ここが、どれ程辛い場所でも。
 遠くに飛べた方が、幸せでも。
 ここにいたいと願うのは。
 ここで生きたいと願うのは。



 ここに、大切なものがあるから。





 【天国より野蛮 7 ここが天国じゃなくても】





「ボクには、人間の体なんてないから…」
 ラッセルは、二の句が継げないでいた。
 目の前には、がらんどうな鎧。
 中に人が存在していたと思っていた、がらんどうな鎧。
 闇を孕む鎧の中身は、空洞で。生きている人間、生きている何かはそこに存在していなかった。
 ただ、がらんどうな鎧だけが。
「お前……」
「……だから、ボクは泣けない」
 泣く事が出来たら、どんなに良かっただろう。
 泣き叫ぶ事が出来たのなら、この心の中にある感情を吐き出せたのに。
 溜まっていく、この感情を。
 いつだって、飲み込むことばかり覚えた。
 それは、おそらくエドワード以上に。
「ねえ、ラッセル」
「……」
「前に、僕らは君の事を訴えないって言ったよね」
「……ああ」
「……僕の姿は、自分達が犯した罪の証。贖えない、罪の」
「アルフォンス……?」
「自分の罪も許せてないのに、他人の罪なんて許す許さないの問題じゃないよ」
 がらんどうな鎧。
 なかには、ぽっかりとした空洞だけが広がる。
 エドワードの機械鎧。
 アルフォンスのがらんどうな鎧。
 錬金術師が二人。
 対価と思われるそれ。
 賢者の石。
 生命の水。
 繋がる場所は。
「……人体練成!」
「そう、失敗したけどね。兄さんは、左足を僕は丸ごと持っていかれた」
「でも、お前はここにいるじゃないか」
「…兄さんが、自分の右手と引き換えに連れて帰ってきてくれたんだ」
「連れて、帰る?」
「そう。きっと僕らに分からないもの場所で分からないものを見たから兄さんは両手を合わせただけで練成が出来るんだ」
 ラッセルは真っ赤になった目でアルフォンスを見る。
 自分達を決して訴えないと言ったアルフォンス。
 自分の罪ではない罪を抱えて叫んだエドワード。
 不意によみがえるのは、あのヒューズと言う名の軍人の声。
『……まあ、エルリック兄弟を騙ったんならそれくらいの覚悟を持たなきゃな。あいつらに合わせる顔は無いと思うぜ?』
 この二人の名前を名乗るという事。
 それが、どれほどの罪を一緒に名乗る事だったのか。
 ラッセルは今更思い知らされる。
 ぽた。
 止まったはずの涙が再び零れ落ちた。
 誰への謝罪だろう。
 目の前のアルフォンスか。
 遠い記憶になる女性か。
 叫んだエドワードか。
 この二人を慈しんで来た全ての人々か。
 自分勝手な怒りでたくさんの人を傷つけ、冒涜した。
「……ラッセル」
「悪い………ホント、悪い……」
「泣かないでよ」
「……………っ」
 がらんどうの鎧が背中を撫でてくれる。
 その度に涙がボロボロと零れていく。
 罪と罰はいつも隣り合わせで罪を犯すなら罰が当然だと思っていた。
 違う。
 罪はいつも一人歩きで、パズルが合わさった時にだけ罰が下るのだ。
 そんな風に世界は成り立っているのだ。
 自分だどれだけ理想論者であったのか、ラッセルは漸く思い知る。
「……………でもね、ラッセル。ありがとう」
「え?」
「ラッセルがあそこで怒ってくれなかったら、ボクは一生兄さんの心なんて知らなかったと思うから」
 がしゃん。
 兜を被り、表情のないはずの面が、一瞬笑ったような気がした。





