幸福は、きっと。 かちゃりと玄関の鍵を開けると、閉まっていない気配。 数馬が中にいるのかな。でも中、真っ暗だし。 バイトから帰った伊作は首を傾げながら扉を開けると、そこには真っ暗な部屋。伊作たちの住む部屋は一般的な2LDKだ。とは言え、すこしこじんまりとしているけれど。その部屋に、気配はあるのに何も見えない。 ぱちり、と壁のスイッチを押すと部屋に明かりが灯った。 「……数馬?」 4畳程のリビングを抜けると、そこはくつろげるようにとソファを置いている場所で。そのソファで数馬は膝を抱えていた。 「どうしたの?」 買い物袋をすとんとソファの側に置き、伊作はしゃがみ込むと数馬に視線を合わせようとする。だが、数馬は一向に顔をあげようとはしなかった。 何があったのだろう。 この一週間、少なくとも数馬は幸せそうだった。同じクラスに作ちゃんがいるんだよ! そう言って笑っていたのに。それなのに、今日はこれ以上ないくらい沈んでいる。 理由が分からなかった。 ゆっくりと栗色の髪を撫でると、一瞬肩を震わせて数馬は顔をあげる。その顔は、なみだでぐしゃぐしゃだ。 「数馬、どうしたの?」 誰かにいじめられた? ゆっくり首を横に振る。 何か落としたの? やっぱりまた首を横に振る。首を横に振るだけで、何も話そうとしない。 「富松君、に何かあった?」 富松。その言葉に、数馬は目を見開いてそうしてぼろぼろと涙を零した。 「怪我したの?」 「ううん…」 「病気になった?」 「違うよ…」 「じゃあ、どうしたの」 何か核心に触れようとすると、数馬は黙り込む。 余程辛かったのだろうか。死に別れたわけでもないのに。 「あのね、おねえちゃん」 「うん」 「作ちゃんね、付き合ってる人がいるんだって」 「え?」 「ぼくは、ただ、食満君に作ちゃんの面影を重ねているだけかもしれないけど……それでも、なんか物凄く嫌だった」 数馬の言う「作ちゃん」が自分達と同じ時代を生きた富松作兵衛だと言う確信はない。伊作にしてみれば尚更だ。数馬の口から名前を聞くだけで本人にあった事はないのだから。けれど、数馬は何もかも同じだと言う。自分を残して逝ってしまった彼の人のままだと。 作兵衛が数馬に何を残したのかは知らない。数馬は頑なに話そうとはしないし、伊作も聞こうとは思わない。それが、数馬にとって今は生きる意味だから。 「道沢あゆみさん、って言う人なんだけど」 「うん」 「学校で凄く人気のある子で、とっても優しい人なんだ」 「うん」 「まるで立花先輩みたいな髪で、綺麗な人で」 「うん」 「その人が、作ちゃんを選んだんだって」 教室の後ろの扉。揺れた長い黒髪。そこには、花が綻ぶような笑顔があった。揶揄する声、真っ赤になる作兵衛。あとから友人達に聞けば、あの二人付き合ってるんだよと教えてくれた。 「作ちゃんはぼくの知ってる作ちゃんじゃなくて、知らない人なんだって思ったら……凄くすごく悲しくなって…」 今までずっと追いかけて来たから。 桜が舞う頃、真新しい制服に身を包んだあの時、見つけた横顔。その時の感動は今でも鮮明に覚えている。 作ちゃんがいる。数馬は、なんの確証もなしにそう思った。視線も、声も、顔も、性格も、なにもかもあの頃のままだった。自分に無理な約束を残した、作兵衛そのままだった。その約束に五百年縛られている自分も自分だけれど、あの時は神様が約束を果たせと言っているのだと錯覚したのだ、多分。 三年間、追いかけた背中は幻だった事を、今になって知る。 「約束、果たせないなと思ったら、涙が止まらなくて」 「……数馬」 伊作は数馬の隣に座って、数馬の頭を撫でた。 「今の作ちゃんには、こんな気持ち迷惑だよね。重たいよね」 ぼろぼろと数馬の瞳から涙がこぼれる。 「自分でも好きなのか、わからなくなっちゃった……」 約束は、重い。 約束を、好きな気持ちだと勘違いしているのかもしれない。あの約束を果たさなければならないと言う義務感が自分を動かしているのかもしれない。 そう思うと、作兵衛に向けていた気持ちが偽物のような気がしてきて。 「数馬」 「………」 「思い出してごらん」 「え…?」 