それは、知らなかった君の声。





 バーゲンが嫌いな女の子はいない。
 そう言った人間は出て来い、と孫兵が呪いのように呟いた。
 複合施設の一角に三人の好きな店がある。美味しい焼き立てのパンをイートインできるパン屋だ。
 今日はのんびりそこでパンを食べた後、ゆっくり映画でも見ようか、なんて話していたのだけれど、創業記念祭だか何だか知らないが複合施設全体がイベントで盛り上がっており、その一つとしてどの店もバーゲンをやっていた。
 そうなると自然に人は集まる訳で、人込みが大嫌いな孫兵は爪をがじがじと噛む。それを見ながら藤内が「まあ、安いしね」と苦笑いを零した。
 藤内はバーゲンが嫌いではない。ただ、着る事の出来る服があればの話だ。スレンダー体型の孫兵は何を着ても似合うし、映える。だが、藤内は思いの外大きな胸が邪魔をし、中々サイズの合う服が無い。可愛いと思った服が着る事が出来ないと言う事は多々あった。
「でも、この場所を早く離れた方が良いのは確かだね」
 こう言った場所で、良い思いはした事が無い。
 お手洗いに行くと行った数馬が帰ってきたら、直ぐに帰ろう。
 パン屋のパンを食べられないのは残念だけれど、新しく出来たと言うカフェに行くのも悪くない。学校の友人達の話では、美味しいランチプレートがあるとの事。
 細く見えて量を食べる孫兵や、食べる事が大好きな藤内、そして作るのも食べるのも好きな数馬は様々な飲食店を回るのが好きだった。
 そんな事を思っていると。
「ねえ、彼女達」
 悪い予感はやっぱり当たる。
 流行の服に着られている男達に声をかけられた。
 これだから人込みは嫌いなのだ。
 人の集まる所に行けば、こうやって声をかけられる。それは、一重に孫兵と藤内の容姿にあった。
 孫兵は人形の様に綺麗だし、藤内は小動物のように愛らしい。
 タイプは違えど、どこに出しても、それこそテレビに出ようが雑誌に出ようがおかしくは無いレベルの「美人」であった。
 そんな二人が並んで立っている。しかも男の影は無い。そうなれば、お近付きになりたいと願う輩はわんさかいる訳で。
 この二人の通り名である「蛇姫」と「藤姫」の名前を知っているものなら、近くで見れたラッキー! と天然記念物扱いであるが、おそらくは二人の事を知らないであろう人間は声をかけてくる。
 勇気を出して声をかけて来る純朴な青少年ならそれなりにお断りをするが「趣味:ナンパ」のような男は放っておくに限る。あと、妙なスカウトや街角スナップだか何だか知らない「写真撮らせてくれませんか」からは逃げるに限る。
 二人にとっては日常茶飯事のその出来事にうんざりしながら、そのまま遠くを見た。
 それを見ていたのはお手洗いから帰ってきた数馬で、二人から離れたところで大人しく男達が去るのを待っている。
 妙な男が近付いていたら、自分達に近寄るな! とは二人の言葉だ。
 数馬は見た目とは裏腹に正義感の強い方である。昔は二人を助けようと頑張っていたが、あの二人に声をかける人間は数馬など眼中に無い。元々存在感が薄いのも手伝って数馬の声など聞こえない。
 それだけならまだしも、振り払われて怪我をした事も何度かあった。
 それ以来、あの二人は数馬に「近付くな!」と言って来たのだ。
 口惜しいけれど、二人に心配をかける訳にも行かず、溜め息と共に二人を見ていると。
「真っ直ぐだな!」
「まっすぐ!」
「目標は見えてるだろうが!」
 聞き覚えのある声。脇を通り過ぎる二つの影。まさかと思いつつ思わず振り返るとそこには。
「大丈夫か?」
 彼が、いた。





 ああ、もう面倒臭い。
 藤内は優しいだのなんだの言われているが、それは友人にだけで、自分に害を及ぼさない人間だけで、目の前の勘違いした男に真っ向から正論をぶつけてやりたいと心底思っていた。
 似合わない服を着て歩く勇気だけは認めますが、顔が視覚の暴力なので今すぐ家に帰ってください。
 いや、だがしかし彼らにも外に出る権利はある訳で。
 そんな事を考えている藤内の隣で、孫兵はと言えば苛々が頂点に来ていた。
 きっと数馬は自分達をどこかで見ている筈だ。後で合流できる。見たところ力勝負に出ても大丈夫だろう。
