ただ、願うのは。
 白を見て微笑む人の、幸せ。







 地図に書かれていたのは、裏通りの目立たない場所。その場所を目指して、少女は日の光が遮る場所を歩いていた。
 本当に、こんな場所にあるのだろうか。
 路地と言うには簡素なコンクリートの壁。まるで、コンクリートに囲まれているようだ。
 だが、今は地図を信じて進むしかない。
 かつかつと言う音を響かせて、コンクリートが囲む場所から少しだけ開けた場所に出た。
 そこに、確かにその店はあった。
 アンティーク調の窓枠。その窓の向こうには、真っ白なドレス。どんな雑誌でも見たことの無いドレスが白いレースのカーテンの向こうに飾られている。
 そして、小さな看板。
 ここで、間違いない。
 けれど、入る勇気は無かった。
 探して辿り着いた場所。だけど、この場所はあまりにもふんわりしすぎて、泣きそうになる。
 本当にある事だけ分かっただけでもいいじゃないか。
 きっと、この店に来るのは幸せな未来を描いた二人で、幸せな未来を描けない自分ではない。真っ白なドレスも、ミルキーホワイトのドレスも、ふわりとしたオーガンジーも、何もかも自分には似合わない。
 窓に映った自分の、泣きそうな顔。
 帰ろう。
 そう思って、くるりと踵を返すと。
「待ちなよ」
 そう言って手を掴まれた。
 驚いて振り返ると、自分より少し歳上の少年が腕を掴んでいる。
「うちに、用事、だろ?」
「いえ、あの……」
「大丈夫、悪徳商法はしないつもりだから。ほら、入んなよ」
「いえ、本当に……」
 本当に、違う。自分には不釣合い。だから、入るわけには行かない。
「そんな泣きそうな面して。うちは、そういう子が頼る店だからさ」
 困ったように笑う男の人は、どこか、知っている人に似ている。そんな筈ないのに。
「先輩、お客さん」
「おう、入ってもらえ」
「あ、あの…」
 思いの外強い力で引っ張り込まれて、少女はその店の中に入った。
 全体的にアンティークの家具でまとめられた店内。装飾品も全てアンティークだろうか。どこか懐かしいその空気の中で、白いドレスは光を浴びて綺麗に光っていた。
 やっぱり、こんなの場違い。
 そうしていると、すっと緑色の布が貼られた年代物のソファに座らされる。
「ようこそ、ロイヤルアンバーへ」
 少女の前に座った正面にあった椅子に、一人の青年が腰掛けた。
「何の御用で?」
「いえ、その、僕は、用事があったわけじゃなくて」
「こんな場所にわざわざ足を運んでくれてるって事は、それなりの理由があると思うけど?」
「いや、本当に…」
「知ってて来たんだろう?」
 温かい紅茶をティーカップに注いで、ことりと少女の前に置く。そうして、青年の隣に先程少女の手を引いた少年が座った。
「………」
 きっと、自分は普通の顔をしている。困った顔はしていても、泣きそうにはなっていない筈。
 それなのに。
 ぽたり、と少女の涙が手の上で跳ねる。
 堪えていた涙は、ぽたり、ぽたりと。
「泣く程辛くて、うちに来たんだろ? うちは、そう言う店だから」
 差し出されたのは、柔らかなハンカチ。
 そう、この店は涙を捨てる店。
 ――ロイヤルアンバー。
 涙を捨てて幸せになる店。そんな風に言われ始めたのはいつの頃だろうか。年齢を問わない、女性達の間でまるで都市伝説のようにそう言われていた。殺風景なオフィスビルの隙間を入って、コンクリートの路地を抜けると、箱庭のように切り抜かれた場所に店はある。それが、このロイヤルアンバーだ。
 一見すると少女の夢を詰め込んだような店だが、中に入ると二人の男が迎えてくれる。
