それが、君の涙の理由?」 「…………」 ぎゅ、とセーラー服の裾を掴んで少女は俯くと声を搾り出すように。 「あいつが選んでくれた白無垢、着たかったな、って……」 お前、こういうの好きだろう? そう言って選んでくれた、綺麗な反物で出来た白無垢。 口にしたら涙は止まらなくなった。 必死で我慢していた、ずっと考えないようにしてきた記憶の中の自分の声。 「そうか…」 しゅ、と鉛筆が走る音が止まる。 「これで行こうと思うんだけど、どうだ?」 「いいっすね。でも、ロングトレーンで行った方がよくないっすか?」 少女がごしごしと両目を擦って顔を上げると、柔らかなハンカチが差し出された。 「すみません。変なとこお見せして…」 「全然変じゃないさ。それより、確かに引き受けたから」 「え?」 「君のドレス。仕立てさせてもらうよ」 突然の言葉に、少女はきょとんとした後立ち上がり。 「そんな事…大体、俺、お金用意できないですし!」 真っ赤になって叫んだ。 「お代は貰ったさ」 「え……?」 「お代は、君の涙。君の涙に見合うドレスを仕立てるから」 ちょっと困ったように笑う青年に、少女はどうして良いか分からない。 初めて会った人達。けれど、初めてではない様な人達。その言葉を信じてみたいけれど。 「俺、学生で、相手もいないのに……」 「それは、このドレスが仕上がる時に考えればいいさ」 君が貰った白無垢には敵わないかもしれないけど。 そう言われると、涙がまた込み上げてくる。 「泣きたいだけ泣いたらいいよ。そしたらさ、服の上でいいから採寸させてくれるか?」 少年が何やらメジャーを取り出して、やっぱり困ったように笑った。 「採寸…?」 「ごめんな、男じゃ嫌かも知れないけど。うち、俺がドレスを縫うからさ…」 「え…?」 「うちは、この人と俺だけでやってる店なんだよ。だから、この店に来れる人のドレスしか仕立てられないんだ」 信じて、みようかな。 話を笑わずに、真剣に聞いてくれた。 ドレスが出来上がった後、代金を請求されたらクーリングオフすれば何とかなるかもしれない。 そんな事を考えた少女が頷くと。 二人は、安心したように笑った。 ドアベルが鳴ったのを確認して、少女の姿が消えたのを確認して少年は小さなノートを見て、ふーっと息を付く。 「どうした、作兵衛」 「いや、あれを越えるドレス作れるかなって…」 少年―作兵衛が思い描いたのは、丁寧に刺繍が施された綺麗な白無垢。 「まあ、あれは確かに凄い出来だったな」 「立花先輩や藤内が走り回って探したヤツですよね。あん時でもすげぇな、って思ったのに」 後輩が祝言を挙げるから、とびっきりのヤツを探してるんだ。 そう言って笑っていた親友の姿。 「プレッシャーでも何でも、作るしか無いだろ?」 採寸ノートに記された名前は「加藤団蔵」。加藤村馬借衆の一人娘。そして、思い人を守る為に祝言の前夜に死んでしまった少女。 そんな彼女を無くした少年の姿を思い出す。 笑う事も出来ず、泣く事も出来ず、彼女の残した全てを守ろうとした少年。 その少年の姿は、痛々しくて記憶から離れない。 「文次郎のヤツにも連絡入れとくか」 白無垢姿を楽しみにしていた悪友の姿を思い出して、青年―留三郎は重い息を吐く。 きっとあの少女のドレスを仕立てると言ったなら、喜ぶだろう。表には出さないだろうけれど。そして、思いっきり注文をつけて来るだろう。 それでも、それが優しさに続いている事を知っている。 「そんでもって、仙蔵のとこのあいつ探さないとな」 期限は一ヶ月。 出来ない事は無い。大丈夫、絶対に出来る。 涙を我慢した、あの少女の為に。 「食満先輩」 「ん?」 「途切れた記憶の続き、取り戻してやりましょうね」 「そうだな」 そうして、留三郎はスケッチブックを再び開いた。 一ヶ月。毎日カレンダーを眺めた。 青で統一された部屋だが、ところどころに可愛らしいものが飾られている部屋は、それだけでその部屋が女の子のものである事が分かる。 団蔵の昔を知っている人間なら、何があったんだ、と驚くに違いない。特に、一緒の部屋だった鉄砲隊の若太夫や部屋を片付けに来ては怒鳴っていた染物屋の息子など、慌てふためくだろう。 それ程に、団蔵の部屋は綺麗に片付けられていた。 きちんと整理された本棚に、綺麗に整えられたベッド。