偶然が連れてきた春色の風。 夏休みが始まったばかりの事。 地球温暖化がどうのこうのと呼ばれている昨今、漏れなくその日も暑かった。電車の中も省エネとばかりに外気より少し低い温度に設定されていて、ホームに降り立った瞬間、それまであった冷気もすぐに逃げてしまった。 (あちぃ…) 頬を撫でた風を拭うように作兵衛は頬を乱暴に右腕で拭う。 側を通る人間も同じようで、ハンカチなりハンドタオルなりで汗を拭っていた。 (全く持って、なんでこんなに暑いんだか) 一人心の中で愚痴りながら、ホームから階段へと向かう。 それは偶然だったのかもしれない。 片眉を上げて気温に対して、文句を心の中で文句を零していた作兵衛の目の前で、すみれ色した髪が、がくん、と下に揺れたのだ。 (あ…) その瞬間、体は動いていた。 片方の腕で手すりをつかんで、もう片方の腕を伸ばしぐいとその体を抱きしめる。その途端物凄い重力が片腕にかかった。 (やべ…っ) 体を抱きしめた腕には命の証の温もりがある。 離しちゃいけない。 ぐいっと抱きしめると、手すりを握った手でかかった重力に耐えその場に座り込む。そうすると、すみれ色の髪もすとんとその場にしゃがみ込んだ。 「ってぇ…」 脱臼はしていない、と思う。それでも筋は痛めたかもしれない。 尊敬する先輩がこの場にいたら、馬鹿だと言われるか誉められるかそのどちらかだ。 「おい、大丈夫、か?」 怪我はしていないだろう。もし作兵衛が手を伸ばしていなかったら、目の前のすみれ色の髪は階段の一番上から下まで転げ落ちていたかもしれない。それを考えれば一安心と言ったところなのだが。 「なぁ…」 すみれ色の髪は、何も言わない。 なんか、面倒くせぇの助けたかな…。 作兵衛は心の中で舌打ちをする。 大体、作兵衛は女と言うものが苦手だ。興味がないわけではない。ただ、鬱陶しいのだ。まっすぐに竹を割ったような性格の作兵衛とは反りが合わないと言うべきか。ともかく苦手の一言に尽きる。 そして、助けたのは間違いようもないくらい女の子な人間なわけで。 ああ、これなら助けない方が良かったかもな、なんて思ってしまう。 「なぁ…」 もう一度声をかける。 いい加減、何かしらの反応が欲しい。さっきから人の目が痛くなってきた。階段に座り込んでいるのだ。妙に思われても仕方ない。 「………」 ちょっとだけ、いや、かなり、腹が立ってきた。こっちは良心で助けたと言うのに何も返さないなんて常識知らずもいいところじゃないか。 そう思って深く息をひとつ吐くと。 (あ…れ?) 気が付いた。と言うか気が付いてしまった。体を抱えた腕が震えている事に。それは、自分の震えでない。腕に抱えた人間から伝わってくる反応。 ああ、なんだ。怖かったのか。 声をかけても振り返らないのは、振り返るだけの余裕がないのだ。良く考えてみれば階段から落ちそうになったのだ。怖くない筈は無い。 こんな時、いつもどうしたっけ? 何かあって怖がる後輩達に、なにしたっけ? 思い出して、作兵衛は手すりを掴んでいた手を離し、すみれ色の髪の背中を優しくぽんぽんと叩く。 「大丈夫だから」 ぽんぽん。 「もう、怖くない」 ぽんぽん。 「な?」 何度も背中を叩いていると、震えは小さくなり、じんわりと抱きしめていた腕から温もりが伝わって来た。 そうすると。 「あ、あの…」 蚊が鳴くような声だった。小さすぎて聞こえない。 そして。 「あ、あり、がとうご、ざいま、した」 すみれ色の髪が、振り返った。 世界がひっくり返るかのような衝撃。 クルリとした大きな瞳と、失礼かもしれないが女の子にしては太すぎる眉。決して美少女とは言えないその顔に釘付けになる。 「いや、いいけど、大丈夫か?」 「大丈夫、です」 「立てるか?」 「はい…」 すみれ色の髪の少女はふらふらと立ち上がると、手すりを掴む。ふわりと軽くなった腕を伸ばすと、そこには引き裂いたような跡。うっすらと血が滲んでいるのは、爪で引っかいた証拠だ。 