呼ばれた気がした。 泣きたくなるような声で、そっと。 「……」 友人が暗く沈んでいるのを見て、作兵衛はどうしたんだよ、と声をかける。 部活に所属している友人は、早く部活に行かなければならないのに、何故か鞄を見て挙動不審になっていた。 「どうしたんだ? 部活、行きたく無いのか?」 作兵衛は部活に所属していない。 家の事情があって、家事やらなんやら一切を任されているからだ。今日もスーパーのタイムバーゲンに行く所である。 「お前、いつまで悩んでんだよ。早く行けって」 その悩んでいる友人の肩を別の友人が叩いた。 「お前、理由知ってんの?」 「あれだよ、明日風紀検査だろ?」 「だったか?」 「だったよ。こいつ、風紀委員だろ? 注意できなくて朝からこんな調子」 あれにね。 友人が指差したのは、所謂問題児。校則違反の常習犯達だ。 作兵衛達の学校では、抜き打ちの風紀検査は無い。風紀検査は一週間ほど前から生徒に知らされる。その風紀検査に合わせて大概の生徒は校則違反を隠すのだ。 だが、作兵衛のクラスのその常習犯達はいつも隠さない。それを注意するようにとでも教師に言われたのだろう。 「お前……」 「俺だってさ、行こう行こうとは思うんだけど、やっぱ怖いじゃん?」 不良とは違う怖さ。 何かされる訳でも無い。因縁をつけられる訳でもない。ただ、その存在が怖いのだ。 友人の言う事が分からなくも無い。 だが、留三郎を兄に持つ作兵衛からしてみれば、そんな常習犯など怖い筈も無かった。留三郎は、風紀検査に引っかかる常習犯ではないが、所謂「素行の悪い」学生だからである。 「俺が行ってやるよ」 「良いのか?」 「お前、部活に行きてぇだろ?」 困った人を放って置けないのは、留三郎と一緒。何だかんだで面倒見の良い作兵衛はクラスでは頼れる兄貴分だった。 「ごめん、食満!」 ぱんと手を合わせて謝る友人にひらひらと手を振ると、窓際の席で話している常習犯たちに近寄って。 「あのさ、お前ら」 作兵衛が声をかけると、常習犯たちは面倒臭そうに作兵衛を見る。 「明日風紀検査なんだから、少しは隠せよ」 「は? あんたに関係ないでしょ」 金に近い髪、整えられた眉毛、ばさばさの睫に、黒い目元。カラーコンタクトにピアス。短いスカートにマニキュアを施した指先。 確かに、これは同学年では怖いだろう。だが、留三郎が連れている女の人にはこんな感じの人がいた。その所為か怖いとは思えない。 「一応学校に通ってんだから、筋通せよ」 「っさいなー。いこ」 そんな作兵衛の忠告など聞く余地は無いとばかりに、常習犯の少女達は立ち上がる。 「あのなぁ、てめぇらだけで済む問題ならかまわねぇけど、人に迷惑かけてんのわかってんのか?」 「誰に迷惑かけてるって?」 「風紀委員とか、このクラスの奴らとか、校則守ってる奴等とか、そんな奴等に迷惑かけてんじゃねぇのか?」 迷惑をかけなければ、個人の自由。それは、作兵衛の持論だ。自分で責任を取れるなら何をやってもいい。だが、人に迷惑をかけるのであればそれは別だ。 「てめぇらが信念まげねぇって言うのは分かるけど。少しは協調性持てって言ってんだよ」 「何、食満。男のくせにねちねち言って。サイアク」 「最悪で結構。別にてめぇらに好かれたくてやってるわけじゃねぇし」 雰囲気は酷く悪い。相手が男なら確実に喧嘩に発展していただろう。だが、作兵衛は男で相手は少女。険悪な雰囲気になるだけだ。 それでも、作兵衛に頼んだ友人は顔を青くして見ている。 そして。 作兵衛は溜息を付きつつ、腕を組むと。 「喧嘩売るなら買うけど。それでさ、怒鳴られて怖いくらいなら校則破るなよ」 金髪の少女たちの中で顔を青くさせている少女を見た。 