とてもではないが、「前」の団蔵なら部屋を綺麗にする事など無理難題だったに違いない。 団蔵には、過去の記憶がある。 過去と言うのかどうかが正しいのかは分からないが、それは生々しい記憶で、過去といっても遜色は無かった。 その全ては、楽しい記憶ばかりで。きっと辛い事があった筈なのに、記憶となった今では楽しい事しか思い出せない。 時代劇みたいな場所。良くドラマである江戸時代と言うよりは、まだ寂れていて。城もあんなに綺麗で立派なものではない。調べてみれば、室町時代と言うのが一番近い事が分かった。 その時代、忍者を育成していた学校があった。 何処かの山奥の中にあった学校。 その学校に、通っていた団蔵ははねっかえりだったと思う。 女でありながら、男としてその学校に通い、最高学年になる頃には逞しく頼りがいのある兄貴分であると同時に、鬼の会計委員長と呼ばれるようになっていた。女だと知っていたクラスメイト達は「嫁の貰い手が無くなる」と嘆いていた事を覚えている。 それでも、いつかは結婚しなければならない身だと分かっていた。馬借の一人娘だ。どんなはねっかえりでも、結婚して跡を継がなければならない。相手は父親が選ぶだろう。悪い縁談を持ってこないと分かっていても、それでも、卒業が近付くにつれて不安になったのも仕方ない。 そんな団蔵に。 今でも覚えている。 久しぶりの座学の授業の前。教科書を広げながら、くだらない話をしていた教室で、長い机を挟むように自分の前に座った男は言った。 「結婚しようか」 それはもう、授業が終わったら一緒にご飯を食べようか、くらいの軽さで。 それを聞いた時、団蔵は思わずその男の額に手を翳した。からくり好きな作法委員長、と言う厄介な男だったが、大事なクラスメイトの一人。疲れているのかと思ったのだ。そうでなければ、こんな突拍子の無い事を言い出すわけが無い、と思って。 それなのに、その男は団蔵の手を握ると。 「こないだの夏休みに、親には話、付けて来た。あと、団蔵のところの親御さんに挨拶に行くだけなんだけど」 その時、団蔵が混乱した事を責める者は誰もいないだろう。 何と言うか、この男と団蔵は仲は良いけれど競い高めあう相手で、男は口を開けば厭味を零していたのに。 確かに、夏休みの帰省の後、大きな怪我をして登校してきたのは覚えている。 「……ねえ、団蔵。黙ってないで何とか言ってよ」 本気で疲れているのではないかと疑ったけれど、その瞳は真剣で。団蔵は、思わず拳で殴ってしまった。 「ったいなぁ。人が真剣な話してるのに」 殴られた頬を摩りつつ男はむ、っと眉間に皺を寄せる。 「お前が変な事言うからだろうが!」 「変な事なんて言ってないだろ」 「変だ!」 「どうして?」 「ど、どうしてって…お前、正気か?」 「正気だけど。何、団蔵、他に嫁ぎ先でもあるの?」 「ねぇよ!」 「じゃあ、いいじゃないか。結婚しよう」 それは、二度目の求婚の言葉。求婚とは思えない軽さの響きで、男は言った。その時には、流石にクラスメイトも気が付き目を丸くしている。 「ふ、ふざけんな!」 「何、嫌なの?」 「嫌とかそういう以前の問題だろ! その、結婚の前に普通付き合うとか何とか」 「…団蔵、結構思考回路が乙女だね」 「うるせぇ! と、ともかくだ、俺は結婚なんてしない!」 「でも、多分、お前の家の方に家から縁談が持ちかけられてると思うよ」 「は?」 「家柄的に問題ないだろうし。それとも、知らない相手に嫁ぎたい?」 「俺は跡取りだぞ! 結婚は婿入りしてくれる相手じゃないと無理だ!」 「だから、その話を親としたんだって。馬借になるって」 何か、別の次元の人間と話しているような気がしてならない。 嫌がらせだろうか? 人生最大限に使ってまでの嫌がらせだろうか。そうとしか思えない。 もしも、家に既に男の家から縁談が行っていれば、間違いなく父親は快諾するだろう。今まで来た縁談の相手の中で、確実に一番の馬術の腕を持っている。 「お前、俺のことそんなに嫌いか!」 「何で?」 「だって、どう考えたって嫌がらせ…」 「自分の人生棒に振ってまで嫌がらせをしてどうするんだよ」 「じゃあ、何で…」 眉間に皺を寄せる団蔵を見た男は、それはそれは綺麗に笑って。 「そんなの、団蔵が好きだからにきまってるじゃないか」 「!」 「下手に言ったってお前は信じないだろうから、外堀から埋めて行こうと思って。