知らなかったのは、きっと自分だけ。 自分だけに秘密だった。 そうだよね? ねえ、兄さん…… 【市場に行こう 3 追いかけてきた悪夢】 「ん………」 目を開けようと試みる。 しかし、瞼は重く目を開けることが出来ない。 その上体は重く、全身が鋼になったようだった。 「兄さん?」 傍で、がしゃん、と金属の擦れる音がして。 「アル……?」 エドは、ようやく搾り出せた声でその名を呼んだ。 「オレ……」 辺りを見回すと、そこは宿屋のようで。 起き上がろうとして右手に力を入れると、そのままアルに肩を押さえられベッドに縫いとめられる。 「駄目だよ、兄さん……熱、出てるから」 「え?」 「覚えてないの?」 「何を?」 「……兄さん、司令部で倒れたんだよ?」 あの後。 そう、連続婦女暴行犯を捕らえた人間に対して暴言を放ち、ロイに戒められたあの後。 呼吸困難に陥ったエドは、そのまま意識を失った。 「そっか……オレ」 時間の感覚はよく分からないが、意識の途切れる前のことを思い出し、エドは再び目を閉じる。 連続婦女暴行事件が解決して。 ロイに会い。 犯人を捕まえたと言う少佐に会い。 ハボックに会い。 少佐を侮辱して。 ロイに戒められ。 そして。 「……あー…治ったと思ってたのになぁ……」 人事のようにぽつりと、エドはそう零した。 「……しょうがないよ。出ちゃったものは、さ」 「まあ、そうなんだけど……」 エドは掠れた声で、ゆっくりと喋る。 どうやら、かなり体全体がだるいらしい。 「兄さん、……ゆっくり寝ればきっと治るよ」 だから。 アルはエドが起き上がろうとしてずらしてしまった布団を直すと、優しい声音で。 「寝てなよ。今は……」 そう、エドに向かって言った。 「ああ、そうだな……」 その言葉に、エドはぎこちない笑みを返す。 そして、ゆっくりと目を閉じた。 ……規則正しい寝息が聞こえてくるのに、そう時間はかからなかった。 それを確認して、アルはそっと立ち上がり部屋を後にする。 何時間も留守にするつもりはなった。 今の状態のエドを一人になってしたくはなかった。 それでも、昨日の事を話さなければ。 既に、エドは一日以上眠っている。 これでもマシになったほうなのだ。 一日で済むなど。 それに、アルが傍にいただけで落ち着くなど。 「……行かなきゃ」 アルは、きゅと拳を作って前を向く。 きっと。 優しい人たちだから、きっと心配している。 目の前で倒れた、エドの事を。 「……本当のことなんて、話せないけど」 閉めたドアの前でぽつりとアルが零した言葉は、誰にも聞かれる事無く、そのまま空気に溶けて行った。 知っていたのは、ほんの一部で。 全部なんて、知らなかった。 忘れたかったのかもしれない。 あの時の、拒絶を。 「全く、厄介な話だな……」 「すいません……」 東方司令部、ロイの執務室に通されたアルは、エドの症状について一通りその部屋の主に話したのだが。 やはり、難しい顔をされてしまった。 「君が悪いのではないよ、アルフォンス君」 「…まさか、エドワードが不安神経症だったとはな」 ロイの机の隣に控えていたハボックが、ぼりぼりと頭を掻く。 「そう言うんですか?」 「まあ、そう言う病気だ。極度の不安……この場合連続婦女暴行事件だな、それが引き金になり精神が不安定になっていた、と考えるべきだろう」 「あいつ、人一倍神経図太そうなんだけど…」 「昔……」 「ん?」 「昔、リゼンブールで婦女暴行事件があったんです」 「え…?」 「それで、ボクらの事可愛がってくれてた近所のお姉ちゃんが被害にあって……」 それは、遠い記憶。 子供だった自分達には、縁の無かった話。 内乱の傷跡はあったものの、それなりに平穏な日々を送っていたリゼンブールで突然起こった事件だった。 栗色の髪の、女性だった。 年の頃は17、8。 人目を引くような美人ではなかったけれど、愛嬌のある可愛らしい女性だった。 エルリック兄弟やウィンリイを可愛がってくれた人。 その人が。 ……婦女暴行の被害者になってしまったのだ。 第一発見者が、エドとアルとウィンリィの三人で。 あの時、ウィンリィは泣き叫んでいたし、エドは何も言わなかった気がする。 ただ、何かを我慢するかのようにじっと下を向いて。 アルはまだ、本当に子供だったから。 何もわからず、泣いているウィンリィと女性が泣き止む方法を考えていた。 「……お姉ちゃん、ずっと泣いてて……ウィンリィもずっと泣いてて……」 「エドワードは?」 「ずっと黙ってました……」 「…そうか」 樫の机に肘を突き顔の前で手を組むと、ロイは目を伏せる。 「ある種のトラウマ……か。それで、あんなに連続婦女暴行事件を……」 「多分…」 「それにしても、カールにまで文句を言うのはどうかと思うぜ?」 「……捕まらなかったんです、犯人」 「え?」 