君の声がした。
 そんなの、気の所為。







「うわ!」
「わ!」
 それは突然の衝突だった。窓からひらりと入ってきた人影と、保健室の中で消毒液を抱えていた人影がぶつかる。
 がっしゃん。
 アルミで出来た脱脂綿が入った容器が宙を舞い、消毒液がぽたぽたと髪を伝う。
「あ……」
「悪い!」
 自分だけでは無く、どうやら相手も同じく消毒液を浴びたらしい。独特の匂いが保健室に充満して鼻が麻痺しそうだった。
 髪の色素抜けないよな。
 そんな事を思いつつ前髪をかきあげると、目の前で茶色に染まった髪からぽたぽたと雫が落ちていた。
「あれ、あんた…」
「食満、君?」
 驚いたように目を丸くしているのは、同じクラスの、確か……。
 記憶に無い。
 基本的に、女の顔など殆ど同じに見える留三郎は、美人か美人じゃないかで判断してしまう。そして、自分から近付いてきた女のみに興味を示すのでそれ以外は全くに近く興味が無い。クラスの女子などかぼちゃかなすか。その程度だ。
「わり、俺が突然飛び込んだから…」
 黒髪の自分と違い、茶色の髪のクラスメイトはおそらく脱色しているのであろう。消毒液を浴びた事に驚かず、留三郎の顔をまじまじと見ていた。
「いや、それより大丈夫?」
 怪我してない?
 そんな事を言いつつ、立ち上がると戸棚からタオルを出してすっと保健室の隅にある水道をを指差した。
「あ、怪我とかは…て言うか、俺よりあんたの方が早く洗った方が良いんじゃねぇの?」
「え?」
「消毒液。制服濡れてるぞ」
 そんな留三郎の言葉にクラスメイトはにっこりと笑って。
「ああ、気にしないで」
 と立ち上がり、なれた手つきで取り出したタオルで自分の髪を拭いた。
「制服はジャージに着替えれば良いし。それに、髪は長いから洗っちゃっても乾かないから」
 だから、食満君が先に水道使って?
 そう言いつつ、タオルを被ったまま散らばった容器を片付け始めるクラスメイトに、留三郎は悪いと思いつつ水道へ向かった。
 蛇口を捻って水を出すと、思い切り良く水を浴びる。冷たいけれど、この季節だ。風邪を引く事も無いだろう。それより、脱色しないかどうかの方が心配だ。ただでさえ教師や生徒の評判が良くないのに、これ以上目立つ真似はしたくない。
 がしがしと髪を洗って、水を止めると貸してもらったタオルで水気を拭く。制服にはあまりかかっていなかったらしく、もう殆ど乾き始めていた。その間に、クラスメイトは零れた消毒液を拭き、アルミの容器を片付け、床を綺麗に磨いていた。
「それより、食満君」
「ん?」
「何で保健室なんかに飛び込んじゃったの?」
「え?」
「あ、ごめん。突然入ってきたからどうしたのかと思って」
 話すと長くなるが、最近付き合った女がしつこく逃げ回っていただけなのだが。しかも、その女の元彼などと言うのがこれまた性質が悪く自分を見つけては因縁をつけてくる。今日もそれから逃げ回っていて、角を曲がった瞬間に開いていた窓に飛び込んだんだけれど、そこが保健室でまさか人がいるとは思わず、ついでに消毒液なんか運んでいるとは思わなかったのだ。
「話しにくいことなら別に聞かないから。ただ、怪我じゃないなら、いいんだ」
 にっこり。
 おや、これは。
 女に興味の無い留三郎でもどきりとしてしまう笑顔。おそらく、美人の部類に入る。
 こんな子、クラスにいたっけ…?
 少なくともこれ程の美人なら、友人達の噂に出てもおかしくは無い。と言うより、男が放って置かないだろう。
「なぁ、あんた」
「何?」
「彼氏、とかいないのか?」
「え?」
「あ、いや、ちょっと気になったから」
 遊んでる雰囲気は無いのに、髪は茶髪で。スカートは短くは無いが、標準でもない。ピアスの痕も見当たらない。
 これは、彼氏が真っ当な人間なんだろうと思ったのだけれど。
「そんなの、いたら良いんだけどね」
 苦笑しながら、かたんとアルミの容器を台の上に置く。
「いろいろ忙しくて、そう言うのまで気が回らないから」
 何が忙しいんだろう。
 聞いてみたいけれど、それ以上は聞けずにいた。それ以上聞いてしまうのは、失礼にあたる。自分の興味本位で嫌な思いはさせたくない。
「食満君はいいの?」
「え?」
「さっきから走り回ってる子、食満君の彼女じゃないの?」
「嘘!」
「あそことか、ほら、こっちに…」
「うわ、すまないけど、ちょっと隠れさせてくれ!」
 すいっとカーテンで仕切られたベッドに飛び込むと、そう言ってカーテンを閉める。
 怪しい事この上ないが、この際しょうがない。逃げているのは本当なのだから。
「善法寺さん!」