「あれ?オレ、なんで寝てるんだ?」
 エドワードはソファの上で起き上がり辺りを見回す。
 そこには少し凍りついた軍部の面々がいた。
「大佐、オレ、何で寝てんの?」
「………それは、だな」
「ラッセルの野郎と喧嘩して……それから」
「疲れがたまってたんでしょう。一段落してそのまま寝てしまったわ」
 何事もなかったかのようにホークアイが近付きエドワードの肩を叩く。
「そっか?そうだっけ?アルが来てそれから…」
「……直ぐに眠ってしまったのよ」
 あんな事は思い出さなくていい。
 あんな事は、知らなくていい。
 自分が吐き出した言葉なんて知らなくていい。
 それを知れば、エドワードが壊れてしまうような気がしたから。
 ホークアイは、実際その場所にいなかった。
 その場所にいれば、有無を言わさずラッセルを止めていた筈だ。
 女性が、聞くに堪えられない言葉だったから。
 あの後、直ぐにロイはホークアイに全てを告げ、そこにいた全員はホークアイに怒鳴られた。
 何故、止めなかったのかと。
 開かない傷口を膿ませてしまったのかと。
 そういわれても後の祭り。
 原因であるラッセルがアルフォンスに連れて行かれた為、ラッセルに小言の一つもいえない。
 ただ残されたのは、何事もなかったかのように眠るエドワードだけ。
 そして、目を覚ました後は記憶がない。
 幸か不幸か、それだけは幸運としか言い様がなかった。
 その時。
 きぃ、と開いた扉。
 そこには、フレッチャーが立っていて。
「フレッチャー……?」
 驚いたようにエドワードがその名を呼ぶ。
 そういえば、この子供もアルフォンスが扉を開け放った時に側にいた。
 ずっとここにいたのだろうか。
 いや、それはない。
 ホークアイがこの部屋に来た時は、部屋の前には誰もいなかったから。
「あの、エドワードさん」
 ぽそり、と小さな声でエドワードの名前を呼ぶ。
「どした?」
「………ごめんなさい」
「え?」
「ごめんなさい……ごめんな、さい」
「フレッチャー……?」
 フレッチャーは俯いたまま、その言葉だけしか零さない。
「どうしたんだ?」
 エドワードはソファから起き上がり、フレッチャーの側に寄ると膝を立ててフレッチャーの視線に合わせる。
 そうすると、フレッチャーは。
「うわあああああああああ!」
 目の前のエドワードに抱きついて、悲鳴のような声で泣き声を上げた。
「ふ、フレッチャー!?」
「ごめんなさい、ごめんなさい…ごめん、な、さ……っ」
「おい、どうしたんだよ……」
「…な、まえ、かた、ったしっ、にい、さん、が、ひど、っこと……いった、からっ」
「え?」
「ご、めん、なさっ……ごめ、んっなさ…いっ」
 フレッチャーの言葉は言葉にならない。
 ただ、その姿が、酷く痛々しいだけだ。
 事情が分かる大人たちは誰もが口元を覆って何も話そうとしない。
 話せばエドワードが、フレッチャーが傷付くだけだ。
「落ち着け、フレッチャー。何言ってるのか、全くわかんねぇぞ」
「…………っく」
「一つずつ、ゆっくりでいいから言ってみろ」
「………僕たち、エドワードさんの名前を騙って」
「ああ、そんな事もあったな」
「誰も、罰を与えてくれなくて……」
「それの方が辛いだろう?」
 フレッチャーの言葉にエドワードは苦笑する。
 罪を裁いてくれないのが一番辛い。
 それをエドワードも分かっているから。
「はい………」
「それが、辛かったのか?」
「違い、ます。それは、仕方ない事だから……」
 フレッチャーの涙は止まらない。
 落ち着いて話しているように見えて、何一つ落ち着いていないのだ。
「じゃあ、何で…」
「兄さんが、エドワードさんに酷い事、いっぱい……」
「……あんなの、酷いことじゃねぇよ」
「鋼の?」
 そこで思わず口を出したのは、ロイだった。
「あいつは第三者の意見を真っ直ぐに言っただけだ。だから、酷くない」
「エドワードさん」
「怒るくらいはする。だけど、泣く程酷い事言われたと思ってねぇ」
「…………」
「泣きたいのは、多分、ラッセルの方だ。オレがラッセルなら、辛い」
「!」
「自分が一番守りたかった人と同じ事で苦しんだヤツの名前を騙って傷つけた。そうやって今頃自分を追い詰めてるだろうよ」
「エドワード君……」
 ホークアイが少し驚いたようにその名を呼んだ。
「君、わかって……」
「馬鹿じゃないからな。あの時はかなり怒ってたから、ラッセルには悪い事をしたと思うよ。……アルにもな」
「……鋼の……」
「本当なら、あの事はアルもラッセルも知らなくて良い事だったんだ。だけど、オレが怒りに我を忘れて喋っちまった」
 はは、と笑いながらエドワードは言う。
「お前も知らなくて良い事だったんだ、フレッチャー」
「!」
 ぎゅ、とフレッチャーが、エドワードの服の裾を掴む。
「…………えどわーど、さ、」
「もう、いいから」
「ごめんなさい」
「もう、いいんだ」
「ごめ………」
「お前は悪くないんだ」
「すいま、せ」
「忘れて良いから」
 自分の言葉によみがえってくる記憶。
 まるで、目の前のフレッチャーは。