 すらりとした体躯の精悍な顔立ちの青年と、少し幼さの残る青年と言うにはまだ早い少年。
 その二人は、こうして女性をソファに座らせ、まず涙の理由を聞く。それから全てが始まるのだ。
「振られた?」
 その言葉に、少女は首を横に振る。
「じゃあ、片思い」
 その言葉にも少女は首を横に振った。
「それじゃあ、聞かせてくれるか? 涙の訳を」
 ハンカチで涙を拭う少女は、とても真っ直ぐな目をしていた。セーラー服を纏った学生だろうが、どこか大人びた視線だ。
「……ちょっと、疲れて」
「何に?」
「待つのにも、探すのにも、少し、疲れて。だから、この店に来ました」
 おかしいですよね。相手もいないのに、このお店に来るなんて。
 その少女の言葉を、二人の男は否定する。
「何で? この店は幸せになる為に来る店だ。うちのドレスを着て幸せにならなかった女性なんていないって自負させてもらってる」
 そう、それが、この店のジンクス。
 この店のドレスを着ると、絶対に幸せになれる。絶対幸せな花嫁になれる。
 それが、ウェディングドレス専門店ロイヤルアンバーのジンクスだ。
 いつも迷いながら、色んな事を考えながら、我慢して我慢してそんな花嫁予備軍の訪れる店。
 相手がいない、振られた、片思い、そんな人間でも絶対に幸せな花嫁になれる。そう言われている。
 だからこそ、この店を探す女性は多い。だが、辿り着けるのはこの店に見合った女性のみ。
 年齢なんて関係ない。それこそ、学生だって見合えば辿り着ける。この少女は、ちゃんとこの店に辿り着けた。
「そうだな…」
 青年がスケッチブックを取り出すと、しゃっと鉛筆を走らせる。
「クラシカルだけどロマンチックで大人っぽい。大和撫子の雰囲気を持って、まだ少女だけど大人びた視線の君にはぴったりだと思う」
「え……」
「デザイン決めるから、話、聞かせてくれるか?」
「で、でも、僕そんなドレスが買えるお金なんて持ってません…」
「気にするな。デザインするだけなら金なんて貰わないし。ほら、話してみろよ」
 しゃっしゃと鉛筆を走らせながら青年は少女を見る。
 少女はその視線を受けて、小さく息を吐くとゆっくり話し始めた。
「笑わないで下さいね」
「大丈夫」
「実は、僕、前世、とか言うヤツの記憶があるんです」
「前世?」
「はい、いつのものか分かりません。でも、多分、戦国とかそこら辺だと思います」
「それで?」
「僕は、その前世では、忍者の学校に通ってるんです」
「忍者ってあの、忍者?」
「ええ。何だか作り話みたいですけど、ちゃんと忍者の学校があってそこに通ってるんです」
 鉛筆の走る音。少女の微笑むような声。
「そこで、出会った級友がいて」
「で?」
「今からすれば、凄く凄く幼稚な約束をしたんです」
「どんな?」
「いつか、絶対、一緒になろう、って」
「いつか?」
「……僕は、武士の娘で、級友はある流派の忍者の跡取り。どう考えたって結婚できるわけなくて…」
 だから、その時は笑顔で分かれました。
 それが、その級友を見た最後でした。
 微笑むような声だった少女の声に、涙が混じる。
「馬鹿だったんです。駆け落ちでも何でもすればよかった。そうすれば、失わずに済んだのに」
 失う事の怖さを分かっていなかった。我慢すればいいと思っていた。
 そう零す少女は大粒の涙を零して、嗚咽を我慢している。
「失ったのか?」
「はい。暗殺されました」
「そっか……で、君は?」
「出家しました。あいつを弔いたくて」
 友達は、みんな馬鹿だなって笑うんです。でも、誰も止めませんでした。
 鉛筆の音が少し、静かになる。