「脱色するのもパーマかけるのも自由だけど、人に迷惑かけねぇでくれ」 少女たちの中でパーマをかけているのは一人。自分が怒鳴ったくらいで青くなるくらいなら、最初からやめればいい。 「あんた何様? あたしらの勝手でしょ?」 「そりゃ、てめぇらの勝手だろうけど。だから言ってるだろ、最低限の規則くらい守れって」 作兵衛に噛み付いてくる少女はかなり苛立っている。苛立っている人間はその少女だけだ。一人は関係ないとばかりに髪先をいじり、もう一人は。 「自分のやった事で泣くなよ。責任取れねぇくらいならやるな」 俯いて今にも泣きそうな少女は、はっと作兵衛を見て。 「ごめんなさい………」 そう言って一人で教室から走り去った。 おそらく、この少女たちの影響で髪を染める事に興味を持った、と言ったところだろうか。いっその事、この少女たちのように自分の意思ならこうやって口喧嘩をするのも可能なのに。 作兵衛は人に意見を左右されるのが嫌いだ。自分のした事に責任を取れない人間が嫌いだ。 冷たい視線で少女の背中を見送っていると。 腹部に、痛み。 何かと思えば、髪先をいじっていた少女の鞄が腹にめり込んでいる。 「って……」 「サイテー! サイアク! 何考えてんのよ! あんた!」 作兵衛に噛み付いた少女の比ではない程の怒り方。何が彼女の逆鱗に触れたのか、それは作兵衛が知りたいことである。 「な、何だよ!」 「あんたがサイテーだって言ってんのよ!」 じりじりと腹部が痛い。軽いとは言え鞄の衝撃はかなり大きかった。 「数馬があんたに何したのよ!」 「………?」 「あの子は何も違反して無いし、あんたに迷惑かけて無いじゃない!」 少なくとも、自分の目の前にいた少女達は校則違反していた。間違いない。とんだ言いがかりだ。作兵衛がぎっと睨むと少女は睨み返してくる。 「女の子泣かせるなんてサイアク!」 「泣くような事する方が悪ぃんだろ!」 「あんたが怒ったから泣いたんでしょ!」 「怒ってねぇ! 注意しただけだ!」 「何も悪い事してない人間に注意するなんておかしいじゃない!」 「じゃあ、何か! 校則違反は悪いことじゃねぇのか!」 「してる人間は何言われようと平気に決まってるじゃない! して無い人間に怒鳴ってるあんたの神経が信じられない!」 とうとう口論に発展した二人を、最初に噛み付いてきた少女は睨んだまま止めようとしない。その二人を止めたのは、少女たちに注意できなかった友人だ。 「なぁ、食満」 「何だよ!」 「あのさ、謝った方が、良いと思う」 「何だよ、お前まで。怖くなったのか?」 「違う。確かにさ、俺が注意しろって言われたのはその二人だけど…善法寺は、違反してない」 「え?」 善法寺。 誰だっけ? そんな奴、クラスにいたか? 「あんた、数馬のスカート丈見たの? 爪、見たの?」 「善法寺って……」 「ちょっと、あんた名前も分からない人間に向かって怒ってたの? サイテー!」 さっき、ごめんなさいと呟いて去っていた少女。 顔は、どんなだった? 制服はどうだった? 爪先はどうだった? 「数馬の髪は天然よ! 色もパーマも! それこそ黒に染めたりしたら違反じゃない!」 「え……」 どう言う事だ? 振り返って友人を見ると、友人はバツが悪そうに後ろ頭を掻いて。 「善法寺、全く違反して無いんだよ。髪の事は先生も知ってる」 ふわふわとした栗色の髪。一人だけパーマがかかっていたからそれだけは覚えている。 「え、……マジ?」 「うん……言っときゃ良かったな。ごめん」 「一人正義面して説教なんて良く出来たわね。しかも、なんにも違反してない子に」 ぐっと作兵衛に顔を近づけた少女は、作兵衛を睨み付けたまま。 「数馬は、見た目で人を判断しない。