 逃げるか。
 そう思って逃げ道を探していると。
「ちょっと聞きたいんだが」
 聞き覚えのある声がして、思わずそちらを見る。
 その声は孫兵にとって第一級危険指定人物の一人。「アイスさん」から「さもんさん」に変わった、藤内が思いを寄せる人物。
 その声に二人の目の前にいた男達、そこで知ったのだが五人いた集団は「何だよ」といかにも不服そうな声をあげた。
「どうして、そんな妙な服で歩いているんだ? 髪の色は五人でグラデーションにしているのか? 女の子に声をかける趣味を悪いとは思わないが、鏡で顔を見た方が現実が理解できると思うぞ!」
 きらっきらの真っ直ぐな目で、藤内が思っていた「正論」を零した「さもんさん」に男達は顔を真っ赤にして「てめぇ!」とお約束の台詞を吐く。
 男達の視線から離れた二人をぐい、と引く手。
 それは、第一級危険指定人物その二の「軟膏男」。さんのすけと言う名前だった筈だが、孫兵はそう呼んでいた。
「お前…!」
「三十六計逃げるが勝ちって、言うよな?」
 二人の手を取り、するり、と男達から逃げ出してしまう。
「な!」
 それに気付いた男達が振り返るが、軟膏男の足は速い。あっと言う間に二人を人込みに連れ去ってしまう。それと同時に、正式には「喧嘩を売る」と言うべき正論を投げかけた「さもんさん」も姿を消した。
 狐につままれたか、或いは狸に化かされたか。
 気が付けば、そこには男達にすれば「上の上」の少女はいなくなり、自分達に喧嘩を売ったであろう男もいなくなり、ただ呆然とするしか出来なかった。





 まっすぐ、を繰り返しながら孫兵と藤内の手を取って走っていた軟膏男は、ぴたり、と待ち合わせ場所に使われる時計の前で止まった。
「どう言うつもりだ!」
 孫兵の言う事は最もだ。
 突然現れて、しかも手を引っ張って走り出すなんて一歩間違えば誘拐に近い。
 その言葉に軟膏男はこて、と首を横に傾げると「だって困ってだろう?」と目を丸くして言った。
 確かに困っていた。だがしかし、あしらえない程の人間ではなくて、助けてもらう必要なんて無かった。ああいう類は無視していればその内にどこかに言ってしまうのだ。
 苛々していたのは、藤内にちょっかいをかけている男に対してと、どこかで自分達を見ている数馬が心配で、別に自分をどうこうして欲しかった訳ではない。
 それを、この軟膏男は藤内や数馬なら言うであろう「王子様」な状態で自分達を助け出したのだ。だが、それにほだされる様な孫兵ではない。むしろ、苛立たしい。
「孫兵、助けてくれたのに、それはあんまりじゃ…」
 ああ、そうだった。厄介ごとは目の前の軟膏男だけではなかった。
 藤内は大人しくて優しくて小動物のように愛らしく見えるかもしれない。だが、本当の彼女は曲がった事が嫌いで喧嘩っ早い、さばさばとした少女だ。あの時だって、どうやって相手を打ち負かそうと考えていただろう。それをするとややこしくなるから黙っているだけであって、怯えていたわけではない。そこに現れた「さもんさん」は、見事に藤内が思っているかのような正論をぶつけてしまった。
 あれはきっと、藤内にとって「王子様」な状態に違いない。
 そう思っていると、真っ直ぐ!と唱えながら後ろからその「さもんさん」が軟膏男にぶつかった。
「お、左門」
「む、三之助」
 辿り着けたぞ! と二人はハイタッチを交わしている。
「作兵衛の言う通り真っ直ぐで間違いなかったな!」
「おお、まっすぐ、って言ってたら辿り着けたもんな」
 嫌な名前もう一つ。
 聞き間違え出なければ、第一級どころか超が付く程の危険人物の名前が飛び出ていた。おそらく、この危険人物達は三位一体で行動しているのだろう。
「あ、あの…」
 藤内がさもんさんに声をかけ、二人を見ると「ありがとうございました」と頭を下げる。孫兵はと言えば般若のオーラを纏って二人を見ているだけだ。
「可愛いと大変なんだな」
 軟膏男が自然にそう言った。そう、藤内は可愛いから色々大変なのだ。本当に本当に大変なのだ。
 孫兵が心の中で過去の思い出を振り返り心の中で愚痴ると、軟膏を男を見た。すると、ばっちりと視線が合う。