「いつか、って言うのが今のような気がして。だから、ずっとずっと探してるんです。記憶があるって言う確証も、今、この時代にいるのか分からない、そんな相手を探してるんです」
 馬鹿ですよね。
 そう一言零した後、顔を覆った少女は耐え切れないように肩を震わせてしゃくりあげた。
 確かに、前世で好きだった人を探しているなんて人には言えないだろう。それでも、この少女にとってその記憶は今の全て。鮮やかな、今へと続いている記憶。
「総レースで行こうと思う」
「いいっすね。だったら、立体的に小花のモチーフを散らしましょうか」
 スケッチの出来上がりを二人の男は見て、何か打ち合わせしている。
「確かに引き受けたから」
「え?」
「お代はその涙。その涙が乾く頃にはドレスが仕上がってるから」
「え、そ、そんな…!」
「この人の腕は確かだから、信じていいよ。絶対似合うドレスをデザインしてくれるから」
「そう、こいつの仕立ての腕も確かだから。そうだな、一ヵ月後には出来上がると思う」
 普段なら、きちんと料金は貰う。
 だが、これは特別だ。本当に、その涙が代金だ。
 それまでに、しなければならない事があるけれど。
「冗談だと思っても構わない。だけど、一ヵ月後にこの店に来てくれるか? その時にきっと笑えるようになるから」
 真っ直ぐな二人の視線に、少女は目を丸くしてそうして少し困ったように笑う。
「何だか」
「ん?」
「甘えたくなりました」
「泣いてる女の子は甘えて言いと思うけど」
 少年の言葉に、少女は違うんですと言って。
「昔にいた、先輩みたいで。何か思わず甘えてみたくなりました」
「それって、前世の?」
「はい。とっても良く似てます」
 少女の記憶の中に良く似た人がいる。本当は、この店に来た時にそうじゃないかと思ったくらいだ。
「あ、そうだ。帰る前に採寸させてもらって良いか?」
 少年がメジャーを取り出して、男から採寸ってのも嫌かもしれないけど、と続ける。
「大丈夫です」
「そっか。服の上からで大丈夫だから。悪いな」
 そう言ってアンティークの小さな薔薇柄のカーテンで仕切られた奥に、少女を連れて行った。その姿を見送って、青年はスケッチブックに書き足していく。
 あの涙の代わり。もっと、もっと、あの少女が笑ってくれるように。
 そうして、採寸を終えた少女が出てきて、小さなノートに何やら書き込んだ少年が出てくる。
「これで大丈夫。そろそろ暗くなりそうだから気をつけてな」
「はい」
「あと、この店の場所は絶対に誰にも言わないでくれ。自力で辿り着けた人のドレスしか仕立てないことにしてるから」
「わかりました」
「それじゃあ、一ヵ月後に」
 ドアベルを鳴らして、セーラー服の少女は深く一礼してその場所を去っていく。
 残された男二人は、さっきまで少女が座っていたソファに腰を下ろした。
「やっぱり、あの子、三之助のとこの子で間違い無いっすね」
「小平太のところの子か。じゃあ、相手は間違いなく喜三太だな」
「っすねぇ。喜三太、生まれてきてるかなぁ…」
 採寸ノートに書き込まれた名前は、「皆本金吾」。覚えのある名前だ。
 真っ直ぐだけれど、泣き虫の甘えん坊。
 だからね、先輩。ぼくが守ってあげるの!
 そう言った後輩の顔が浮かぶ。
 彼女を守るといって、それでも、添い遂げる事は出来ないと笑った、優しくて脆くて強い後輩。
 最後を見届けた訳ではない。それでも、二人の元に届いた知らせは訃報だった。
「あん時、一番綺麗に泣いた子、でしたね」
「そうだな。見てるこっちが辛かった」
 後輩の里に行った時、あまりにも静かに泣いた少女に、誰も何も言えなかった。
 真っ白な着物を着て、その場で切り落とした髪。
 ねぇ、喜三太。ずっと傍にいるからね?
