知らない君を知った日。







 ぐう、と腹の鳴る音。
 結構大きな音だったような気がする。
 周りに誰もいないことを確かめて、作兵衛は大きく息を付いた。
 三食きちんと食べている身だが、放課後のこの時間はどうしても腹が減る。
 帰りに角のおばちゃんとこいこっかな。
 角のおばちゃんとは、商店街の角の惣菜屋のおばちゃんの事である。食満兄弟が小さな頃からお世話になっている総菜屋で、そこのコロッケは小腹が空いた時の作兵衛の定番であった。
 そう思いながら上履きを靴箱に入れていると、視線が。
 何だろうと思って見ると、そこには栗色の髪の少女が目を丸くして自分を見ている。
「善法寺……」
 こうして、名前を呼ぶのは初めてかもしれない。
 先日、彼女を泣かせてしまってから彼女の友人が絶対に自分の目に入らないところに彼女を置いていた。
 話なんてとんでもない自体だ。
 だから、先日の事を詫びる事も出来なかったし、挨拶ですら難しかった。
「食満君、今帰り?」
「あ、うん…」
 泣かせたのに。自分の事を怯える位泣かせたのに、それなのにこの少女はにっこりと笑って自分の隣に立った。
 以外と近い場所に靴箱があったらしい。自分の肩くらいの身長の少女は、靴箱に上履きを入れて靴を出す。
「あ、あの、善法寺……」
「何?」
 今、謝らなければ。
「この前、ホント、ごめん…」
「え?」
「いや、髪の事。俺、知らなくて…」
「ぼくの方こそ、ごめんね。いきなり泣いたりして。びっくりしたでしょう?」
 少女は靴を綺麗に揃えて地面に置くと、困ったように眉を寄せて笑った。
「食満君、何も悪くないのに。一方的に悪いみたいなことになっちゃって。ごめんね」
「善法寺は悪くねぇよ。悪いのは…」
「ううん、悪いのはぼく。ちゃんと説明すれば、食満君だって分かった筈なのに」
 何故か、彼女は自分の事をぼく、と言う。
 見た目は完璧に女の子だ。
 ふわふわの髪をポニーテールにして、セーラー服は何の違反も無い。どう見たって、女の子なのに、まるで言いなれた言葉のように、ぼく、と言った。
 しかも、作兵衛を責めようとしない。
 あれだけ酷い言葉を言ったのに、それなのに。
 怖かった筈だ。自分の顔が怖いことには自信がある。説明する時間を与えないくらいの威圧感を出していた自信もある。
 それなのに、悪いのは自分だと言うどこまでも謙虚と言うよりはそれが当たり前だと言わんばかりに言っている。
「なぁ、善法寺」
「何?」
「その、余計なお世話かもしれないんだけど、相手が悪い時は悪いって言った方がいいと思うぞ」
「え?」
「この前は、どう見ても俺が悪いから。善法寺に非は何もねぇよ」
 作兵衛の言葉にくるりと目を丸めて、そうして。
「食満君は優しいね」
 そう言って、また困ったように笑った。
 どうしてだろう。
 この少女の笑顔は、胸に突き刺さる。
 歳の割りに大人びた笑顔が、どうしても突き刺さる。その笑顔にどう言葉を返して良いか分からず黙っていたら。
 ぐうぅぅぅ…
 盛大に、腹が鳴った。
 おそらく、彼女にも聞かれただろう。
 …カッコ悪ぃなぁ…もう…
 そう思いつつ、少し赤くなって後ろ頭を掻いていると。
「はい」
「え?」
「良かったら、食べて? 余っちゃって困ってたんだ」
 そう言って、少女は手にしていた紙袋を作兵衛に手渡す。
「友達にお腹一杯って言われちゃって。持って帰ろうと思ってた所だから」
 ふわり、と鼻先をくすぐったのは香ばしい匂い。その匂いに腹がまたぐうと鳴る。
「俺が貰って良いのか?」
「うん、貰ってくれると嬉しい」
 泣かせたバツの悪さも手伝って、作兵衛は紙袋を受け取る。そうすると、少女は「ありがとう」と小さな花が綻ぶように笑ってくれた。
 そう、彼女は大輪の花の様には笑わない。
 最近、気が付くとクラスの中で探している彼女の笑顔は、小さな花が芽吹くように綻ぶように笑うのだ。
 柔らかな、春の花のように。
 それに見惚れている自分がいる事に、作兵衛は最近気が付いた。
 あゆみとは種類の違う笑顔だな、と思ってしまったけれど。
 作兵衛の彼女は、はっきり言って美人だと思う。よくもまあ、自分好きになってくれたというくらいの美人だ。
 成績優秀、品行方正と言う言葉がぴったり来る。綺麗な黒髪で、腰まで伸びた髪はいつもつやつやしていた。大きな目はつけ睫なんてしなくてもばさばさしているし、すっとした鼻に、桜色の唇。肌は元々白いらしい。その彼女が笑うと、たくさんの花が満開に開いたように見える。それは、作兵衛の好きな瞬間でもあった。
 けれど、この少女の笑顔は全く違う、
 ひっそりと、ふわりと、そして、どこか儚く。正直、儚い、なんてイメージの少女ではない。友達との話にいい意味でも悪い意味でものぼる事も無い、目立たない少女。友達は少なくは無いだろうが、一番中の良いのが少々素行の悪い類のあの二人と言うだけだ。
 そんな少女が気になってしょうがない。
 謝りたいのもあったし、話してみたかったから何度か挑戦したが、全てあの二人に阻まれた。
 だから、きっと自分を嫌っていると思っていたのだけれど。
 貰った紙袋をまじまじとみていると、少女はとんとん、と靴を履いて「じゃあね」と小さく手を振って玄関を出て行った。
 ああ、も、さよなら、も言えなかった。
 こんな所が不器用だと言われる所だろうか。
 ぐう。
 腹が、早く何か食わせろと要求してくる。
 自分の間の悪さに辟易しながら、貰った紙袋をかさかさと開けるとそこには綺麗な黄金色。腹の空いた男子中学生には魅惑的過ぎる。
 辺りに誰もいないのを確認して、作兵衛はそれを一つ掴んでぱくりと食べた。
「!」
 その時、思いっきり固まってしまい友人に声をかけられるまでそれを銜えたままでいた作兵衛だった。 