 藤内を見ている筈なのに、何故自分と目が合うのだろう。眉間に皺を寄せていると、今度はさもんさんが。
「とうないさんは美人だからな! きっと声をかけずにいられないんだろう」
 真っ直ぐな目でそう言う。
 何か違う「言葉」。
 その違和感を感じたのは、孫兵だけではなくて藤内も戸惑っていた。
「…美人って、俺?」
 藤内の一人称は、普段は「私」だが、親しい人間達や素に戻ると「俺」になる。田舎のおばあちゃんとの生活が長かったからだよ、と藤内は笑って教えてくれた。
「違うのか? とうないさんは美人だろう?」
「え、でも、美人って孫兵みたいな…」
 そう、美人と言うのは孫兵の事を言うのであって、自分ではない。藤内はそう思っていた。孫兵は美人で、藤内の憧れでもある。切れ長の目もさらさらの髪も白い肌もすらりとしたスタイルも、全てが藤内にとって憧れだった。
「え、まごへいちゃんは可愛いと思うけど」
 どこに突っ込むべきか。
 孫兵は一瞬言葉を失った。数回しか会った事の無い人間を「ちゃん」付けで呼ぶなと言うつもりだったが、可愛いと言う褒め言葉は藤内の為にある言葉であって、おおよそ可愛げのない自分には釣りあわない言葉だ。
 今まで「可愛い」なんて藤内か数馬くらいしか言わなかった。
 何を見ているのだろう。そう思わずにはいられない。
「何で、僕が可愛いんだ…」
 苦々しく呟くと、ん、と軟膏男は指差して「そう言うところ」と表情を変えずに言った。
 それは、孫兵のアクセサリー。きらきらとして可愛いブレスレットだが、一見すると普通の品物だ。だが、それは…
「女の子同士でお揃いって可愛いなって。それに、貰ったチョコも凄い美味しくて、ああ、やっぱり女の子って食べるものも選ぶんだなぁって」
 藤内と数馬とお揃いのブレスレット。ビーズで作られたそれが同じものだと気付く人間は少なくて、ちょっとした三人の秘密だったのに、それなのに、軟膏男は見抜いてしまった。
 投げつけた板チョコも、二人が美味しいとオススメしてくれたメーカーのもので、それは孫兵の中の少しだけの「お揃い」。
 見抜かれた恥ずかしさと、色んなものが綯い交ぜになって体が震えた。
「……あの、さもんさん…」
「何だ?」
「その、私、は美人ではないと思うんですが…」
 藤内がか細い声でそう言うと、さもんさんはぐい、と藤内に近付いて。
「真っ直ぐに立っている所とか、友達思いの所とか、凄く凛として美人さんじゃないか!」
 無邪気な顔でそう言った。
 きっと、軟膏男にもさもんさんにも「打算」や「上辺」と言う言葉は無い。それは、藤内だけではなく孫兵も分かっている。
 だからこそ、二人の言葉は強烈に心を揺さぶった。
「あの、それでちょっと申し訳ないんだが…」
 左門が明るく笑うと。
「迷子センターの場所を教えてくれないか?」
 その年齢で行くべき場所で無い場所の名前を口にした。





「無事だったか?」
 いつもは迷子センターを使うと怒る作兵衛だったが、この時ばかりは「迷子センター」を使えと言ってしまった。
 目下、左門と三之助が気にしている、と言うより初めて興味を持った女の子と言うべきか、ともかく、そう言う女の子があまり関わりたくない類の男達に囲まれているのを見て、二人は作兵衛を見た。きっと走り出したかったのだろう。それを作兵衛も分かっていて、迷子センターで俺の名前を出せ、と告げて「真っ直ぐに走れ」とアドバイスをしたのだ。
 案の定、間抜けに「富松作兵衛様」と呼び出されてしまって恥ずかしい思いをしたけれど。
「ああ、無事だったぞ」
「そう、真っ直ぐ走ったからな!」
「違う、お前らじゃなくてあの子達」
 この二人は何だかんだ言ってサバイバル能力には長けているので心配はしていない。それよりも囲まれていた女の子たちだ。
「ん、大丈夫だったぞ」
「なら良いけど…」
 お好み焼きが食べたいと突然叫んで、隣県にでも行き出しそうな二人の首根っこを掴んで複合施設のフードコートを目指していただけの三人。
 いつもと変わらぬ休日の筈だったのに、偶然巡り会った「蛇姫」と「藤姫」と呼ばれた女の子たち。そして、菫色の髪の少女。