 あの微笑みは、綺麗すぎて。
「まあ、喜三太探しはいつかはするつもりだったし、ちょうど良かったな」
「そうっすね。誰に聞こうかなぁ…」
「それもだけど、同時にドレス仕上げろよ、作兵衛」
「分かってますよ、食満先輩」
 あの少女――金吾が笑ってくれるドレスを。
 そうでなければ、ロイヤルアンバーの名前が泣く。
 自分達がウェディングドレスを仕立てるのは、あの時泣いた子がいるから。だから、そんな悲しい涙を生まないため、こうしてドレスを作る。
 金槌を持っていた手を、スケッチブックに持ち替えて。
 釘を持っていた手を、針に持ち替えて。
「さて、今日は店じまいだな。CLOSEの札、掛けといてくれ」
「分かりました。あの、食満先輩」
「何だ?」
「絶対、喜三太と金吾を幸せにしてやりましょうね」
「当たり前だ」
 そうして二人は企むように笑う。
 ロイヤルアンバーに駆け込んできた少女の涙を掬う為、二人の仕立て屋はそれぞれ出来る限りの連絡網を使う事にした。





 あれから、一ヶ月。毎日が、不安だった。
 あの店は、実は幻で自分が見た夢じゃないか、と。
 自分の妄執に近い想いが生み出した、ただの幻ではないかと。
 一ヶ月前、偶然目にした雑誌の見出しは「絶対に幸せになれるウェディングドレス」の文字。その店のウェディングドレスを着た花嫁は絶対に幸せになれるのだと、そう書いてあった。けれど、その店の事を知る者は僅かで都市伝説とも呼ばれている、とも。
 だから、最初は信じてなんかいなかった。
 そんな店なんてある訳無い、と。
 ウェディングドレスを着たくらいで幸せになれるのなら全ての花嫁が幸せになれる筈だと、信じてはいなかった。
 金吾は、恋愛に夢を見ていない少女だった。
 いつかは必ず壊れるものだと知っていたし、何の意味も無い事を知っていた。その所為か、その先にある結婚なんていう文字は金吾にとっては何の輝きも持っていなかった。
 友人達の恋の話に興味もなかったし、誰かを好きになる事もなかった。
 年相応の憧れを持っていない少女。
 それは、周りがそう決め付けているだけで、金吾がそう思っているだけで、もしかしたら恋愛に臆病なだけかもしれない。
 また、失うかもしれない、と。
 金吾には、大切な人を失った記憶がある。それは、正確には「今」の金吾の記憶ではない。金吾が生まれる前の「過去」の金吾の記憶だ。
 その時も、金吾は確かに恋愛には疎い方だったかもしれない。
 剣の道を極めようとする金吾に、恋愛なんて必要はなかった。ただ、強くあればいいと思っていた。
 その金吾が、生涯、いや、ほんの僅かな時間と言うべきか。だが、そのほんの僅かな時間は金吾にとっては全ての時間で、その時間に人を好きになると言う感情を抱いた事がある。
 ねえ、金吾。
 いつも、優しく笑っていた少年。頼りなさそうに見えるけれど、芯はしっかりした強い少年。
 どれだけ成長しても泣き虫だった金吾の傍にいてくれた少年。
 いつか、絶対、一緒になろう?
 叶わぬ願い、届かぬ夢。
 どれだけ子供でも分かっていた。自分達が望んだ未来など来ない事を。
 だから、少年の手を離した。じゃあね、と笑って離した。
 それが、最期に見た少年の姿。金吾の中で褪せない少年の笑顔。次に会った時は、冷たい墓標だった。
 あの虚無感をどう表現して良いのか分からない。
 我慢した結果が、我侭を飲み込んだ結果が、大事なものを失ってしまった。
 冷たい墓標に微笑みかけても、少年の笑顔は戻ってこない。頭を撫でてくれた掌も、傍にいてくれた温もりも、共に戦った背中も、何もかも戻ってこない。
 その時、金吾は絶望、と言う言葉を知った。
 その絶望は、今も金吾の体を心を蝕んでいる。
 誰かを好きになる、なんて恐ろしい事は出来なかった。恋愛が楽しいものだと、思えなかった。
 何度もあの墓標を思い出して、息が出来なくなる。
 あの墓標の冷たさが甦って、何一つ見えなくなる。
 過去の妄執だと、笑われるかもしれない。自分自身ではない自分の記憶だと、笑われるかもしれない。
 それでも、金吾にとってその記憶は大切で残酷で切り離せない自分自身なのだ。
 だから、探した。
 いつかが、今じゃないかと。あの少年もこうして記憶を持って生まれて来ているのではないのかと。
 出会えたなら、全てが変わるのではないかと。
 まだ学生の身である金吾には探す方法は限られている。それでも、必死で探していたのだ。
 いつか、絶対に、一緒になろう?