ここまでやったんだから、信じてくれるよね?」 逃げられない、と団蔵は思った。 外堀は完全に埋められて逃げ場所は無い。どうやったって、この男と結婚するしかない。 だが。 こんな事をしたのがこの男以外なら、何とかして破談にしただろう。それこそ、最強と謳われるこのクラスメイト達に頼み込んででも何とかしただろう。 最初から、叶わない筈の思いだったのに。 全ての思いを諦めて、親の決めた相手と添い遂げる筈だったのに。 色んな感情が綯い交ぜになって、団蔵の目からぼろりと涙が零れる。自分の事では滅多に泣かない団蔵が泣いた事に、周囲もどうして良いか分からずあわあわと慌て始めた。そんな中、男はぐい、と親指で団蔵の涙を拭うと。 「本気で嫌なら、今すぐ全部を白紙に戻す。けど、僕の気持ちは本当だから」 そう、静かな声で言った。 これから先、どうなるか分からないけれど。これから先、何があるか分からないけれど。それでも、その気持ちを信じてみたかった。男の気持ちを信じてみたかった。 「…………」 ぐい、っと涙を乱暴に拭って団蔵は男の胸倉を掴む。 喧嘩になるかな、これは。 そう思った周りと裏腹に、団蔵は男の顔に自分の顔を近づけると。 「加藤村背負うんだから、覚悟しろよ」 強い視線を投げる。 それを受け取った男は、口の端を上げて「もちろん」と不敵に笑った。 その瞬間、クラス中が一体になって拍手が起こった。 そんな事があって、卒業を迎える頃には準備は進んでいった。 団蔵の家に、男の家から本当に縁談の話が行き、団蔵の父親は快諾して、まあ、若い衆、特に団蔵が兄のように慕っていた人物を筆頭に男と一悶着があったりしたが、卒業して直ぐに祝言を挙げる事になった。 その際、男が団蔵にと用意してくれたのが、見たことも無い白無垢だった。 織り込まれた模様と刺繍が綺麗な花びらになった白無垢を見て、びっくりしたのと同時に嬉しかったのを覚えている。 自分が釣りあうような容姿はしていないことなんて十分承知していた。それでも、その白無垢に袖を通すのが楽しみだった。 好きな人と添い遂げる事が出来る上に、こんな綺麗な白無垢が着れるなんて。 ――けれど、その日は永遠に来なかった。 学園を卒業して直ぐ、大きな戦が起こったのだ。団蔵の村は間接的に関わったが、男の家の方は仕える城が戦に巻き込まれた事もあり、男はもちろん戦に赴いた。それが、その家での最後の仕事だ、と笑って。 今思っても、独り善がりな感情で動いたと思っている。それでも、男を守れたのは何より誇らしかった。 この胸を貫いた矢の痛みなど、感じない程に。 戦場に赴いたのは団蔵も一緒だった。父親にこれが最後だから、戦うのは最後だからと言って村を飛び出し、合戦城で背中合わせで男と戦った。予定では祝言を挙げる日だった日の前日に。 自分達は忍術には長けていただろう。そして、戦うことには長けていただろう。 だが、まだ、子供だった。 男目掛けて飛んできた矢を振り払ったが、一本だけ振り払えなかった。刀を振るより早く、団蔵は体を動かしその身に矢を受けた。 男は気付かない。 それでいい、と思った。 男が死なないなら、それでいいと思った。 男が生きてくれるなら、それでいいと思った。 そんな感情が自分の中にあることに驚いた。 淡い恋心だった筈の、男への感情。なのに、いつの間にかそれは随分と深いものに変わっていたらしい。 伝えたら男は喜ぶだろうか。驚くだろうか。 そんな事を考えたら楽しくて嬉しくて悲しくて涙が出てくる。 それでも、ここで終わるのは確か。自分のした事に後悔は無い。 ただ一つ、心残りがあるとすれば綺麗な白無垢に袖を通せなかったこと。 朦朧とする意識の中、ふわり、とした感触。 開いているのも億劫な目の中に飛び込んできたのは、綺麗な男の顔。見た事が無かった、涙を零して歪んだ顔。 笑って欲しいのにな。いつもみたいに、不敵に。でも、大丈夫、お前は強いから、きっと笑えるよ。 そう言いたかったのに、声なんてでない。 腕も上げられない。 何一つ残すことの出来なかった男に、団蔵は小さくごめんね、と唇を動かしてみた。 お前を置いて行くことを許して。 一緒に、生きる事が出来なくてごめんね。 死にたくない、だけど。 それでも、幸せだったから。 だから。 せめて涙を拭えれば良いのに。 