 きっと、作兵衛達を知っている人間なら「お前達に何の奇跡が起こっている」であろう。特にホワイトデーに女子校の前でうろうろしていた男たちならそう言うに違いない。
 実際それは奇跡に近いのだが、そんな事三人は知らなかった。
 あの女子校の二大柱「蛇姫」と「藤姫」。そして、学園の七不思議の三人を一緒に見かけるなど滅多に無い事だ。いや、気付く事は出来るかもしれないが三人が「一緒」だと認識できる人間がほぼいないと言うのが正しいのかもしれない。
「作兵衛」
「ん?」
「あの子は?」
 三之助と左門が気にしているのは、きっと作兵衛と一緒にいた女の子。
 あの状況下なら、三人一緒に飛び出していった方が良かっただろう。そうすれば、迷子センターなど使わずに済んだ筈だ。だが、作兵衛は飛び出さなかった。史上最強の迷子コンビと呼ばれる二人を向かわせて、作兵衛はその場に留まった。
 そこに、不安そうな少女が一人立っていたから。
 三之助と左門に言わせれば、あの作兵衛が、女の子が苦手な作兵衛が「好き」になった女の子。
 作兵衛が女の子が苦手な理由は「何を考えているか分からない」のみだが、女の子とは基本的に距離を置く癖がある。だからと言ってクールで男前よね、等と言われてモテる類ではないので、大概男ばかりで行動していた。
「多分、大丈夫」
「多分?」
 珍しい。責任感の強い作兵衛が多分なんて言葉を使うなんて。
「時計広場にいると思うって言ったら、そのまま走って行ったから」
 ありがとうございました、と頭を下げて走る後姿。きっと、友達の事が心配だったのだろう。慌てて走り去る姿に、手を振ることしか出来なかった。
「そっか」
「おう」
「で、作兵衛」
「何だ?」
「顔、真っ赤だぞ」
 作兵衛は喜怒哀楽が激しい方だが、こんな表情は初めてだ。それを作兵衛自身も分かっているらしく、片手で顔を覆って。
「あの子……」
 ふわふわと揺れる菫色の髪。その髪を束ねていたのは淡い緑のシュシュ。ゆるりと横で束ねる髪に、見覚えのあるシュシュ。
 それは。
「俺が渡した髪飾り、してくれてた」
 それは服に似合うからかもしれないし、たまたま選んだのかもしれない。それでも、作兵衛が分からないなりに必死で選んだ髪飾りをつけていてくれたのは嬉しかった。
 見た目通りに純情な作兵衛。いつも一緒にいた自分達は知っている。
「あのさぁ」
 三之助がぽつりと。
「俺、もっとあの子の事知りたい」
 可愛いあの子。いっつも友達のことばっかり考えて、怒るのは自分の為じゃない、あの子。
 会う度に一つ一つと可愛いものを見つけて、気が付けばあの子のことばかり考えている。
「三之助もか。偶然だな! ぼくもだ!」
 左門が笑う。
 綺麗なあの子。いっつも前を見て、きらっきらの瞳をしたあの子。
 会う度にいつも綺麗だと思ってしまう。どんな事を考えているのか、話してみたいと思っていた。
「あの高校は、一筋縄じゃいかないだろうけどなぁ」
 ぼんやりと三之助が零した言葉は事実だ。きっと、あの高校を知っている人間なら「お前、ちょっと考えろ?」と真面目に人生相談に乗ってくれるに違いない。
 分かっている。自分達には不釣合いな人間だと分かっている。
 それでも、あの子達の事が知りたい。話してみたい。
 そして。
 ――笑って欲しい。
「作兵衛?」
 どうやら、声に出ていたらしい。作兵衛は慌てて口元を覆うと、菫色の髪の少女が走り去った方向を見る。
 二度と会えないなんて思いたくは無い。けれど、偶然は何度も起こる訳じゃない。
 自分達から動く事だって大切だ。
 分かっているのは、高校と下の名前。それから「蛇姫」と「藤姫」の名前。
 少しずつで良い。情報を集めて、がむしゃらに頑張れば、偶然と言う名の奇跡じゃなくて必然と言う奇跡が起こせるかもしれない。
 まずは、腹ごしらえ。それが終わってから作戦会議。
 迷子迷子と言われる二人だが、その行動力は並ぶものはいない。不安なんて無い。
 作兵衛が「行くか」と二人に声をかけると、二人はばらばらに頷いて走り出そうとする。
 前言撤回。不安だらけだが、やるしかない。
 自分達の勇気を試してみる時がやってきたのだから。
 そうして三人はその場所を後にした。





 今日の伊賀崎さんどうなさったのかしら?