 その言葉を信じて。
 それでも、あの虚無感が絶望が体を蝕んで、疲れてしまった金吾に届いたのは一通の手紙。
 メールではない。真っ白な封筒に入った手紙。
 中身は、一枚の地図と店の名前が入ったカード。
 それは、いつか雑誌で見た都市伝説。
 信じていなかった。そんな事ある筈ないと思っていた。でも、金吾には縋るものが無かった。
 そうして訪れた店が、この店。
 ――ロイヤルアンバー――
 オーダメイドウェディングドレス専門店。
 最初は入るのに躊躇った。自分が来る店じゃない。そう言われた気がして。それでも、涙を捨てる店、と言う雑誌の一文を思い出してもしかしたらと思った。
 何度も躊躇って、やっぱり帰ろうと思った瞬間、腕を捕まれた。
 その瞬間、思わず名前を呼びそうになった。
 富松先輩! と。
 自分の腕を掴んだ人は、後で知ったがその店の縫い子で、美味しい紅茶を淹れてくれた。
 でも、その姿は過去の自分が知る、先輩にそっくりで。顔も声も口調も、何もかも同じで、思わず飛び出しかけた名前を飲み込んだ。
 そして、その店の店主を見て、普通にしていたけれど我慢していた涙が零れる。
 あいつも馬鹿だなぁ…嫁さん置いて行きやがって。
 そう言って墓標の前で頭を撫でてくれた先輩の姿が、そこにあったから。
 食満先輩…
 呼びかけたいけれど、それは、失礼な気がして飲み込んだ。
 店主はデザイナーだと名乗った。
 そうして、金吾の話を聞いてくれた。笑いもせず、じっと真面目な顔で。
 金吾も、二人があまりにも知っている先輩に似ていて、思わず話してしまった。今まで誰にも話した事無かった、もう一人の自分の事を。
 それから、その二人はこう言った。
 一ヵ月後にもう一度来て欲しい、と。
 その頃には、ウェディングドレスが出来上がっているから、と。
 ウェディングドレスの専門店なのだから、ウェディングドレスを作るのは当たり前だろうが、学生である金吾には代金を用意出来る筈がない。そう、言ったのに、涙がお代、と不思議な事を言ったのだ。
 それから、一ヶ月。
 毎日が不安で、でも、もしかしたら、と思った。
 学校が終わったのと同時に走り出して、コンクリートの路地を抜け、この店の前に立った。
 店は、間違いなく目の前にある。
 建物自体は乳白色で、濃い茶色の窓枠や扉がアンティーク感を醸し出している。その窓から見えるレースのカーテンの向こうには、やっぱりウェディングドレスが飾られていて、あの時と同じく足が震えた。
 もしかしたら、この扉を開けたら全て無くなるのではないか。
 全てが幻なのではないか。
 でも、ここで進まなければ意味が無い。
 金吾は、小さく「いけいけどんどん」と呟くとノブを握って扉を開けた。
 そこには。
「いらっしゃい」
 一ヶ月前と同じ光景が広がっていた。
 アンティーク調の家具で統一された店内に、見たことの無いようなウェディングドレス。精悍な顔立ちの店主と、幼さの残る縫い子。
「約束通り来てくれたんだな」
 店主が笑って、スケッチブックを机に置くと立ち上がる。
「入りなよ。紅茶、淹れるから」
 そう言って、何やら縫っていた縫い子が奥の方に入って行った。
 幻じゃなかった。全て、現実だった。
 金吾はその場で立ち尽くす。
 余程、困った顔をしていたのだろう。店主がちょっと困ったように笑うと、金吾の手を取ってソファまでエスコートすると、ソファに座らせてくれる。
「まだ、そんな顔なんだな」
「え……」
「言ったろ? 笑えるようにしてやるって」
「でも……」
「とりあえず、これ飲みなよ。その間に用意するから」
 ことり、と紅茶の入ったカップを置いて、縫い子が笑う。
 ふわりと香りを漂わせる紅茶に勧められるまま口付けて、目の前の店主を見た。
 やっぱり、食満先輩に似ている。