私たちみたいなのと友達になってくれる子よ。あんたは自分の彼女みたいな子しか認めないんでしょうけど。絶対に許さないから」 「数馬泣かせた事、絶対許さないから」 いこ、と二人の少女は鞄を拾ってその場を去っていく。 残された作兵衛は、その二人を見送って呆然と立ち尽くしていた。 「食満、善法寺に謝った方が良いって」 友人が申し訳なさそうに言う。 「頼んだ俺が言う事じゃないかもしれないけど。マジで、善法寺泣かせたのはやばいと思う」 そうだ。 自分が思いこんで、怒鳴った。だから、善法寺は泣いた。 顔の思い出せないクラスメイト。探すのは難しいかもしれない。覚えているのは、ふわふわの栗色の髪だけ。 「俺、ちょっと探してくる!」 「おう。俺、待ってるから」 そう言った友人を残して、作兵衛は教室を飛び出した。 「どこにいんだよ…」 泣いている少女のいる場所なんて分からない。女子トイレの中に入られていたらもう手の内用が無い。それに、あの二人に先を越されたら謝る機会なんて一生ない。 ぐいと、詰襟を外して学校中を走る。 自分が悪くないと言えばそう言いきれるかもれない。自分に言ってなかった友人も悪いし、否定しなかった少女も悪い。そう言えば良い。 だが、生憎と作兵衛はそんな事の出来る類の人間ではなかった。 自分が怒ったから、彼女は泣いた。理由が明らかな状態で自分は悪くないといえる程大人になってはいない。 あゆみに話したら怒られるだろうか。 女の子を泣かせるなんて、と。 それとも、自分以外の女の子に目を向けたと可愛くやきもちを焼くだろうか。 どっちにしろ、自分の大好きな子を悲しませることになる。 こんな時にも自己弁護かよ、と少し反吐が出そうになったが、何の非も無い少女を泣かせたという事実は作兵衛には荷が大きすぎた。 もう、探していない場所は保健室くらいだが、保健室は誰かいる可能性が高い。そんな場所にあの少女が逃げ込むだろうか。 いや、逃げ込んで誰かに話しているかもしれない。 そんな事を思いつつ、保健室まで走ると息を落ち着かせる。 駄目で元々。 そう思って失礼します、と保健室の扉を開けた。 消毒薬の匂いが充満する部屋。普段から世話になることの無い作兵衛には違和感しか与えない。 見回しても、教師の姿も生徒の姿も無い。 やっぱり、誰もいないか。 溜息を一つ付いて踵を返した瞬間、小さく、ひっく、と言う音が聞こえた。 誰か、いる。 自分がいる場所から見えないのは、カーテンを引いたベッドの辺り。誰かいたら悪いなと思いつつカーテンを開けると。 じっと息を殺して震えている影が一つ。 近付いて、なぁ、と声をかけると。 「ご、ごめん、な、さいっ……」 ひっくとしゃくりあげながら謝罪の言葉を口にする。 「いや、あの…」 「ごめ、ごめん、な、さ……っごめ、ん、なさ、い」 ベッドとベッドの間に座り込んで顔を覆ったまま、口にするのは言葉にならない「ごめんなさい」。 「謝んなよ…」 「でも、さくちゃ…」 「さく…?」 「ご、ごめん、なさ……」 漸く、零れ出た言葉を拾おうとすると、もっと小さく丸くなってしまう。 随分と怖い思いをさせたのかもしれない。 確かに、自分は目つきは悪いし言葉遣いも乱暴だ。女子が怖がるには十分な要素を持っている。 「悪いのは俺なんだから、謝るのは俺だ」 少女の隣にしゃがみ込んで背中を叩くと、少女はびくりと震えてゆっくり顔から手を話すと、驚いたように作兵衛を見た。 その時、作兵衛は「善法寺数馬」と言う少女を認識する事が出来た。 太い眉は困ったように八の字になっていて、丸い目は二重だが睫は標準。少し低い鼻にぷっくりとした唇。下膨れの顔で、確かに覚えにくい顔ではある。 