 『アル』
 『忘れろ』
 『お前は知らなくていい』
 『だから、忘れろ』
 『いいな、絶対忘れるんだぞ?』

 あの時の、10歳の。
 アルフォンス。
 エドワードが、ぎゅっとフレッチャーの背中を抱きしめる。
 あの時出来なかった、弟への精一杯の愛情をフレッチャーに注ぐために。
 大丈夫だよと。
 もう、このことで傷付かなくていいんだよと。
 苦しまなくていいんだよ、と。
「……っ」
 その時だった。
 不意に始まったエドワードの過呼吸。
 覚えのあるその反応に、周りが一瞬動いた。
「エドワード君!」
 最初に動いたのはホークアイ。
 次にロイとハボックが反射的に動いて。
「フレッチャー君、離れて!」
 小さな子供でも「男性」であるなら拒絶してしまうエドワード。
 フレッチャーを自分の下に寄せ、ホークアイはソファにかけてあったブランケットをエドワードにかける。
 それから。
 悪化させることを分かっていながら、ハボックとロイの二人が近付いて。
「大佐!少尉!エドワード君を悪化させる気ですか!」
 ホークアイに言われて、我に帰った二人は伸ばしていた手を引っ込める。
 その瞬間。
 捕まれた、二人の手。
 掴んだ相手は……エドワード。
「!」
「……ここで、あんた達から逃げるくらいなら死んだ方が、マシ、だ」
 幾分か落ち着いた呼吸でそう言うと。二人の腕を必死に掴んで胸元に抱き寄せる。
「オレはあんた達を嫌いになりたくない!こんな事で……失いたくはない!」
 悲鳴のような叫び、切れ切れの呼吸。
 エドワードの心からの叫び。
「鋼の……」
「エドワード……」
 震える指先が食い込む腕。
 あれほどまでに脅えていた腕を抱きしめ、落ち着こうとするエドワード。
 真っ直ぐに進んでいる。
 エドワードは真っ直ぐに進んでいる。
 過去の傷など振り返らずに、真っ直ぐに。
 傷付いた分だけ強くなろうとして、必死でもがいて進んでいる。
「エドワード…」
 ハボックが震える指でその肩を掴む。
「ごめんな…」
 謝るなと散々言われたにも拘らず、ハボックは謝る。
 事件の事じゃない。
 自分を嫌いにならなかったエドワードに。
 あれ程ひどいことを言ったハボックを嫌おうとしなかったエドワードに。
「ありがとう……」
 出てきたのは、感謝の言葉だった。
「ありがとう、ありがとう、ありがと…っ」
 ぼろり、と涙が零れる。
 ロイに男が泣くのは両親が死んだときと財布を落とした時だけだ、などとよく言われているが、今は零れる涙を止められなかった。
 一生、自分の言葉の重さを背負っていこうと決意できるだけの腕の温もり。
 ロイもまた同じ決意を腕の温もりからもらっていた。
 この子を幸せにすることを願うんじゃない。
 この子を幸せにするために、自分の言葉を背負って生きていくのだ。
 ふいに緩みそうになった涙腺を何とか堪えて、ロイはエドワードを見る。
「鋼の……」
 ぽん、と空いていた手でエドワードの頭を撫でると。
「君の幸せは権利ではなく、やはり義務だな」
 皮肉めいたような言葉で、そう言った。





 例えどんなに辛い場所でも
 大切な人たちがいるから
 この場所が天国なんかなんかじゃなくても
 この場所で生きていたい。
 この場所で、



 笑っていたい。






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