「その暴行事件の犯人捕まらなくて……結局」 軍部の人間は確かに捜査をしてくれた。 けれど、結局その事件は「迷宮入り」に。 「だから、兄さん……」 「軍部もその点に関しては、憎いって訳、か」 「はい……」 「アルフォンス君も私達が憎いのかい?」 「……ボクは、いろんな意味で子供だったから。よく覚えてないんです。兄さんやウィンリィもあれからその話題は口にしないし。だから、その事件に関してはあんまり記憶が……だから、その事件そのものよりも」 アルはあまりはっきりとその事件を覚えていない。 それよりも、その後にあった… 「お姉ちゃんが自殺したことの方が、辛いかな」 「え?」 「……ボク、あの時兄さんが大佐達に言った言葉…確かにひどいな、と思うんですけど……分からないわけじゃないんです。兄さん、言ってたから。どうしてって。お姉ちゃんは悪くないのに、どうして周りはいろいろ言うんだって。どうしてそんなに自分は傷物だって思い込まなきゃならないんだって……」 泣いていた。 珍しく、エドが泣いていた。 死んでしまった女性を目の前にして。 どうして、と何度も連呼しながら。 「兄さんが泣いている理由が、今なら分かります……だから、ボクは軍部云々より犯人が憎い、です」 「そうか……」 「君達、リゼンブールの出身なのかい?」 ハボックの隣に控えていたカールが、ふと口を挟む。 「はい……」 「じゃあ、あの時の事件の事なんだね…」 「シェスター少佐、知っているのか?」 「ええ、後味の悪い事件でしたから。5年前、だよね?」 「はい」 「僕、前にリゼンブールに赴任してたんですよ。一ヶ月くらいでしたけど。……その時、ちょうど起こったんです」 眼鏡の奥の目を細めて、カールは眉間に皺を寄せた。 「ひどいものでした。女性は事件の後身篭ってしまって……陰口に戸は立てられませんから。それで、服毒自殺を……」 悲惨な話である。 今回の事件は、女性達の体や心に傷を残したけれど、体に引きずるような大きな代償は残していなかった。 5年前、リゼンブールで起きた事件はもっとも悲惨な一例と言ってもいいだろう。 「鋼のは、ずいぶんと辛いものを見てきたんだな…」 「ええ……」 「でもさ、それが理由にしたって俺たちに触るなって、お前言わなかったか?」 「はい。兄さん、あの状態になると……ホントは、ウィンリィにしか触られたくないみたいなんです」 「へ?」 「過呼吸って言うんですか?あれが出てくると、特定の人間以外に触られると状態が悪化するんです」 アルは淡々とそう語る。 その裏側にあるものを知るものは、おそらくその場所にはいない。 「多分、神経がかなり過敏になってるんだと思います」 「…しかし、そんな状態で国家錬金術師など…」 「治ってたんですよ」 「え?」 「治ってたんです、本当は。大佐達と会ってから、一度も出たことが無かったのに……」 「…やはり、この事件か」 「ええ、多分」 連続婦女暴行事件。 それは、エドの幼い頃のトラウマを引きずり出したのだろう。 「それで、治りそうなのか?」 「大丈夫だとは思うんですけど……ちょっと様子を見てみないと」 昔はまだひどかった。 熱もまだ高くて、二日くらいずっと眠ったままでいた。 ……アルでさえ、拒絶したこともあった。 それほどにひどかったのだ。 「でも、意地でも治すと思いますよ、兄さん」 こんなところで止まるわけにはいかない。 それは、アルもエドもわかっているから。 だから、きっと。 「……治ったら、ここに連れて来なさい。一度、カウンセリングを受けさせてみよう」 「…お願いします」 精神の問題なら、それはきっと心の奥深くにある。 アルは、軍部の人間の申し出に感謝して軽く頭を下げた。 「まさか、な……」 真っ暗な部屋の中、エドの声を聞くものはいない。 ただ、静かに降る雨の音に同化して声は消えていく。 遠い遠い記憶の中にある風景。 泣いている大好きな女性。 泣いているウィンリィ。 困っていたアル。 そして、何も出来ない自分。 何も出来ない子供の自分。 自分。 自分。 「………っ」 ぐ、と胃の中の何かが競りあがってくる感触。 毒を飲んだと言う女性は、笑っていた。 もう辛いことは無い。 そう言っているかのように。 それでも。 「なんで、逃げたんだろうなぁ……」 死と言う形で、全てを閉ざしてしまったのだろうか。 分からない。 分からない。 分からない、筈なのに。 思い出したくない。 塗り固めてしまった心の中で、沈めた記憶。 出てくるな。 これ以上。 嫌だ。 これ以上傷つきたくなんて無い。 忘れたい。 思い出したくない。 あんな光景。 あんな痛み。 笑って死んでいった女性。 思い出したくは無いのに! 「……潮時、か」 時は迫っているのだ。 過去との決別。 