決して、可愛いとか美人とか騒がれる事の無い、失礼な話だが中の中かそれ以下くらいの顔だ。 「善法寺、だよな」 「は、はい……」 「ごめんな。お前が校則違反して無いのに、怒ったりして。俺、こんなんだから怖かったろ?」 出来るだけ、優しい言葉を選ぶ。 覚えにくい、可愛くない顔の少女。 だが、泣き顔を見るのは辛かった。訳が分からないけれど、自分が泣き出しそうな程辛かった。 「いくらでも、俺の事怒って良いから。嫌な奴だって言って良いから。ホント、ごめん…」 何を言って良いか分からない。 許してもらうつもりは無い。謝る事自体が自己満足かもしれない。それでも、謝っておかなければ筋は通らない。 「……食満君、ごめんね」 ひっくとしゃくり上げながら、少女はまだ謝罪の言葉を口にする。 「いや、善法寺は悪くないし…」 「こんな、髪だから、ごめんね…」 でも、とスカートを掴んで少女は大粒の涙を零しながら。 「お姉ちゃんと同じだから、染めたく無いんだ…ごめん……」 そうだ。誰かに言われたく無いなら染めればいい。黒い髪で悪く思う人間なんて、日本人である限りいないだろう。パーマだってストレートパーマをかければ目立たない。 それをしないのは、この少女に「信念」があるからだ。 怒られて泣いても、髪だけは譲れない。その理由が少女にはある。 「違反じゃねぇんだろ」 「……うん……」 「じゃあ、堂々としてりゃいい。違反でも、自分が正しいと思うなら善法寺の友達みたいに堂々としてりゃいい」 「え……?」 「協調性が無いのは問題だと思うけど。誰かに迷惑かけなきゃ、堂々としてりゃぁいいんじゃねぇの?」 怒っておいて言う台詞ではないが、気が付けば言葉になっていた。 「…………」 「ああ、ごめん…妙な事言って…でも、善法寺が正しいと思うならそれでいいと俺は思う」 作兵衛の言葉を聞いた途端、堰を切ったかのように涙を零す少女に作兵衛は後ろ頭を掻いて眉間に皺を寄せる。 「じゃ、俺、行くから。ホントに、ごめん」 「さ……食満君」 「何?」 「ありがとう……」 お礼を言われる理由なんて分からない。 それでも、涙を一杯に浮かべてその頬を涙で濡らして見せてくれた笑顔は、ひどく大人びて見えて、何かの記憶と重なりそうで。 「…礼なんか、いい。それより、早く友達のところに行った方がいいと思う」 早鐘を打つ鼓動を悟られないように、左胸の辺りを握って立ち上がると、そのまま少女に背を向けた。 知らない。多分、知らない。 善法寺数馬と言う少女。 話した事もないし、今まで記憶に残ったことも無い。同じクラスであることすら知らなかったくらいだ。 なのに。 それなのに。 あの、どこか大人びた笑顔が離れない。 何かを思い出そうとすると全てあの笑顔になる。 息がうまく出来ない。 泣かせたのは、お前じゃないか。 あんなに、声がかすれるくらい泣かせたのは自分じゃないか。 それなのに、笑顔が離れないなんて。 ああ、おかしい。 自己満足で謝りに行った筈が、嫌われたく無いなんて。 自分を嫌って欲しくないなんて。 ―作ちゃん― 一瞬、誰かに呼ばれた気がして振り返る。 そんな呼び方する人間なんている筈ないのに。 ただ、酷く泣きたくなる声で呼ばれたような気がして、作兵衛は立ち止まって窓から見える空を見た。 それが、善法寺数馬との出会い、だった。 貴女の泣き顔を見て 貴女の笑顔を見て ただ、貴女に嫌われたく無いと願ったのは なけなしの 貴女に真心を −−−−−−−−−− 作兵衛の馬鹿が数馬に何となく気が付いた話。 ごめん、作兵衛に馬鹿って言っちゃったよ…。 何となく、作兵衛の心に引っかかったようです。 ここから始まる数馬と作兵衛のお話です。 戻る |