「あ、すみません!」 少女は慌てて制服のポケットから真っ白なハンカチを取り出すと、くるりと器用に傷跡を包んだ。 「ぼくが階段を踏み外したばっかりに…」 「いや、そんな大した傷でもねぇから」 爪で引っかくなど、男同士の喧嘩に比べればなんて事はない。ついでに言えば、抱えた少女の重みもいつもひっ捕まえている人間に比べればなんて事はなかった。 「ごめんなさい…」 「気にすんなって。それより落ちなくて良かったな」 ふわふわと揺れるすみれ色の髪がどこか落ち着かない。化粧などしていない顔は少し青いけれど、愛嬌の有る顔だ。 何だか、作兵衛が知らない「女の子」。 今まで抱いていた女の子のイメージとは違う、その少女にどうしていいか分からずぽりぽりと頬を掻いた。 「今回は、運が良いみたいです」 「今回は?」 「いっつも階段の一番目、踏み外してしまうので…」 どれだけ注意散漫…と言うより抜けているのだろうか。いつも階段を踏み外すなど聞いたことがない。 「ま、何も無くて良かったな」 「本当に、ありがとうございました」 少女がぺこりとお辞儀をすると、すみれ色の髪がふわりと揺れて広がった。 何か、すっげぇドキドキするんですけど…。 不意に早まった動悸に、作兵衛は左胸を押さえる。そこには。 「あ、そうだ」 「はい?」 「これやるよ」 今日学校で後輩からもらった、いちごのキャンディ。自分は食べないからと胸ポケットに入れていたのだ。 「甘いもんでも食ったら、落ち着くだろ」 「そんな、悪いです」 「いいっていいって。いちご味の飴なんて女の子の為に有るようなもんだろ」 その時、ぴるぴると大人しい携帯の着信音が鳴る。 「す、すみません」 その着信音に慌てて少女が携帯を取り出す。メールではないらしい。 「あ、先輩? え、直ぐにですか? あ、はい、大丈夫です。最寄の駅に来てますから。はい、はい、分かりました」 ぴ、とボタンを押して少女ははっと作兵衛を見やる。 「す、すみません」 「謝ってばっかだな」 「え?」 「さっきから。ありがとうかすみませんばっかりだ」 どうも気になっていた事を口にすると、少女は眉根を寄せて。 「すみません」 と、また謝った。 「まぁ、別にいいけど。それより、急ぎの用があるんじゃねぇのか?」 聞こえていた言葉を繋げると、急ぎの用にしか聞こえない。その事が優先事項と作兵衛が伝えると、少女は「あ」と大きく口を開けて。 「ごごご、ごめんなさい、助けてもらって…」 「いいって。それより行かなくていいのか?」 「あ、はい。あ、あの」 「ん?」 「ありがとうございました!」 ぴょこんと下げられた頭。その姿がどこか可愛い。 そうして少女はそのまま転げるように階段を下がると、角を曲がりその場所から消えていった。 残された作兵衛はその後姿を最後まで見送って、ぎゅっと胸の辺りを掴む。 何だか胸が苦しい。おかしい、風邪は引いていない。 そうして腕を見ると、少女が巻いてくれたハンカチが一枚。 「こんな傷、なんともねぇのに」 綺麗なハンカチだった。真っ白で、角の所には作兵衛が知らない花の刺繍がしてある。 血、ついたら落ちねぇだろうなぁ…。 そう思った作兵衛はそのハンカチを腕から取ると、綺麗に折りたたんで胸のポケットに入れる。その時ふわりと広がったのは石鹸の臭い。化粧品や整髪剤の匂いなんてしなかった。 「…………あ」 ハンカチ返さなきゃヤバイのに。 「名前、聞き忘れた」 自分の中で起こったあまりの色々な感情の起伏に、名前を聞くのを忘れてしまった。 手元には白いハンカチと、泣きそうな顔の思い出。そして、すみれ色の髪。 「……………」 どうすりゃいいんだろ。 突然吹いた季節外れの春風の名前を、作兵衛はまだ知らなかった。 君の色をした風が、今通り抜けて行きました。 春風の名前 −−−−−−−−−− 典型的少女漫画展開。書いてる私が笑い出しました。でもこれ、続くんです(大真面目)。 戻る |