抱えて置けなくなっているのかもしれない。 否、起爆剤が投下されたのだ。 忘れたかったのに。 こんな時ばかりは、エドは自分の記憶力の良さを呪いたくなる。 忘れない。 忘れるはずが無い。 間違いなく。 間違えようも無く。 あれ、は。 「……畜生」 エドは鈍さを残す体を起こして、かけてあったコートを取る。 緩慢な動作でそれに腕を通すと、ベッドを抜け出し宿屋を後にした。 辺りは真っ暗だった。 もう少し早く帰れると思っていたのに。 アルは嘆息を一つ付くと、長い廊下を歩いてロビーに向かう。 煌々と明かりが照らされている軍施設内とは違い、外は闇を孕み空から大量のしずくを零していた。 「雨、か……」 早く帰らないと。 自分の姿を探して、エドが宿を飛び出してしまうかもしれない。 そう思った矢先。 ロビーに、見覚えのある姿。 金色の髪に、赤いコート。 がしゃん、とアルが立てた金属音に気が付いたのかこちらを向く。 「アル?」 「兄さん!?どうして、ここに!」 がしゃん、がしゃん、がしゃん! 足早にエドに近付くと、アルはその肩を掴んだ。 「こんなところにいたら、熱が上がっちゃうよ!それに……発作でちゃうよ!」 「構わねぇ…」 「構わなくないよ!」 まだ熱が下がっていない体。 荒い呼吸が、アルにそれを教えている。 ただでさえ、危ないと言うのに。 エドの発作がどれほどひどいものか、アルは嫌と言うほど分かっている。 ひどくなれば、命さえ危うい。 「帰ろう?兄さん…」 エドの視界を塞ぐ様にしてエドの前に立つと、アルは震えた声でそう言った。 こんな場所において置けるわけが無い。 こんな場所にいたら。 このまま、この場所にいたら。 「…アルフォンス君?」 不意に、声をかけられた。 「ホークアイ中尉…」 「大佐との話は終わったの?」 「ええ…それは」 書類を片手に持ちアルフォンスを見上げるようにして、ホークアイは微笑む。 「そう。それなら早くエドワード君を連れて帰りなさい。外はもう暗いから」 はい。 アルがそう言おうとした瞬間。 「ホークアイ中尉」 アルによって視界を遮られていたエドが、不意に声を発する。 「兄さん?」 「エドワード君…昨日、倒れたばかりなんでしょう?早く帰った方が得策よ?」 ゆっくりとアルの体を押しのけて、ホークアイを見上げると。 「カール・シェスター少佐…いるよね?」 「ええ……」 「今、どこ?」 「大佐の執務室にいると思うけど……?」 エドは確かに言った。 カール・シェスター少佐、と。 探しているのは、ロイでもハボックでもない。 あの、犯人を逮捕した……。 「そう、ありがとう」 ホークアイの言葉を聞いて、エドは軽く手を上げるとそのままロイの執務室に向かって歩き始める。 「駄目だよ、兄さん!」 危ないから。 今の兄さんは危ないから。 アルフォンスが慌てて後を追って、その右肩を掴んだ。 「駄目だよ、兄さん!帰ろう?」 「……アル」 「何?」 「お前、帰ってろ」 「は?」 「お前、先に帰ってろ」 「……っ、そんな事出来るわけないじゃないか!」 熱がある状態の病人を一人置いたままで、帰れるわけが無い。 それに、エドは。 エドの体を襲っている発作の原因は。 「お前には、聞かせたくない」 「何を!」 「……お前には、聞かせたくないんだ……」 ゆっくりと俯いて。 エドは搾り出すように、そう言った。 「兄さん…?」 「頼むから、お前は聞かないでくれ……」 切実な思い。 いつもよりトーンの落ちたエドの声が、それを物語っている。 「何を聞かせたくないんだ、鋼の?」 突然振ってきた声。 その声に、エドは弾かれた様に顔を上げる。 そこには。 「大佐……」 「昨日倒れたばかりの病人が雨に濡れて、何をしに来た?」 ロイと、ハボック。 そして。 「ちょっと、大佐の後ろの人に確認を取りにね」 エドの視線はカールに向かっていて。 「確認?何のだね」 もう限界だ、とエドの中の何かが告げる。 これ以上は持たない、と。 壊れてもいい。 どうなってもいい。 それでも。 前に進むためには。 前を向いて進むためには。 「カール・シェスター少佐……あんた、さぁ…昔、リゼンブールにいたことがあるだろ?」 「ああ、あるけど?」 喉の奥が焼けるように熱い。 まるで、その言葉が飛び出すのを防ぐかのように。 けれど、エドは。 じっと前を見て、言い放った。 「あんた、その時、……女、強姦してるだろ?」 わすれない。 ぜったいにわすれない。 このいたみを。 そのかおを。 そのかおりを。 このからだにきざまれたきずを。 わすれない。 ……わすれたい。 たすけて。 たすけて。 たすけて。 もう、やだ。 おんなになんてうまれるんじゃなかった。 ……もうかえれない。 もう、にげられない。 このからだは、きずものだから。 けがされて、しまったから。 |