「兄貴、兄貴!」
「どうした?」
 留三郎が学校から帰ると、弟の作兵衛がふくふくとした笑顔で近寄ってくる。
「あのさ、何も言わずこれ食ってみて! あ、手は洗ってな!」
「分かってるって」
 帰ったら手洗いうがいは欠かさない。そのお陰か、食満兄弟はインフルエンザと言うものに縁が無かった。
 台所で手を洗って作兵衛のいる居間に行くと、作兵衛が嬉しそうに何やら紙袋から取り出している。
 食満兄弟の住むアパートは2Kの小さなものだ。居間と、寝るための部屋。そして台所とトイレと風呂が付いている。両親が死ぬ前からこの部屋に住んでいる所為か、大家さんや近所の人たちとは仲が良い。料理があまり出来なくても、何とかかんとかこの二人が生きていけるのは周りの人間に恵まれてるからだろう。
「これ、どうした?」
「クラスメイトに貰ったんだけど。食ってみてよ」
 作兵衛が紙袋から取り出したのは、黄金色が眩しいカレーパン。ちょうど小腹も空いていたので、わかった、と一つ返事で留三郎はそのカレーパンを食べた。
「!」
「な、な、すげえだろ?」
 パンはふんわりとしていて、少し甘い。発酵の妙な匂いもしない。時間が経っているのにかりかりさくさくで、パン自体がとても美味しい。
 そして、中のカレーがこれまた美味しい。最近良く見かけるごろごろした具のカレーではなくて、とろりとした凝縮された少し辛いけれど辛いだけじゃなくその中に旨みのあるカレーだ。
「何、これ。すっげー美味い…」
「だろ? 俺も食べた時驚いてさ」
 コップに牛乳を注いで留三郎の前に置くと、作兵衛は目をきらきらさせて留三郎の顔を見た。
「どこの店の?」
 ぺろり、と一個食べてしまうと、もう一個食う? と作兵衛が紙袋から出して留三郎に手渡した。
「わかんねぇ…紙袋に名前も書いてないし」
 正直、今まで食べたカレーパンの中で一番美味しいカレーパンだ。今まで一番美味しいのは近所の夫婦がやっているパン屋のカレーパンだと思っていたけれど、これはそれ以上だった。
「クラスメイトが、余ったから貰って、って言うから貰ったんだけど」
 まさか、余ものだからと貰ったパンがこんなに美味しいとは思わず、店の名前を聞いておけば良かったと思ったが、そんなに仲の良いクラスメイトではない。
 どちらかと言えば、今日まで嫌われていると思っていたクラスメイトだ。
 まあ、今日のやり取りで嫌われてはいないと言うのだけは分かったけれど。
「おい、作」
「何?」
「明日、店の名前聞いてきてくれ。俺、これ、まだ食べたい」
 紙袋の中に入っていたカレーパンは全部で四つ。作兵衛が先に二つ食べて、残りの二つを今留三郎が食べてしまった。
「分かった。あ、今日の夕飯どうする?」
「おばちゃんとこ行くか。俺は、あのカレーパン以上の食い物しか今日は食わないからな」
「その意見には賛成」
 そう言って二人は学生服のまま立ち上がると、財布を持ってそのまま部屋を出た。