そう思った瞬間、全ては暗闇になった。 これが、団蔵の幸せな過去に訪れた最後の記憶。 団蔵はごしごしと乱暴に涙を拭うと、カレンダーを確かめる。 今日だ。 あの、不思議な店との約束の日。 団蔵とは無縁の世界だった、あの店との約束の日。 手にしたカレンダーを机の上に置くと、団蔵は部屋を後にする。向かうのは、あの店だ。 あの店の噂は知っていた。 その店で仕立てられたウエディングドレスを着た花嫁は絶対に幸せになれる。そんな噂。だが、正直団蔵には関係ないと思っていたのだ。 結婚する相手も、その前の恋愛する相手さえいない。周りからは、恋愛なんてしない、と思われている類の人間だ。 だから、そう言う話題には極力触れなかった。 可愛いものや綺麗なものが好きな気持ちも、周りには見せなかった。 と言うより、遠ざけていたのかもしれない。 あの時、最期に見た涙がどうしても忘れられなくて、あの男以外の誰かを好きになるなんて出来なかった。 あの男が好きだった。大好きだった。だから、他の誰かと恋愛なんて出来なかった。 でも、その気持ちもそろそろ終わりにしなければならない。 あの男は、今、ここにいないのだから。過去の世界、もしかしたら団蔵のただの妄想の世界の人間だから。 見た目とは裏腹な可哀想な団蔵の恋心。 そんな気持ちを抱えていた、団蔵の元に一通の手紙が届いた。白い封筒に地図とカードが一枚。カードには店の名前が書かれていて、まさか、と思った。 だって、自分には関係ない。そう思っていたから。 それでも、何かに縋りたかったのかもしれない。団蔵は、地図を握って店を目指した。 そうして辿り着いたのは、店には不釣合いな男が二人で経営している店。 少女の夢が詰まった店。 それでも、もしも、あの胡散臭い店が本当に涙の代わりにウエディングドレスを仕立ててくれるなら捨てられる。 そう思った。 こんな、過去に捕らわれた自分の馬鹿みたいな恋心を。 ただの胡散臭い店なら、団蔵は足を運ばなかったかもしれない。一ヶ月も待たなかったかもしれない。けれど、あの店には団蔵のもしかしたら、があったのだ。 窓を眺めていた自分を店へと誘った赤みがかった髪の男が、あまりにも自分が過去と呼ぶ記憶の中の先輩の一人に似ていたから。 いつも自分の先輩が迷子になる度に、お世話になった先輩に似ていたから。 成長したらこんな姿だろう、と思った程だ。 そして、随分とロマンティックな内装の店にはそぐわないオーナーの男は、団蔵が尊敬していた誰よりも忍者らしかった先輩と事ある毎にぶつかって喧嘩していた先輩に似すぎていた。 あの店が、たくさんの忍具に溢れていて、様々な備品があったなら間違いなく団蔵は名前を呼んでいただろう。 名前なんて知らない筈なのに、過去の自分が知っている名前で呼ぶなんておかしな話だけれど。 コンクリートに挟まれた細い路地を歩いていると、団蔵の顔が少しずつ歪んでいく。 もう直ぐ、馬鹿みたいな自分の恋心を捨てると言うのに、思い出すのは過去の記憶ばかり。そうして、最期に見たあの男の顔ばかり浮かんでくる。 やめようか。 足がぴたりと止まる。 この恋心を捨てるのはやめようか。 でも、捨てなければ始まらない。白無垢とあの男に捕らわれたままの心は、どこにも行く事が出来ない。 進むことも躊躇い、戻ることも躊躇う。 団蔵は、何度も「ぎんぎん」と小さく呟く。団蔵にとっては、いつも前を向くための呪文のようなものだ。 今までは、そう呟けば強くなれたのに、それなのに、呟くたび涙が零れていく。 そうしていると。 「そんな暗いところで泣くなよ」 ゆっくりと差し伸ばされた手。 何かと思って顔を上げれば、あの店の少年が立っていた。 「ほら」 ぎゅ、と服の裾を掴んでいた団蔵の手を握って、少年はコンクリートの隙間から団蔵を光の中に引っ張り出す。 「紅茶、淹れてやるから」 少年は泣き止むことの出来ない団蔵の手を握ったまま歩くと、そのまま店の扉を開けた。 店の中は、一ヶ月前に来た時のままで夢見る少女のような風合いを見せている。その雰囲気の中で団蔵は、止まらない涙を何とかしようと乱暴に涙を拭った。 それでも、涙は止まらない。 「先輩、俺、紅茶淹れて来ますんで、ドレスお願いします」 そう言って少年はそっと団蔵をソファに座らせると、何やら中二階に声をかける。