 髷はないけれど、あの頃より大分大人びているけれど、それでも自分の知る先輩の一人にそっくりだ。
「俺の顔、何か付いてるか?」
「いえ、あの……」
 まじまじと見ていたことに気が付いて、金吾は思わず目を伏せる。
「一応、一人で着れるようにはデザインしてみたけど…」
 そう言いながら、店主はちらりと中二階にあたる場所を見上げた。そこでは縫い子が何やらがさがさと様々なものを用意している。
「気に入らなかったら、作り直すから」
「いえ、そう言う訳には…」
「君にはその価値が十分ある」
「え?」
「何度でも、君が笑う為のドレスを作りたいんだ」
 自分は何かしただろうか。
 ここに来て、馬鹿みたいな話をして、泣いただけだ。それなのに、店主は価値があると笑う。
 わからない…
 紅茶を飲んで、金吾は戸惑うばかり。
 そうしていると、縫い子が階段を下りてきて金吾に箱を手渡した。
「それ、中、入ってるから」
「で、でも……」
「着方、分かるか? 普通のワンピースと変わらないと思うんだけど」
 流石に男が手伝う訳にもいかねぇし。
 そう言いながら金吾の手を取ると、採寸した場所へと連れて行く。
「分からなかったら聞いてくれ」
 しゃっとカーテンを閉めると、金吾は大きな鏡の前に一人残された。鏡を見ると、今にも泣きそうな自分が映る。
 涙を捨てるのは、もしかしたら全てを捨てる事に繋がるんじゃないだろうか。
 あの少年のくれた全てのものを。
 そう考えると怖くなった。手にした箱の中身を見るのさえ怖くなった。
 それでも、どんなものか見てみたい。あの、先輩達に良く似た二人が作ってくれたものがどんなものか。
 金吾はゆっくりと絨毯に座って、箱の蓋を開ける。 
 そこには、ミルキーホワイトの生地を覆うように白いレースが重ねられたドレスが入っていた。
 どう、なるのかな。
 それを取り出して見てみると、自分が着るには随分と可愛らしいイメージのドレスに仕上がっていた。
「………」
 覚悟を決めてセーラー服を脱ぐと、ゆっくりとドレスに手を通す。
 着てみて、鏡を見て、そうしたら。
「………っ」
 涙が、止まらなくなった。
 ああ、この姿を、見て欲しかったな。
 ――喜三太に。
 白無垢を着る事さえ許されなかった自分達の関係。
 いつか、絶対、一緒に。
 あの声が甦る。
 隣にいてくれるのが、喜三太だったら良かったのに。
 このドレスを着た隣にいてくれるのが、喜三太だったら良かったのに。
 喜三太、喜三太、喜三太……
 こんなにも探しているのに、見つからない。
 涙を捨てるどころか、涙は溢れて止まらない。
 その時、ドアベルが鳴る音がして、金吾ははっとする。
 自分以外のお客さんが来たらしい。きっと、この場所を使うだろう。
 泣いている場合じゃない。
 ごしごしと涙を拭うと、何度も「いけいけどんどん」と呟いた。金吾のまじないのようなものだ。泣きたくなったらずっと呟いてきた呪文。そうすれば、強くなれる気がして。
 そうしていると、しゃっとカーテンが開いた。
 驚いて光が入った方を見ると、縫い子の少年が別の箱を持って立っていて。
「うん、プリンセスラインは正解だな」
「あ、あの…」
「ちょっと動くなよ」
 そう言って縫い子は金吾の後ろに立つと、ポニーテールにした綺麗な黒髪を下ろし、くるりと器用に丸めてドレスに散りばめられたレースの花と同じ髪留めで止める。
 そうして、足元に置いた箱の中から綺麗なレースのベールを取り出すと、ふんわりと頭にかけて頭にかかった端をくるりと丸めて花のようにすると、右上に止めた。
「よし、出来上がり!」
「作兵衛、出来たか?」
「ばっちり! 行けますよ、食満先輩!」
 え?
 金吾は、聞こえてきた名前に驚く。
 さくべえ? けませんぱい?