 あら、それなら浦風さんだって。
 そんな優雅な声と一緒に「妙だよねぇ」と言う間延びした声や「絶対おかしいっしょ!」と言う威勢の良い声も聞こえる。
 女子校、と言うだけあって女子しかいないこの学校。だが、その全てが女子校を知らない夢見る人間が思い描く深窓の令嬢ではなく、ごくごく普通の女の子ばかりだ。確かに名前を聞くだけで平伏したくなるような血筋の女の子もいるが、ごきげんよう、とは言わないし、自動販売機でイチゴ牛乳と間違えてきなこ牛乳を買って落ち込んだりもする。もちろん恋の話だって当たり前だ。
 ただ、物凄く学校が由緒正しいとか何とかで、生徒から言わせれば「化石時代」としか言いようの無い校則が少女達を雁字搦めにしているだけなのだ。
 それ以外にあるとすれば「姫」制度かもしれない。
 学園で優秀な女子が自然と姫と呼ばれる事を、生徒達は姫制度と呼んでいた。例えば、合唱部の「歌姫」や剣道部の「剣姫」、成績優秀な「文姫」や勇猛果敢な「戦姫」等は創立当初からあると言われている。
 それ以外にやはり見目が綺麗な少女達は姫を名乗る事が許されていた。本人達がそれを望むこともあったし、是非に、と言われて名乗っている少女達もいる。
 孫兵と藤内は完全な後者だ。
 その時々によって、姫の名前は変わるので「花姫」や「彩姫」などいるが、孫兵の場合は「蛇姫」、藤内の場合は名前から取って「藤姫」と呼ばれていた。
 今現在、亜種と言うべき初代蛇姫と名前的には五代目になる藤姫の二人は学園内でも外でも有名で、生徒達の間で話題に上ることは少なくは無い。
 今日も、どこか雰囲気の違う二人に少女達は首を傾げていた。
 いつも凛々しい蛇姫が。
 いつも優しい藤姫が。
 物憂げに考え事をしている姿など、見た事が無かった。
 もしかして、恋かしら?
 楽しそうな少女達の声。
 恋とはどんなものかしら? そんな題名のクラッシックがBGMに流れそうだ。
 化石時代の校則では、もちろん不純異性交遊は禁止だ。多分、純粋な異性交遊も禁止されているだろう。それでも、彼氏のいる少女もいるし、目下片思い中の女の子がいるのも事実。
 そんな中、姫を名乗る少女達の恋愛は「ご法度」だった。だが、それは十数年前までの話で恋愛は自由な筈なのに、姫達は自分達が学校の名前を背負っている事を理解して、卒業までは恋愛をする事などなかった。
 姫が「恋愛」をしてくれれば、少しはこの学園の化石時代は終わるかもしれない。
 そんな願いと共に、少女達は孫兵と藤内の事を口にする。
 そう言えば、白日の乱の話、お聞きになって?
 知ってる知ってる! 蛇姫にプレゼント渡した男がいたって!
 藤姫が男に引っ張られて言ったって言う話じゃなくて?
 それ、両方ともホントみたいだよ。
 じゃあ、やはりその方を慕ってらっしゃるのかしら?
 きっと少女達が思い描くのは姫に相応しい王子様で、学ランのごく普通の学生ではない。
 それでもきゃあきゃあと恋の話をするのは少女らしく、その場に鮮やかな花が広がる。そんな自分達の事など話しているとは思わない孫兵と藤内がひょっこり顔を出し、それを確認した瞬間少女達はぴたりと恋の話をやめてしまった。
「あの、ごめん、数馬見なかった?」
「三反田さん? 三反田さんなら保健室に行くって言ってたけど」
「そう、ありがとう」
 クラスメイトの言葉を確認して、孫兵と藤内は保健室に足を向ける。その様子を見て、少女達はほっと息を付いた。
 この教室は数馬も含めた三人のクラス。確かに存在感が薄い所為で数馬の名前を覚えているのはごく一部の生徒だが、こうしてクラスメイト達は名前も顔も覚えているし慕ってくれている。
 六年間クラス替えが無いと言うのは、ありがたいことだった。
 ……あのさ。
 どうなさったの?