「食満君?」
 教室の窓際の少女の席に近付くのは至難を極める。そう思って何とか集めた情報で、少女が保健委員会で放課後は保健室にいる事が多いと知って、今日はこうして保健室の窓越しに名前を呼んだのであった。
「どうしたの?」
 運良く、保健室には少女しかいない。
 声をかけるのは物凄い勇気を必要としたが、あのカレーパンの為、と自分を駆り立てたのだ。
「あのさ、昨日くれたカレーパンだけど…」
「不味かった?」
 カレーパンの言葉に、少女は困ったような顔をする。
「いや、その反対! すっげー美味かった! だから、どこで売ってるか教えて欲しくて…」
「え……」
「うちの兄貴も美味かったって言ってさ。本当は全部一人で食いたかったくらいで、……だから、店教えて欲しいな、って思って…ごめん」
 何故謝ったのかは分からないが、この少女には何故かいつも悪い気がしてならない。
 作兵衛の言葉を聞いた少女は、右手を右手の頬に当てると「ごめんね」と小さく零した。
「え?」
「あれ、作ったの、ぼく、なんだ」
「え?」
「いや、うん、言っておけば良かったんだけど、あれ、作ったの、ぼくと、お姉ちゃんなんだ」
「あのカレーパンを」
「うん。パンはぼくが作って、カレーはお姉ちゃんが作ったカレーの具を潰して包んだんだ」
 目玉が飛び出るとはこの事だろうか。
 パンは、とてもではないが素人の作るもではなかった。カレーも然り。絶対どこかの店だと思っていたのに、手作りとは。
「ホームベーカリーとか言うヤツで?」
 前に、あゆみがホームベーカリーで焼いたと言うパンを食べたけれど、あれは美味しかった。それと同じかと思って尋ねてみると。
「ううん、一から作ったんだ。ホームベーカリーは欲しいけど、高いしね」
 どうやら、完全に手作りらしい。
「そっか……」
 少女とその姉の手作り。それを、また食べたい、なんて無理を言うわけにも行かない。そんな仲ではない。ただのクラスメイト。それだけだ。
「あの、食満君」
「ん?」
「カレーパンは、お姉ちゃんがカレーを作った時じゃないと無理だけど、もし、何か好きなパンがあったら作ってこようか?」
 カレーパンのカレーが目的だったら、ごめんね。
 自分は余程落胆して見えたのだろうか。真面目な顔でそう言う少女に「いや、そう言う訳には…」と返した。
 だが。
「そ、そうだよね。クラスメイトがいきなりパンとか作ってきたらびっくりするよね」
 泣きそうな顔だった。
 もしかしたら、少女は精一杯頑張って言ってくれたのだろうか。強面の自分に勇気を出して言ってくれたのだろうか。
 正直、カレーパンは大好きだ。
 パンだって大好きだ。
 作兵衛は、ああ、とも、ううとも付かない声を出して。
「なぁ…」
「は、はい…」
「あげパン」
「え?」
「あげパン、って作れるか?」
 小学生の給食で出会って以来大好きなパンだ。そのパンの名前を聞いた少女は。
「大丈夫!」
 そう言って、初めて、満開の春の花、菫の花が広がるような笑顔を見せてくれた。
 今まで小さな花が綻ぶような笑顔だったのに、それなのに。
「今、少し忙しいんで、時間のある時でいいかな?」
「あ、うん…」
「じゃあ、今度作ってくるね。それから」
「何?」
「美味しいって言ってくれてありがとう」
 その時、作兵衛は何故か少女の髪に菫色を見た。





