何か、心の中が面白くなくて。
 何か、いらいらして。




 それでも、ここにいるのは。






「数馬、いる?」
 医務室の戸を開けたのは、鶯色の忍び装束。その首には赤い蛇が巻きついている。
「どうしたの、孫兵」
「いや、ちょっと解毒剤が無いかなぁって」
「え、何かに噛まれたの!」
「違う違う。ちょっとばかり毒虫がねぇ…」
「ああ、また逃亡したんだ」
「うん。一応、捕まえたんだけど、それで、…その、手持ちが切れてしまって」
 微妙な笑みを浮かべる孫兵に、数馬は明るく笑った。
「ちょっと待ってね。何種類か出すから」
「頼む」
「数馬ぁ!」
 ぱん!
 また医務室の戸が開いた。
「左門?」
「なんか、すごい血が出た」
 左門の手からは、だらだらと血が流れている。
「ちょ、どうしたの?」
「紙で切った!」
 豪快な性格は、怪我にまで関係するらしい。たかが紙で、とは言えない血の量だ。
「うわ、どうしよう!」
「僕は後でいい」
「ごめんね、孫兵。ほら、左門見せて?」
「うん!」
 数馬は慌てて救急箱を持ち出すと、その中から止血剤と油紙と包帯を取り出した。
 この救急箱は、最近数馬が持ちだしたものだ。伊作が持っているのだから、保健委員が愛用の救急箱を持っていてもおかしくは無い。
「数馬は治療が上手だな」
「それは、保健委員だからね」
 てきぱきと薬を塗り、油紙を傷口に当てると、くるりと包帯で巻く。そうすると、左門は嬉しそうににっこりと笑った。
「数馬」
 すぅっと扉が開く。
 今日三度目の鶯色は、数馬もよく知り、そして先ほどから鶯色で染まっていく医務室内で眉根を寄せてみている左近も知っている人物。
「藤内」
「藤内! どうした!」
「左門! ごめん、治療中だった?」
「ううん、大丈夫だけど。急ぎ?」
「霞扇の術の練習用の薬を調合してもらえないかと思って」
 今日の三年は組の実習は、霞扇の術だった。自主練習をしたいのだろう。練習用の薬はそれなりに渡してもらっているが、無くなったらしい。
「え、ぼくでいいの?」
「うん」
「伊作先輩ほど上手くないよ?」
「でも、作れるだろう?」
「まぁ、一応は」
 数馬の薬の調合の腕はめきめきと上がっている。低学年しかいない保健委員を心配してか、伊作が教えているのだ。それは、左近にも言える。
「少し時間がかかるけど」
「大丈夫。待ってるから」
 そして、今日最後と思われる…
「数馬」
 泥だらけの鶯色が二人、保健室に転がり込んできた。
「作ちゃん、三之助」
 今日はどこまで行ってたの?
 数馬にとっては日常と化してきているこの二人の来訪に、驚く素振りも無い。そこに左門が加われば学園名物のトリオの出来上がりである。
「今日は未然に防いだ」
 作兵衛は三之助の首根っこを掴み、ずるずると数馬の前まで行った。
「この馬鹿が顔面から滑り込んで、なんか鼻血が止まらない」
 そう言う三之助の鼻には、詰められた手ぬぐいを裂いたもの。応急処置はしたが、あまりにも止まらない為、医務室まできたと言う。
 群れを成す鶯色。
 この医務室は緑色専用か!
 左近は薬箪笥の前で、ごりごりと薬草を粉にしながら眉間に寄せた皺を寄り深くした。
 六年生がなんだかんだ理由をつけて医務室に来るのは、いいとしよう。それぞれの湯呑が常備されているのも、理解しよう。左近はまだ二年生で、同級生の絆云々はまだそんなに分かっていないから。それで医務室内が緑色になるのも見慣れた光景だ。
 だが、ここ最近、数馬が当番の日に新しい緑色が増えるようになった。三年生の面々だ。かすり傷等でくる事は無いが、それぞれが理由を持って現れる。まるで、数馬に引き寄せられるように。
 面白くない事、この上ない。
 鼻血を出した三之助の具合を見ながら、治療をする数馬。それを見ている作兵衛。笑っている左門。孫兵と藤内はあれでもないこれでもないと話をしている。
 ごりごり、ごりごり。
 基本的に一つ違いの学年は仲良くは無い。実際、自分と井桁模様はあまり仲が良くなかった。それでも自分が先輩だと思えば、我慢できない事は無い。乱太郎や伏木蔵と話が出来るのは、一重に自分達が保健委員と言う不運な絆で結ばれてるからだろう。
 そんな関係の筈の先輩後輩の中で、数馬との関係は異質だった。
 自分より一学年上の保健委員。巻き込まれるタイプの自分と違って、影が薄いと言うわけでもないのに、よく人から忘れられると言うタイプの不運だ。
 その所為だろうか。不思議と、数馬と対立しようと言う気は起きない。むしろ、絶対に覚えていようと言う思いが強い。
 あれは、左近が一年の頃だ。