 白日の乱の時、蛇姫と藤姫ばっかり騒がれてたけど、私、見ちゃったんだよねぇ。
 何を?
 三反田さんが、いつものようにもみくちゃにされたのを。
 ああ…それは…でも、今回は怪我をされてませんでしたわよね?
 それがね、三反田さんを助け出した男がいてさ…ひょいって片手で。しかも何か紙袋を渡していたし。
 放課後は少女達の秘密の花園。
 恋の話は、いつの時代も秘密の花園で。
 化石時代の頃からのルールだが、それは「慎む」と言う言葉と同じ意味を持っている。
 小さく密やかに話を楽しむ少女達の後ろで、ふわりとカーテンが揺れた。
 姫に続いて乙女まで…ああ、どうしましょう?
 そう言う顔は全く困っていない。
 何かが変わる予感が、足音を立てて近付いてきていた。





 この学園には「姫制度」と同じくらい古い呼び名がある。
 「学園の七乙女」。他の学校では、おそらく「七不思議」と呼ばれるものだ。
 乙女と言っているが、それは何らトイレの花子さんや動く骨格標本と何一つ変わりは無い。しかし、そこは女子校マジックで素敵な物語を秘めた乙女達の話になっているだけだ。
 音楽室に理科室に地下室、校庭に階段に講堂。
 そして。
 七乙女の一人、尖晶石の乙女がいるのは――保健室。
 乙女は妖怪や幽霊の類ではなく、あくまでもこの学校の「生徒」の形をしているのだ。そして、名前に宝石の名を持つ。
 保健室は尖晶石―スピネル―。その名前を持つ乙女は、傷付いた少女達の心を癒す清らかで優しい乙女で姿が見えないと言う乙女だった。
 数馬の事を尖晶石の乙女と言い出したのは誰だっただろうか。
 少なくとも孫兵と藤内ではなく、もちろんクラスメイトでもなかった。先輩か後輩か、ともかく自分達とは遠い存在の人間だった気がする。
 保健室には尖晶石の乙女がいる、と。
 存在感の薄い数馬は人に忘れられる類で、保健委員会に所属する数馬が保健室に来た生徒達の相談に…と言うより、愚痴だのなんだのを聞く事が多く、それに的確な答えを出すけれど「誰」がその自分の欲しかった答え出したのか生徒は覚えていないのだ。
 だから、生徒達はその人間を尖晶石の乙女と呼んだ。
 クラスメイトや数馬の事を知っている人間は、数馬がその尖晶石の乙女だと分かっていたが敢えて口にしなかった。それを数馬が望んではいなかったし、乙女と言う響きが綺麗で「数馬っぽい」と孫兵と藤内が喜んだからだ。
 そんな数馬が保健室にいるのは当然の事だけれど、今日は当番ではない。それより何より気になるのは、数馬の事。
 帰り際、見たことの無い顔で手を振った数馬の事。
 今日は、選択した授業がばらばらで殆ど顔を合わせていなかった。だから、話を聞きたい。二人がそう思っても仕方ないだろう。
 確かに、孫兵と藤内は物憂げな顔をしていたかもしれない。
 それは、軟膏男とさんもんさんの所為と言うのも間違いではないではないが、やっぱり気になるのは友達の事。
 大事な、大事な友達の事。
 保健室のがたついた扉を開けると、古びた机の前に数馬が立っていた。
「数馬、帰ろう?」
 藤内が声をかけると、数馬は振り返って「ごめんね」と笑う。それが何に対してのごめんねか、二人は分からなかった。
「どうしたの、数馬。保健委員の当番代わったの?」
「ううん、今日は先生が来るから…それまでの留守番」
「じゃあ、一緒に待つよ」
 力技で扉を閉め、孫兵と藤内は保健室に入った。老朽化の進む建物は、重要文化財だか何だか知らないが耐震はしてあるものの基本的にがたついている。力技で押さえ込むのも嗜みの一つであった。
「数馬」
「何?」
 昨日、数馬は何も話さなかった。
 いつもの様にパンを食べて美味しかったね、と笑っただけだ。
 間違いなく「とまつさくべえ」に会えた筈なのに。
 迷子センターの場所を教え…もとい、案内した後、孫兵と藤内は時計広場に戻った。何と言うか、あの二人はGPSと言う文明さえ匙を投出したいほどの方向音痴で、案内した側から反対方向にしかもばらばらに走り出したのだ。案内した方が早いと気付いた孫兵と藤内は、手を繋ぐのが躊躇われてその袖を引っ張って二人を迷子センターまで案内した。