そうすると中二階から「来てくれたんだな」とオーナーが顔を出した。 とんとん、と中二階から降りてきたオーナーの手には何やら大きな白い箱。 やっぱり、似ている。 白い箱にも興味があったけれど、それよりそのオーナーの顔の方を見てしまう。 それを、箱への興味と取ったのか嬉しそうにオーナーはその箱をとん、と団蔵の前に置いた。 「一応出来上がったんだけど、君の記憶の中の白無垢に勝てるかどうかは分からないんだ」 「いえ、そんな……」 「気に入らなかったら、もう一度作り直すから。着てみてくれるか?」 「え…いや、その、前にも言いましたけど、俺、お金…」 「代金は、その涙、だよ。その涙が止まる為のドレスが作りたいんだ」 何で、こんなにこの人は、この店は優しいのだろう。 「これは一人で着付けが出来ないんだけど…どうしてもこのデザインで行きたくて」 「え?」 「あいつが、着付けしてくれるけど、いいかな」 あいつ、と呼ばれた少年が紅茶を乗せた盆を持って置くから出てくる。そうして、団蔵の前に紅茶を置くと「悪い」と頭を下げた。 「はい、大丈夫です」 別段見られて減るものじゃない。 しかし、ウエディングドレスを目の前にすると不安が押し寄せた。 「……なあ、代金、その涙だって言ったけど、もう一つ追加して良いか?」 やっぱりお金がいるのだろうか。 そう思って団蔵が焦っていると、オーナーは真剣な顔で。 「涙以外は、捨てないこと」 「え……」 「うちのドレスは、涙さえ捨てれば幸せになれる。だから、それ以外を捨てようなんて考えるなよ」 恋心を捨てようとした団蔵の覚悟が分かっていたかのように、オーナーはそう言った。 「………」 紅茶のカップを手にして押し黙った団蔵の頭を撫でて、オーナーは時計を確認して少年を見る。 「先に、着付けやっちまうか。ベールは俺が出してくるから。ドレスを着せてくれ」 「はい。紅茶、冷めちまうけど、ごめんな」 そう言って少年は団蔵の手を取り、大きな白い箱を持つと薔薇柄のカーテンを開ける。中は大きな鏡が一枚と様々な小物。採寸をした時と何一つ変わっていない。 てきぱきと用意を始める少年を横に、団蔵は着ていた服を脱ぐ。胸を圧迫する下着を脱ごうとしたところで、「そこから先は殺されるからこれ着てから脱いでくれ」と頭から被るような布を渡された。 こんな時、普通女性の店員かスタッフがいる方が何かと都合がいい筈なのに、男二人でやっていると不便では無いだろうか。 団蔵はそんな事を思いつつ、下着を取りてるてる坊主状態になると、少年が開けた白い箱の中身を見た。 白いドレスだ。見間違う筈なんて無い、綺麗な白いウエディングドレスが中にある。 「まず、これを着てくれ」 そう言って差し出されたのは、シンプルなドレス。何の飾りも付いていない、流れるようなラインのドレスだ。それを着ると、団蔵はもそもそと頭から被った布を取る。 背中の大きく開いたドレスは今まで着た事が無い。そして、何より豪奢でないそのドレスに、団蔵は安堵と少しの落胆を覚えた。 あまりごてごてしたドレスはきっと似合わない。でも、本当は少しだけこの店のような少女趣味なドレスが着てみたかった。 涙、なんて曖昧なものが代金なのだから我侭なんて言えないけれど。 「俺達の後輩の話なんだがな」 カーテン越しにオーナーの声がする。 「結婚前に、嫁さんに先立たれたヤツがいたんだ」 唐突に始まった話に、団蔵はそれと無く耳を傾けた。その間も、少年はごそごそと箱の中を探っている。 「そいつ、娘婿でな。嫁さんとこの家業を継ぐ筈だったんだよ」 静かな空間に響く時計の音とオーナーの声。 「嫁さんの実家は、そいつに他の未来があるからって、結婚の話無かったことにしようって言ったんだが」 しゅ、とカーテンが空いてオーナーは何やら薄い箱を抱えたまま。 「そいつ、そのまま嫁さんとこの家業を継いだんだ」 そう言ってオーナーは笑った。 「ちょっと待ってください。もうちょっとで出来上がりますんで」 ばさり。 少年はもう一枚大きな布を取り出して、くるりと団蔵が着ているドレスに巻きつける。 「あ、あの…」 「ん?」 「どうして、そんな話を?」 まるで、自分が、死んだ後、みたいな。 そう言おうとして、団蔵は言葉を飲み込む。 自分が死んだ話はしている。そう、前に、結婚を約束した相手がいた事も、話している。