 そんな、まさか、まさか、まさか。
 そう思っていると、そっと白いパンプスを履かされて、ぐい、っと作兵衛と呼ばれた縫い子に引っ張られた。
 そこに、広がった光景は。
「おっ、金吾! 綺麗だな!」
「当たり前だろう。俺達が作ったドレス着てるんだから」
 綺麗なプリンセスラインのドレス。
 ミルキーホワイトの生地の上に、立体的な小花を散らしたレースが重ねられている。袖はパフスリーブで、その部分だけレースだけで出来ていた。
 ベールはミルキーホワイトのレースで、縁に綺麗な金色の刺繍が施されている。
「ほら、小平太! お前、父親みたいなもんなんだから、手を取る」
「任せとけ! 金吾、綺麗になったな!」
 ウェディングドレス姿の金吾の手を取ったのは、尊敬していた先輩で。いや、先輩が成長した姿で、スーツを着ている。
「七松先輩……?」
「どうした、また泣いたのか?」
「何で、こんなところに…」
 呆然としている金吾の手を取って、小平太はバージンロードを歩く父娘のように前に進んだ。
「お前も、しゃんとしろ! ほら!」
 そうして、小平太が数歩進んだ所で手を離す。
 扉の前、光の中、そこにいたのは…。
「喜三太…?」
 どれだけ探しても見つからなかった。子供の自分には見つからなかった。
 失った筈の、笑顔がそこにある。
「……きんご」
 ふにゃりと笑って、そうして金吾の手を取るとその腕の中にぎゅっと抱きしめた。
「きんご、だ…きんご…だっ…」
 震える両手で抱きしめて、金吾の肩口に顔を埋めると嗚咽のような声で名前を呼ぶ。
「き、さ、……」
「ごめんね…置いていって、ごめんね……」
 訳が分からない。どうして、喜三太がここにいるのだろう。どうして、ここに。
 答えが欲しくて、視線を彷徨わせるとにっこりと笑った留三郎と作兵衛の姿。
「けま、せんぱい? とまつ、せんぱい?」
「喜三太探しはずっとする予定だったから。それが早まっただけだよ」
 自分を抱きしめているのは、喜三太。冷たい墓標しか思い出せなくなっていた喜三太。そして、このウェディングドレスを作ってくれたのは、用具委員会の先輩。それから、自分をエスコートしてくれたのは、尊敬していた先輩。
「みんな、きおく、が、あるん、ですか?」
「金吾には無いのか?」
 小平太が不思議そうに金吾を見る。
「あります…あります…ずっと、ずっと、あります……っ」
 ぐしゃり。
 視界が涙で歪む。
 宙を泳いでいた手が、ぎゅっと喜三太の背中を掴んだ。
「き、さ、…んた……」
「探してくれてたんだね。ずっと、ずっと…」
「……どこ、いってたんだよ」
「ちょっと金吾から、とおいところ」
「ばかきさん、た」
「うん」
「おまえ、ひとりで、いったりして…」
「ひとり、じゃ、なかったよ?」
「え……」
「きんごが、そばに、いてくれたでしょう?」
 冷たい墓標の前に、ずっと。
「なにもできない、ぼくのこと、しらなかったでしょう?」
「…………」
「きんごがないてるのに、なにも、できなくて…ほんと、なんであのとき、かけおち、しなかったんだろうね」
 喜三太の涙が、じわりとベールを濡らしていく。
「ねえ、きんご…」
「なんだ、よ…」
「いつか、ぜったいに、いっしょになろう、ってやくそくしたよね」
「…………」
「それ、いまでいい?」
 金吾の瞳から、ぽろりぽろりと大粒の涙。
 それから、顔を歪めると耐え切れないように嗚咽を零して泣き始める。
 それは、了承の言葉の代わりだった。
「喜三太、結婚はとりあえず卒業してからな。あと就職」
「金吾はいつでも嫁にやれるぞ」
「お前が嫁に出すわけじゃないだろう。金吾、ちゃんと大人になって、自分達が二人で歩いていけるって分かったら、その時は喜三太のところに来い。それまで、俺達がちゃんと見張ってやるから」
 まるで、こうなる事が分かっていたかのように、留三郎は笑う。
 まるで、金吾が喜三太と会えると知っていたかのように、作兵衛は笑う。
 涙を捨てる店、その店で作ったウェディングドレスを着た花嫁は幸せになれる店。
 ――ロイヤルアンバー。
 都市伝説でも何でもない。
 本当に、本当に、現実に起こる話なのだ。
 冷たい墓標から、温かい人の温もりを思い出した指先を感じながら、金吾は力いっぱい泣いた。





「で、喜三太はいつこっちに来るんだ?」
「半年後、らしいぞ」
 スーツのネクタイをゆるめて、小平太はその顔に似合わぬカップで紅茶を飲む。