 その後、数馬が待っているであろう絡まれた場所に戻ろうとすると、友達は時計広場にいると思うぞ! とさもんさんが答えたのだ。
 作兵衛が一緒だから、と。
 慌てて時計広場に戻るとそこには数馬が立っていて、いつものように「大丈夫?」と困り顔で二人を待っていてくれた。
 そして流れたアナウンス。
 とまつさくべえさま、おともだちふたりをおあずかりしております。まいごせんたーまでおこしください。
 それを聞いた後、漸くさくべえさんが「とまつさくべえ」と言う人物である事が判明しただの。
 喜ぶと思っていた。
 控えめな、いや控えめに見えるだけで、実の所真っ直ぐで芯の強い頑固者の数馬…まあ、多少抜けているところは認めるが、その数馬が初めて「好きになったかもしれない」人の名前が分かったのに、それなのに数馬はその事に触れず「パン屋に行こうか?」と笑った。
 確かに自分達は少し浮かれていた。その事に気付かない位、どこか思いが飛んでいた。けれど、帰り際見せた数馬の顔は――泣きそうな顔をしていた。
「ねえ、数馬」
「ん?」
「昨日、あいつと会ったんだよな?」
「え?」
「とまつさくべえ」
 孫兵がその言葉を口にすると、数馬は眉間に皺を寄せる。
「あいつら、三人一緒なんだろう? 僕等を引き摺っていったあの二人、凄い方向音痴だったから」
「そうなの?」
「うん、すっごーっく、方向音痴。教えてあげても全く駄目だった」
 ゆるり、と藤内の顔が一瞬緩んだ。
 一つ知った好きな人の事。それが嬉しかった。
「…ああ言うヤツは迷子札付けとくべきだな」
 言葉は厭味だけれど、声に全く棘が無い。大嫌いな「男」の事を話しているのに。
 数馬はそれを聞いて。
「良かったね」
 ――聞いた事の無い声でそう言った。
「数馬、何があったの?」
「何も無いよ?」
 一瞬だけさもんさんに気を取られた藤内が、数馬の手をぎゅっと握る。
「数馬は嘘が上手だけど、自分に関しての嘘は一つも上手じゃない」
 孫兵が数馬を見た。
「例えば、誰かを安心させる為なら平気で嘘を付く。でも、自分の感情の嘘は凄く分かりやすい。それが、誰かの為の嘘ならきっと見破れないと思うけど、数馬の為の嘘は僕等には隠しても無駄だよ」
 何か、あったよね?
 孫兵の静かな声に数馬はひゅっと短く息を吸って、大きく吐いた。
「……友達じゃないか」
 大事な大事な友達。孫兵にとっても藤内にとっても、大事な友達。
 数馬は、ぎゅっと右手で拳を作る。
「店にね、凄く可愛いワンピースが飾ってあったんだ」
「うん」
「すごく綺麗な淡い緑色のワンピース。花の刺繍がしてあってね、レースとリボンが付いた」
「うん」
「孫兵が着たら凄く大人っぽく見えると思ったんだ」
「…そう?」
「うん。でもね、藤内が着たらとっても柔らかく見えると思ったんだ」
「…数馬」
「それ、見てたらね、さくべえさんが、可愛いなっていったの」
「ワンピースを?」
「うん。似合うのにって…」
 ふるりと数馬の唇が震えた。
「孫兵が着ても藤内が着ても、絶対に可愛いワンピースだったの。でもね、ぼくには到底入らないワンピースだったの」
 ゆるりゆるりと瞳の端が滲む。
「…ごめん、ね」
「数馬…?」
「まごへ、いや、とう、ないが、きれ、いだねって、いわれるの、きらい、なのしって、るけど、……っ」
 ぽたりぽたりぽたり。
「ずっと、ぼくも、ふた、りは、きれいだ、なって、おもって、て」
 ふるふると、手が震える。
「おこらない、で、ね? あのね、はじ、めて…まごへ…とと、ないになりた、いっておもった、の」
「何で!」
 多分、いや間違いなくとまつさくべえと言う男は、見てはいないがそのワンピースは「可愛い」から「数馬」に「似合う」と言った筈だ。
 淡い緑色は、確かに自分達も着る事がある。だが、あまり好んでは着ない。その色が数馬に一番似合うと知っているから。
 ホワイトデーのお返しに本気すぎるあの髪飾りをくれた男が、考えない筈が無い。きっと、自分達が選んでも同じものを選ぶだろうと言うあの髪飾りを選んだのだから。
 数馬は素直に褒め言葉を受け取れない。
 当たり前の褒め言葉を、褒め言葉と思わない。
 可愛いも優しいも偉いも素敵も、数馬の為の褒め言葉を自分のものと思わない。
 みんな同じでしょう?