 不運が集まると言う保健委員会に何故か所属してしまった自分を呪っていたが、伊作と数馬と言う先輩を得て、一週間でその感覚は麻痺した。
 二人ともとても優しく、温かく。自分の力量に天狗になっていた左近を煙たがる事がなく、ありのままを受け止めてくれた。特に数馬は初めて出来た後輩が嬉しかったのか色々教えてくれたり、事ある毎に左近、左近と世話を焼いてくれていたのを覚えている。そんな先輩が鬱陶しいと感じたのは最初の頃。あれは、いつだっただろうか。自分が当番でなかった日、忘れ物を医務室に取りに行くと、泣いていた数馬と頭を撫でていた伊作を見てしまったのだ。
 (誰も、覚えてくれないんです)
 (大丈夫、僕は覚えてるよ)
 (でも、先輩が卒業したら…)
 (きっと、違う誰かが数馬を覚えてくれるよ)
 (そんな事…)
 (数馬が六年生になる頃には、きっと傍に誰かがいてくれる)
 (………)
 いつも笑っている人たちだったから。特に数馬は自分に対してはとてもよく笑いかけてくれたから、泣いている所なんて初めて見た。まさか、その程度の事で悩んでいるとは、知らなかった。
 忘れられると言う事。それがどんなに辛いものなのか、あの時の左近には分からない。今の左近でも分からないのに、一年前の左近が分かる筈も無い。
 けれど、その時から、何故か数馬を忘れまいと思ったのは確かだ。
 自分だけが覚えている。それは、どんな事より誇らしかった。自分だけ。自分だけが数馬を忘れない。伊作が卒業しても、数馬が卒業するまで自分はいる。
 それが、どうしようもなく嬉しかった。
 それから、一年。数馬と時間を共に過ごすのが一番多かったのは左近だ。当番が一緒だったと言う事もあるが、数馬が当番ではない日でも数馬は医務室にいてくれた。
 それなのに、この状況はどうだ。
 ここ最近、見慣れた萌黄色ではなく鶯色の面々がこの医務室にやってくる。怪我をしたり、具合が悪かったりするのはしょうがないが、数馬がいる日に限ってやって来る。伊作はそれを微笑ましく見つめていたりするのだが、左近にとっては面白くない事だった。
 今まで見向きもしなかったじゃないか。
 あまり摩擦熱を加えちゃいけないよ。伊作にそう言われていたのに、手の中の乳鉢は熱を持ち始めている。
 今日は数馬と左近が当番で、久しぶりに二人で話が出来るかな、なんて思っていたのに。
 それなのに、この鶯共が!
 じぃっと半眼で見ていると、くるりと数馬が振り返った。
「左近?」
 どうしたの、なんて聞いてくる数馬に答えられる筈もなく、別にと背を向けると丸くなって乳鉢を抱え込む。
 今まで僕と伊作先輩だけだったのに、何で、今更。
 面白くない。物凄く面白くない。
 乱太郎や伏木蔵なら我慢できるけど、この鶯色の面々は我慢できない!
「左近」
 駄目だよ。
 そっと添えられる手。
「え…」
「そんなに力入れてたら。ほら、お茶淹れたから、これ飲んで落ち着いて?」
 ことんと置かれるのは、さこん、と名前が入った湯呑。
「で、でも、数馬先輩が忙しいのに」
 お茶なんか…
 何で自分の気持ちとは正反対の言葉が出てくるのだろう。本当は、自分の事をきにしてくれて嬉しいのに。はたと周りを見れば、鶯色の面々がずーっとお茶を啜って自分を見ている。
 あー、もう、こんちくしょう! 気に入らないったら気に入らない!
「分かりました。数馬先輩が落ち着くまでここで待ってます」
「え?」
「皆さんの治療が終わったら、数馬先輩と一緒に飲みます」
 医務室は用がなければ、退室。その規則を守らないのは六年生だけで十分。
 これ以上増やしてたまるか!
 左近の台詞に、じっと左近を見たのは用具委員の作兵衛。ちなみに、この憎らしい救急箱は彼のお手製である。
 多分、一番厄介なのはコイツだ。
 左近はにっこりと笑いながら、一年生と戦うべきじゃない。戦うべきは三年生だと心に強く刻む。しかし、それを覚られる程、左近は馬鹿ではない。
 どうやって排除していこうか。
 これ以上医務室が緑色で埋まる前に、なんとかしなければ。
 色々と画策をしながら、ただ、すみれ色の髪が揺れる後ろ姿を見ていた。






 
 それは、独占欲と言う名の。







たからもの










−−−−−−−−−−
何をとち狂ったのか、書いてみた左近→数馬。需要供給を一人でこなしております。
たーのしー! 下級生書くの楽しすぎる。
ちなみに、左近はまだ数馬の性別を知りません。
知ったら、初恋になるのは確定です。
そして、用具委員を敵視すればいいんだ。あと、三之助も気に食わなければいい。



戻る