「富松君じゃなくて、作兵衛君の事。自分がどう思ってきたか」 ずっと追いかけていた。たまに見える姿にどきどきして。廊下を通らないかなとか、体育の授業見えないかなとか。偶然でもいいから会いたかった。そして今年同じクラスになった。クラスになったけれど、席は数馬は一番後ろで作兵衛は一番前。しかも対角線上だ。それでも、後姿を眺めて声を聞ける事が嬉しかった。とても、幸せな気持ちになれた。その気持ちは約束の重みとはかけ離れている。 「あのね、数馬」 「うん……」 「留さん、ね」 数馬の肩を引き寄せて、伊作はぽつりぽつりと話し始めた。 「物凄く、評判が悪いんだ」 「え?」 「不良とかそう言うわけじゃないんだけど、女癖が物凄く悪いって言われてる」 留三郎と同じ高校に入学して二年とちょっと。その間に、軽く二桁の女子と付き合っている。同じ学校の子、違う学校の子、ともかく留三郎に彼女がいないのを見た事がなかった。 「僕の知ってる留さんと性格が違うのかな、と思ってたんだけど、同じクラスになってみたらあのままだし、ちょっとだけ混乱した」 少なくとも、伊作の知る留三郎は一本気の通った男だった。三禁の事もあるけれど、そう言った事から極力避けていた気がする。それなのに、今の留三郎は色を好む。好んでいるのだろうと推測する。そうでなければ、あれだけの人間と付き合うなんて出来ないだろう。 「でもね、数馬」 「はい…」 「それだけの人が、留さんの事を必要としてくれるって嬉しい事じゃない?」 「え?」 「留さんの事、好きだって言ってくれる人がそれだけいるって事。自分の好きな人が誇らしく思えない?」 それは、伊作なりの答え。留三郎は愛されている。そして、生きている。それだけで十分じゃないかと。 「生きてるだけでいい。そう思えたんだ」 死んだりしない。死地へ赴く事もない。ちゃんとあと少しの時間だけれど、自分の視線の中にいてくれる。それがどれほど幸せな事か、伊作も数馬も知っている。 「そう、だよね…」 縛られているのは、自分。 最期の言葉に、五百年囚われているのは自分。もうそろそろ解放してあげよう。あの言葉は、今の作兵衛の言葉じゃない。自分が誰より好きだった富松作兵衛の言葉。そして、今でも好きな作兵衛の言葉。その言葉があったから、自分はこんな記憶を持ったままでこの世界に生まれて来たのだ。 「一回失恋してみれば?」 「おねえ、ちゃん?」 「誰かを思うのは自由だよ。それが、今の作兵衛君でも昔の作兵衛君でも」 自分の想いが重いのならば、一度解き放ってしまえば良い。そうして、そこから新しく始めればいい。 「僕は、もう何度も失恋してるから慣れっこだけど。今の留さんも昔の留さんも好きなんだから、しょうがないよね」 あははと笑う伊作は困り顔だ。どれだけ我慢してきたのだろう。留三郎の隣に誰か立つたびに、何を思ったのだろう。それを乗り越えてここにいるのだ。 昔から凄い人だとは思っていたけれど、これ程とは思わなかった。 何もかも優しさで出来ている人。善法寺伊作とはそう言う人。誰よりも大事な自分の姉だ。 「…おねえちゃん」 「ん?」 「友達にもなれないかもしれないけど」 「うん」 「作ちゃんを好きでいる事は、良いんだよね」 「そうだよ。好きでいる事は悪い事じゃない。仙蔵辺りがいたら、奪えば良いものをとか言ってそうだけどね」 自分を見てくれない瞳を思うのは自由。その言葉は、数馬の心を楽にさせた。 「僕達の不運は今さら始まった事じゃないでしょ?」 そうだ。自分達は不運の星の元に生まれた姉妹。これくらいの不運、なんてことはない。 生きてるだけで良い。それだけで、幸せなのだから。 「数馬」 伊作はゆっくりと数馬の頭を撫でて。 「明日から、また、始めよう?」 そう言ってたおやかにほほ笑んだ。 貴女に過去の束縛を 貴女に現在の約束を そして 貴女に明日を −−−−−−−−−− 今回のテーマは「用具委員後ろを振り向け、保健委員が待ってます」です。 留三郎にも作兵衛にも彼女がいますよ的展開で申し訳ない。 でも、こう言う片思いもありかなって。 最終的にはハッピーエンドを目指しています。本当です。 戻る |