 そう言う少女だった。
「まごへいやとうない、みたいに、きれい、になれ、たらって、おもった…ごめ、ん、ねっ、ごめん、ね……」
 怒られたと思ったのか、数馬は謝罪を口にする。その瞬間、顔がぐしゃりと歪んだ。
「でも、ね…だれにも、おもわ、れなくていい、んだ…でも、ね、あのひ、とには、かわいい、っておもわれ、たい……っ」
 しゃくりあげながらやや乱暴に右手で涙を拭う数馬を、孫兵は抱きしめる。
「まご…」
「謝るな!」
「え…」
「いいか、絶対に謝るな! 絶対に!」
 数馬が「可愛くない」、なんて誰が言った。
 そんな事、孫兵も藤内も、きっとクラスメイトも数馬を尖晶石の乙女と呼ぶ少女達も、言ってはいない。
 ただ、数馬の存在が薄いと言うだけ。そんな問題じゃない。
 問題は、自分達だ。
 「可愛い」と言われる事が悔しいけれど「嬉しい」と思えるくらい「美人」だと言われていて。
 「美人」だなんて言われただけで「嬉しい」と思えるくらい「可愛い」と言われていて。
 それが当たり前のように思っていた。
 不特定多数の誰かに言われる事が、当たり前に。
 それは、自分達の当たり前で、そして数馬にとっても当たり前になっていた。
 お友達、可愛いね。
 それは、藤内の事で。
 お友達、美人だよな。
 それは、孫兵の事で。
 いつだって側にいた数馬の事ではなかった。
 きっと、それを数馬に話せば数馬は「何か違うの?」と首を傾げるに違いない。
 悔しさで涙が込み上げてくる。
 どう言えば、伝わるのだろう。
 数馬は可愛いよ、と。
 数馬の肩に顔を埋めて、孫兵は静かに泣き始める。
 もっと、言えば良かった。友達の事を見ない相手なんかごめんだと。側にいて守ればよかった。藤内を引き寄せるように、数馬を引き寄せれば良かった。
「孫兵…」
 孫兵と数馬をゆるりと抱きしめて、藤内が震える声で名前を呼ぶ。
「探そうよ、…」
 誰を、とは藤内は言わない。
 孫兵が感じたものを藤内も感じ取っていたのだ。
 悪いのは、自分だと。
 藤内の言葉に、孫兵は力強く頷く。
 あの男は違った。
 自分達じゃない、数馬を見た。数馬を助けてくれて数馬に似合うものを探してきてくれた。
 数馬を守ってくれた。
 きっと、あの男なら大丈夫。
「まごへ、とうな…ごめ…ごめ、な、さ…」
 二人を泣かせてしまった事に気付いた数馬は何度も言葉にならない「ごめんね」を繰り返す。
 きっと、さんのすけさんは、孫兵を大事にしてくれる。
 きっと、さもんさんは、藤内を笑顔にしてくれる。
 大切な友達を、守ってくれる。
 今は、自分の事を考えている場合じゃない。
 探そう、あの人たちを。
 可愛い、なんて言われなくても、それが今まで当たり前だったから。
 数馬の思いを知る事等出来ない。
 孫兵の思いを知る事は出来ない。
 藤内の思いを知る事が出来ない。
 それでも、流した涙は同じ友達の為の涙。
 誰もいない古びた保健室。響くのは小さな嗚咽と謝罪の声。
 知らなかった、友達の声。
 三人はばらばらに、けれど同じ場所を目指して進む事を自分の心の中で強く強く願った。





 少年達の勇気は、小さな覚悟。
 少女達の涙は、大きな一歩。


 ――小さな世界を変えるのは、ほんの少し大人になる事と気付くのはいつ?







少年達の勇気、少女達の涙










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