 ほら、来た。このキンキンと脳に響く声は、間違いなく今の彼女だ。依存が強く独占欲が強い、全くをもって面倒臭いことこの上ない女。付き合ったのは間違いかな、なんて思う程に。
「どうしたの?」
「こっちに留こなかった?」
「とめ?」
「ああ、食満留三郎。私の彼氏なんだけど」
「食満君? さっき、向こうの棟の二階を走ってたのは見たけど」
「え? そんなに遠い所?」
「うん。探してるなら手伝おうか?」
「ううん、いい。そっか、向こうの棟か。ありがとう、善法寺さん」
「頑張ってね」
 カーテンの隙間から見れば、にこにこととても人を騙しているような顔ではない笑顔で、留三郎の彼女を見送っている。遠ざかっていく足音に安心してベッドから足を下ろすと、すっとクラスメイトを見ると、さっきとは違った柔らかい笑顔で留三郎を見ていた。
「当分、こっちにはこないと思うけど…逃げるのなら今のうちじゃないの?」
「ぜんぽうじ…」
「ん?」
「あんたの名前」
「ああ、僕の名前? 善法寺だよ。善法寺、伊作」
 そう言いつつ、窓を閉めながらクラスメイト―善法寺伊作は笑う。
 自分も人の事は言えないが、変わった名前だ。いさく、だなんてまるで男のような名前じゃないか。
「一応クラスメイトなんだけど、知らなかった?」
「わり、クラスメイトの顔とか区別付かなくて…」
「そうなんだ。食満君は保健室にも来ないしね」
 知らなくてもしょうがないよ、と言うけれど、こんな独特な空気を持ったクラスメイトを忘れる方がおかしい。まるで、わざと自分から遠ざけていたような。そんな感じがする。自分から忘れようとしていたかのように。
「この恩は必ず返すから」
「いいよ、そんなの」
「いや、消毒液ぶちまけたし、匿ってもらったし」
 髪の脱色、進んだら困るだろ。
 そんな留三郎の言葉に、伊作は一瞬きょとんとしてころころと笑う。
「これ、地毛」
「え?」
「よく言われるんだけどね。脱色もしてないし、染めても無いよ」
 そんな事に使うお金勿体無いし。
 くせっ毛の茶色の髪を手で隙ながら笑う伊作に、何故かずきりと胸が痛んだ。
「まあ、多少言われても、妹と同じだから良いんだ」
「妹?」
「うん。僕よりもっと薄い茶色でね。とっても綺麗で、ふわふわして、可愛らしいんだよ」
 妹の事を語る伊作はとても嬉しそうで、妹への愛情が伝わってくる。自分も大概弟馬鹿だが、伊作も大概の妹馬鹿だろうと留三郎は思った。
「あ、そろそろバイト行かなきゃ」
 腕時計を見て、伊作は慌てて荷物をまとめ始める。
「バイトしてんの?」
 留三郎達が通う学校は基本的にバイトは禁止だ。夏休みと冬休みの長期休暇のときだけ許される。それなのに、バイトなどと言うのは、伊作の空気からは似つかわしくない言葉だった。隠れてやってるにしては堂々としすぎている。
「ああ、ちゃんと許可とってやってるよ」
 学校から許可を貰っていると言う事は、それなりに家庭の事情があると言う事だ。留三郎もバイトが出来る家庭の事情の持ち主なのでよく分かる。留三郎のバイトは基本的に深夜の肉体労働だ。きつい仕事だがその自給はとても魅力的で、三年間同じところに勤めている。
「うち、両親いないから」
 胸の奥をえぐられるかと思った。
 自分の身の上を哀れだと思ったことは無い。それは、自分達が男二人で、何とか生きていけているからだ。両親を失っていたとしても。だが、伊作は話を聞く限り妹と二人のようで、自分達とは違う。妹の事を語る伊作の顔を思い出して、何だか物凄く申し訳ない気がした。
「食満君、タオルはそこの籠の中に入れておいてくれれば良いから」
 もうちょっとしたら保健の先生来るから。
 そう言いながら伊作は荷物をまとめて扉に手をかける。
「あの、善法寺…」
「ん?」
「その、ありがと、な」
「いいえ、どういたしまして」
 その笑った瞬間に。
 ―留さん―
 どこか、遠くで自分を呼ぶ声がした。
 そんなの気の所為だろうけれど。
 何故か、とても善法寺伊作と言う人間に興味を持った留三郎は、彼女が消えていった扉を見ていた。






 貴女の事を思い出せないのは
 貴女を知らないから
 それとも、貴女を。







貴女の面影を










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食満留三郎、伊作に気が付くの段。
お互い両親がいないって言うのが引っかかったらしい。
まだまだ恋ではないので、伊作の片思いですよ。




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