だから、きっとそんな話をしたんだ。そう思って。 「鏡」 「え?」 「鏡、見てみてくれ」 オーナーの言葉に、団蔵は何事かと鏡を見ると、そこには、見たことの無いような自分の姿があった。 さっきまでシンプルだったドレスが、綺麗で可憐なドレスに変わっている。 腰の辺りに大きな花のコサージュが付いていて、巻きスカートのようになったアンシンメトリーのドレスの裾がが長く長く伸びていた。そのドレスには細かな花の刺繍が施されている。 どうやら、刺繍が施された布をシンプルなドレスに巻く形のようだ。 食い入るように見詰めていると、ポニーテールにした髪を解かれ、器用にくるりと丸められるとぱちりとドレスと同じ刺繍が入ったボンネで上の方に止められる。そこから綺麗にベールが取り付けられた。 「よっし、出来上がり!」 少年がぽんと団蔵の肩を叩いて、鏡越しに団蔵の顔を見る。 「こんな感じだけど、どうだ?」 「………」 言葉が出てこない。 白無垢じゃないけれど、綺麗なウエディングドレス。間違いなく花嫁衣裳だ。 これを着てあいつの隣に並びたかった。 叶う筈も無い願い。 あいつを置いていった自分には、許されない願い。 兵太夫…… 声にならない声で名前を呼んでみた。 どうしてあの時、死んでしまったのだろう。 兵太夫を残して、死んでしまったのだろう。 自分を好きだと言ってくれた大好きな人を泣かせて、死んでしまったのだろう。 ほろり、ほろり、ほろり。 大粒の涙が、団蔵の瞳から零れる。 そんな団蔵の背中をぽんと叩いた少年が困ったように笑って。 「藤内が探してきた白無垢に比べたら刺繍は雑だけど。ごめんな」 背中を押した。 「え……」 とうない? その名前に驚いて少年に声をかけようとした瞬間、ぐい、と強い力に引っ張られる。何事かと思う間に、薔薇柄のカーテンの中から引っ張り出された。 逆光が静かに店内を照らす。 その光に目を細めると、足元にオーナーが綺麗な白いパンプスを差し出してくれた。 「あ、あの…」 「履け」 自分の腕を持っているであろう人間の声がして、団蔵は思わずそちらを向いた。 自分の記憶が確かなら、いつも鍛錬だのなんだの零しながら厳しかったけれど強かった尊敬していた先輩が、成長してスーツを着て立っている。 そんな筈、ないのに。 あれは、過去で今じゃなくて、もしかしたら妄想かもしれなくて。 だから、これは。 「それを履け」 「え、あ、はい」 命令口調に思わず頷いてパンプスを履く。 どうなっているのだろう。 混乱する頭でパンプスを履くと、するりと腕を組まれた。 「あ、あの……?」 「まあ、出来はいいな」 「そりゃ、作兵衛が苦労して刺繍したからな。お前はどうでもいい事を覚えてるし」 「バカタレ。仙蔵が持ってきた白無垢の柄くらい覚えておかなくてどうする」 「ま、でもお前が色々覚えてたから助かったのは確かだな」 「貴様に礼を言われるのは気持ち悪い」 「何だと!」 「落ち着いてください、食満先輩、潮江先輩」 少年が、どうどうと二人を収めると団蔵に向かって笑いかける。 「うちの店に、赤い絨毯がある理由を知ってるか?」 「え?」 「この薔薇のカーテンから玄関に向かって赤い絨毯が敷いてあるには理由があるんだよ」 「そう言う事だ。文次郎」 「分かっとる。行くぞ」 話が分からない。 作兵衛? 食満先輩? 潮江先輩? 名前まで一緒だなんて。そして、この赤い絨毯は何だと言うのだろうか。 どうして良いか分からず、赤い絨毯の上に足を進める。 白いウエディングドレスに赤い絨毯、そして尊敬する先輩。まるで、バージンロードを歩く父娘のようだ。 そうして、玄関の扉まで連れて行かれると、ドアベルが鳴って扉が開いた。 その瞬間。 ぎゅ、っと抱きしめられる。 何が起こったのか、さっぱり分からなかった。開いたままの扉で、ドアベルがちりちりと音を鳴らしている。 「あ……あの……」 自分より背の高い男だ。少女にしては身長のある団蔵を包み込むように抱きしめている。 きっと、これが自分以外の女の子なら絵になる話で、そしてこれが、団蔵が知っている男なら少しは物語になったかもしれない。 だが、生憎と自分を抱きしめている男に覚えは無い。顔を確かめようにも肩口に顔を埋めていて分からない。 蹴るか。 そんな事を思ったけれど、ドレスの裾を翻して男に蹴りを喰らわせる芸当は団蔵には出来なかった。 