「しっかし、ホントに忍術学園って不思議な繋がりっすね」
 CLOSEの札をかけて、作兵衛が小平太を見た。
 小平太とは大分前に巡り会って、以来、この店に足を運ぶ珍しい男の一人だ。大体ラフな格好で訪れるのだが、今日は留三郎がスーツで来い! と注文をつけたので堅苦しいスーツ姿だったする。
 それは、もちろん金吾のエスコートをさせる為だ。
 喜三太を見つけたのは、小平太だった。
 留三郎と作兵衛は、忍術学園、と言うネットワークを使って喜三太を探した。
 忍術学園のネットワークとは、前世で忍術学園に関係していた人間達の事である。
 不思議な事に、結構な数の前世の記憶を持っている人間がいて、その人間達はこの店に訪れた。
 殆どが偶然からだ。
 それから、この店は忍術学園に関係する者達が集う店になったのだ。
「これ、遅くなったけど土産」
 そう言って小平太が留三郎に渡したのは、紙袋に入った菓子。
「お前が九州に行かなきゃ、喜三太は見つけられなかっただろうな」
 袋の中には九州銘菓が入っていて、留三郎が肩を竦める。
 一ヵ月後。
 金吾にそう言ったけれど、喜三太は見つからなかった。どれだけ探してもいなかったのだ。ウエディングドレスは出来上がっているのに、喜三太が見つからない。喜三太が見つからなければ、金吾は笑ってくれない。
 どうすれば。
 そうして、約束の日を迎える三日前。
 留三郎の携帯に届いた一通の写真付きメール。
 タイトルは「見つけたぞー!」。
 写真は、小平太と見覚えのある顔。それは、間違いなく喜三太だった。
 喜三太は、所謂親が転勤族だったらしく、一箇所に長く住んだ事が無かった所為で誰の情報網にも引っ掛からなったのだ。
 だが、九州に出張に行った小平太が奇跡といえる状態で見つけたらしい。
 駅ですごい勢いで走っていたら、学生集団にぶつかり、その中に喜三太がいて。小平太はその場で首根っこを掴んで写真を撮ったとの事だ。
 そして、そのまま出張など知ったことかと言わんばかりに喜三太の親の所に行き、こっちに連れて来たのだ。
 それが、昨日の出来事。
 喜三太は、留三郎と作兵衛に出会えた事を喜び、そして大泣きした。
 留三郎や作兵衛より身長の大きくなった喜三太に最初二人は戸惑ったが、話を聞くと相変わらずのふにゃふにゃ振りで一発殴る事を忘れなかったのは二人らしい。
 そして、金吾がいる事を告げると迷いも無く、こっちに出てくると言った。
 きっと、今頃その事を金吾に告げて怒られているだろう。
 金吾と喜三太の二人は、暗くなる前に送り出した。喜三太が帰ると言うので金吾が送っていく事になったのだ。
 ウェディングドレスは店で預かる事になり、店先に飾られている。留三郎と作兵衛の渾身の作だ。同じものを作る事は二度とない。
 このウェディングドレスを着る頃には、きっと、金吾は幸せな花嫁になっているだろう。
 それは、間違いない。
 まあ、少々喜三太がふにゃふにゃしているのは気になるけれど。きっちり付き合うまで手を出さない事を祈るしかない。
「留三郎」
「何だ?」
「………私も、探すからな」
「気にすんなよ」
 少し寂しそうな視線をウェディングドレスに向けた留三郎に、小平太は珍しく落ち着いた声でそう言葉をかける。
「富松も。絶対見つけてやるからな」
「大丈夫っすよ」
 作兵衛の頭をぐりぐりと撫でて、小平太は歪な笑顔を作った。
 この店を訪れる者だけでなく、この店を守る二人にどうか幸せを。
 小平太は、そう願って二人の首根っこを掴むと。
「よし、飲みに行こう!」
 そう明るく叫んだ。







 それは、幸せになる為に泣いている女性を幸せにするウェディングドレスを作ると言う店。
 店主は食満留三郎。腕のいいデザイナー。
 店員は富松作兵衛。どんな難しい服でも縫い上げる職人。
 そんな二人の店は都市伝説だけれど、何故か、忍術学園と言う言葉を知っている人間は辿り着けると言う不思議な店。
 仕立ての御用の際は、自力で調べておいで下さい。
 美味しい紅茶を淹れてお待ちしております。
 そうして、貴女の涙のわけを聞かせてください。
 それが、素敵なウェディングドレスに繋がるのです。



 ようこそ、ロイヤルアンバーへ






涙の少女に微笑みを







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