「お姉ちゃん!」
「どうしたの、数馬?」
 家に帰るなり自分に引っ付いた妹を見て、伊作は目を丸くする。
「あのね、今度ね、作ちゃんにパンを作る事になったんだ!」
「え?」
「この前ね、たくさんカレーを作った日にカレーパン作ったでしょう? あれ、学校に持って行ったんだ。そうしたらね、作ちゃんに渡す事が出来て、美味しいって言ってくれたの!」
 数馬の作るパンは美味しい。
 それは伊作も良く知っている。
 と言うか、数馬はパンだけじゃなくお菓子関係なら何でも上手に作ってしまう。最近の伊作のお気に入りはマカロンだ。
「そう、良かったね」
「うん、それで、カレーパンは伊作先輩がいないと無理だけど他のパンで良かったら、って言ったらあげパンで良いって言ってくれて!」
 自分の事を伊作先輩、と呼ぶ所を見るとかなり気持ちが浮かんでいるらしい。しかも、気付いていないようだ。
 伊作は、数馬の頭をゆっくりと撫でると、頑張ったね、と目を細める。
「頑張ってませんよ!」
「頑張ったよ。あれだけ、男の子は怖い、って言ってた数馬が、頑張った頑張った」
 きっと、ありったけの勇気を持って作ちゃんと呼んでいるクラスメイト―作兵衛とは別人かもしれないけれど―と話したのだろう。 
「だって、誰かを思うのは自由、って伊作先輩が言ってくれたから」
「え……」
「作ちゃんと同じ顔をした誰かでも、ぼくは、食満君が好きだから。だから、頑張った内に入りません」
 へへ、と笑って数馬は伊作にぎゅっと抱きつく。
 この、可愛い妹の恋だけでも上手く行ってくれれば良いのに。
 この、頑張り屋な妹の恋だけでも、せめて、せめて。
 伊作は、ゆっくり数馬の頭を撫でてどこかにいるかもしれない神様に小さく祈った。





 例えば、教室を見回した時に見えるその笑顔が
 どこか、寂しく思えたのは
 どこか、悲しく思えたのは
 たった、一瞬の切れ端の何かの所為
 そんなものの所為で、切なく見えるのなんて寂しいから
 だから、せめて花が綻ぶような









貴女の笑顔を










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作兵衛挽回したよ頑張ったよ編。
前回の話が前世なら確実に周りにぼこられていた話だったので、今回は幸せ風味。
どんどん二人が近くなって行く内に、多分、彼女さんも出てくると思います。
留三郎の最大の壁は、まだ実は出ていません。乗り越えるのが大変だぞ、と。



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