何の嫌がらせだろうか… そう思って溜め息を付こうとすると。 「馬鹿じゃないの…」 聞き覚えのある、声がした。 「え……」 「馬鹿じゃないの、僕、庇って死ぬとか。有り得ないし」 顔は確認できない。けれど、その声は。 「探してたらしいぞ」 オーナーの声が、背後から聞こえる。 「君を、ずっと探してたらしいぞ」 「どういう……」 零した声が震えた。 「お前が、そいつの目の前で死んだからだろうが、バカタレ!」 自分の手を離した先輩が、ごん、と団蔵の頭に拳骨を一発。それを見たオーナーが、「花嫁の頭を殴る父親があるか!」と罵声を飛ばした。 じんじんと痛む頭の痛みは嘘じゃない。そして、この温もりも嘘じゃない。 「お前死んだ後、大変だったんだからな」 団蔵の肩口に埋めていた顔を上げると、そこには間違いようの無い、間違えるはずも無い、最期に見た泣き顔があった。 「加藤村の馬借たちを纏めて、色んな城に出入り出来る様になって、ちゃんとお義父さんの最期も、最後まで喧嘩してた清八さんの最期も看取った」 その口から語られるのは、自分が見た最期の後の風景。 「僕の跡継いだのは、清八さんの子供だよ。ちゃんと、お前との約束、守ったからな」 「………」 「何とか言えよ。加藤村背負って生き抜いたんだから」 信じられない。 こんな事ある筈がない。 あれは、記憶で過去で妄想で、有りえない事で、でも、目の前にはあの泣き顔があって。あの泣き顔の先があって。 「兵太夫…?」 「何」 「お前、兵太夫、なのか…?」 「それ以外だったら、何だって言うんだよ」 むっとむくれた兵太夫の顔は、あの頃のまま。 そっと手を伸ばして、ゆっくりその頬に触れる。涙の跡をぬぐって、そして、そのまましがみ付くように背中に手を回した。 「笑えよ。五百年ぶりだろ」 「む、り……」 「何、僕じゃ不服って事?」 「ちが……」 伝えたいことはたくさんあるのに、言葉が出てこない。 ただ、ごめんね、と呟くので精一杯だ。 「お前に謝られると調子が狂うんだ。こういう時は、ただいま、だろう?」 「………っ」 「それとも、帰って来たくなかった?」 兵太夫の言葉に、団蔵は首を横に振る。 「…そうじゃなかったら、俺はお前を殴ってるよ」 兵太夫は、抱きしめていた腕に力を込めた。 「で、このウエディングドレスは僕の為に着てくれたって事でいいんだよね?」 「…………」 「聞いたよ、お前の事。男みたいなヤツだって。スカートをはいた所は制服以外見たこと無いって。可愛いものも綺麗なものも興味ないって」 そう、興味のないふりをしていた。 ここに、兵太夫がいなかったから。女の子でいる必要なんてないと思っていたから。 「……まあ、他の男の為でも諦めないけどね」 涙以外捨てるなよ。 そう言ったオーナーの言葉を思い出す。 オーナーと少年は知っていたのだ。きっと、自分の事を。だから、馬借、なんて言葉が分かって、そして、涙が代金と言いながらウエディングドレスを作ってくれたのだ。 器用な、用具委員の先輩達。 こんな、あの時と同じ刺繍のドレスまで作ってくれて。 白無垢が着たかったと言っただけなのに、こうして、その姿で隣を歩いて行きたかった兵太夫を見つけてくれて。 その上、鬼の会計委員長まで連れて来てくれた。 記憶が確かなものだと教えてくれた。 「兵太夫…」 「何?」 「どうしよう…すっげぇ嬉しい……」 「……安心しなよ。僕もだから」 もう、明日から強がるのはやめにしよう。 素直になろう。 ドレスじゃなくて、女の子らしい格好をして、そうして「今」の自分で兵太夫に会いに行こう。 今の自分でもそれでも好きだと言ってくれるなら、それ以上に嬉しいことは無い。 昔と少し変わってしまった自分だけれど。 「おい、笹山!」 「何ですか、潮江先輩」 「団蔵はまだ嫁にやらんからな!」 「分かってます。ちゃんと、順序を踏みますよ。昔みたいに」 「むかし…?」 兵太夫の言葉に、団蔵が顔を上げると。 「親に馬借になるって言った後、潮江先輩に団蔵貰います、って言ったら凄いことになって、あの怪我。今回も覚悟はしてる」 そう言って、柔らかな笑顔を浮かべた兵太夫がいた。 涙を捨てれば幸せになれる。 その言葉は嘘じゃない。 けれど、きっと、それは幸せになった花嫁達と、この店の二人を知る人間が零した言葉だ。 ―ロイヤルアンバー― この店には、魔法がかかっているのだ。 団蔵は抱きしめている温もりを確かめて歪に笑うと、何かから解放されたように大声で泣き始めた。 「おい、早くしろ!」 「うっせぇ!」 暗くなった店の前で、文次郎と留三郎が口論を始める。それをいつもの事、と聞き流しながら作兵衛は店の鍵を閉める。 兵太夫と団蔵は日が落ちる前にここから家に帰した。 手を繋ぎたがる兵太夫と、照れて中々素直に手を繋がない団蔵の光景は見ていて微笑ましかった。 まるで、あの頃のようで。 それを鬼の形相で見ていた文次郎も面白いといえば面白かった。 兵太夫を見つけたのは、忍術学園のネットワークの中の一人、仙蔵だった。 この店は、忍術学園を覚えている人間が辿り着ける場所。幸せになる花嫁だけではない。忍術学園を知っている人間は何故か辿り着けるのだ。 文次郎や仙蔵も忍術学園を覚えている人間である。 今回は、簡単に見つかったようだが、連れてくるのが難しかったらしい。そのお陰で、仙蔵は華道を極める事になったと留三郎に文句を零していた。 兵太夫は、華道の家元の長男で。つまりはいいところのご子息、と言うヤツだ。許婚候補もたくさんいるし、自由にならない身で過去のことなど口にすることは出来なかったらしい。 そんな中でも必死で団蔵を探していたようだが、家族に見つからないようにするには限界があったし、団蔵は団蔵で半ば諦めていた部分もあったので、出会えなかったとの事だ。 しかし、作法の本気は怖い。 既にこの店を通じてネットワークの一つとなっている藤内を筆頭に、それらしい人物を探して、虱潰しに当たって砕けた結果、漸く見つけたのだ。 見つけた途端、仙蔵の顔を見た兵太夫が本気で逃げた事を誰が責められるだろうか。きちんと捕まえた後で、事の顛末を話すと直ぐに行動に移した。 それから、仙蔵が兵太夫の家の人間を上手く言いくるめて今日と言う日を迎えたのである。 もちろん、兵太夫の嫁さんになる人間を見つけましたとは言っていない。 これから先は、兵太夫と団蔵が乗り越える壁だ。手助けはするけれど、二人で解決するしかない。 兵太夫の本気を、ここにいる三人は知っている。 団蔵を失って尚、加藤村を背負い、戦乱の世を駆け抜けた。独り身を貫いて、そうして、天寿を全うした。団蔵の分まで生きた。 そんな兵太夫の本気は、今でも十分通用する。結婚まで時間がかかるだろうが、間違いなく添い遂げるだろう。 そんなこんなで直ぐに結婚、と言うわけにも行かない二人の為に、あのウエディングドレスは店で預かる事にした。 あのドレスを団蔵が着る時は、文次郎が折れている頃、で間違いない。 「今日はどこ行くんだよ」 「知らん」 「知らんて、お前…」 「仙蔵が店を手配した。待ち合わせ場所に行けば分かるだろう」 星空の下、三人の足取りは軽い。 仙蔵が手配した店、と言う事は美味しい日本酒があるだろう。それをちびちびやりながら、昔の記憶に思いを馳せるのは悪くない。 「そういえば、団蔵で最後だったらしいぞ」 「え?」 「一年は組は全員揃ったそうだ」 文次郎の言葉に、留三郎は少し笑って「そうか」と零した。 こうして、過去を共有できる人間が増えるのは嬉しい。 そんな留三郎を見て、ふんと文次郎は鼻を鳴らすと。 「そのうちあいつもひょっこり出てくる。まあ、また不運の元に生まれてるだろうがな」 「……」 「何だ。その驚いた顔は」 「いや、お前に心配されるとは…」 「……お前の為じゃない。富松の為だ」 「へ? 俺っすか?」 「そっちのも、影が薄かったからどこぞに紛れてるんだろうよ。そのうち出て来る」 男二人でウエディングドレスを作る馬鹿な二人を見て、文次郎は柄にも無く優しい言葉を零す。 それを聞いた二人は、歪に笑うと。 「明日は雨が降るな」 「ですね」 と肩を竦めた。 コンクリートに挟まれた道を抜けると、その店はある。 いらっしゃいませ、どのようなドレスを作りましょうか? この店は、涙を捨てる店です。 温かい紅茶は気分を落ち着かせます。 一口飲んで、それからその涙の訳を聞かせてください。 その店が作ったドレスを着た花嫁は必ず幸せになれると言う。 流した涙の分、幸せになれると言う。 その涙が乾く頃には幸せになれる店。 ――ようこそ、ロイヤルアンバーへ 強がる少女に優しさを 戻る |