真っ白だった。
 何も見えなかった。
 ただ。
 ただ。



 残された真実だけが痛い





 【天国より野蛮 6 伸ばした手の行方】





 ヒューズは、そっとエドワードを抱き上げてソファの上に寝かせる。
「なぁ……、ロイ」
 呼びかけた相手から、返事は帰ってこない。それでも、ヒューズは言葉を続けた。
「俺は、何をしてやれるんだろうな」
 ゆっくりと、エドワードの前髪を撫でてヒューズは笑う。……笑おうとした。
 けれど、笑えなかった。
「こいつ、何抱えてんだよ……この年で」
 ぼたり、と眼鏡の奥の瞳から涙が落ちる。
「悪ぃな、エド。ホント……ゴメンな」
 目を閉じている所為で、いつもより幾分か幼い顔。
 重なるのは、愛しい娘の顔。
 あどけない寝顔は、何も知らない幼子のようだ。
 ゆっくりとその頭を撫でて、ヒューズは嗚咽を噛み殺す。
「すまん……」
 言葉なんて出てこない。
 何一つ思いつかない。
 優しい言葉も、叱咤の言葉も。
 伝える意味の無い言葉は、言葉ではなくただの音。
 音と貸した言葉は、その場所に残るわけでもなく消えていく。
「エド……」
 胸の中にある、例えようも無い鈍痛が全身に広がった。
 吐き出された言葉は当たり前の事実の筈だったのに、それは考えようともしなかった事件の裏。
 どこかで、理性が働きかけたのかもしれない。
 それ以上は、想像してはならない、と。
 考えられる筈がない。
 目の前の、少年の形をした少女が男の手によって暴行を受ける姿を。
 まだ、小さな少女が、軍服を着た男に乱暴される姿など。
 考えられなかった。
 考えたく無かった。
 沈黙が、ただゆっくりとその空間を支配する。
 同じ過去を見た男達は、ただ、何も無かったかのように眠る少女が目覚めるのを待つ事しか出来なかった。





 そこは、あまり使われる事の無い会議室だった。
 広くも無く狭くも無い、中途半端なその会議室は、使われていない椅子や机などが乱雑に積まれた物置と化している。
 緞帳のようなカーテンが下がっている所為か、明かりは殆ど無いものに等しかった。
 見えない埃の粒子が舞い上がる中、沈黙に耐え切れずに口を開いたのはラッセルだった。
「……アルフォンス」
 その姿は、酷く小さい。
 身の丈二メートルもあろうかと言う鎧の筈なのに、その姿は小さな少年のように見えた。
 そう見えても、おかしくないのかも知れない。
 エドワードより年下となれば、自分と同じ年、もしくはそれより下の筈だ。
 どこをどう間違って、こんなに大きく成長したのかは分からなかったが、鎧の中の人間は自分と年齢の変わらない子供なのだろう。
「アルフォンス……」
 もう一度、名前を呼ぶ。そしてゆっくりと核心に近付く為の言葉を放った。
「……エドワードは……」
 それ以上、言葉にならない。
 いや、言葉が見つからなかった。
 何て聞けばいい。
 あいつが、男ではなくて女だったのかと、そう聞けば良いのかもしれない。しかし、それは間違う事の無い事実だ。
 エドワードは、言った。
 オレの気持ちが分かるのか、と。
 短い言葉だった。
 短いけれど的確な言葉は、それがどのように行われ何が起こったのか推測するには十分なもの。
 エドワード=エルリックは、間違いなく。
 ─────男に、強姦されている。
 胸に、何かが詰まって声にならない。
 何を言えばいい。
 どうすればいい。
 何を言えば、誰も傷つけずにすむ。
 慰めの言葉か、叱咤の言葉か。
 ラッセルは、ぐっと唇を噛んでそのまま黙り込んだ。
 自分達は、罪を認めて欲しかった。
 罪を認めない軍部が許せなかった。
 そして、過去の事件に絡んだ男が免罪になるのが許せなかった。
 ただ、それだけだった。
 我侭にまるで子供のような駄々をこねて当り散らした。
 その結果が……これだ。
 開かなくてもい被害者の傷口まで、無理にこじ開けてしまった。
 ただの、我侭で。
 何が悪かったのだろう。
 罪を犯した自分達か。
 それとも、今、この事件を扱っていた場所に訪れた自分達か。
 カールと呼ばれた犯人か。
 それとも、最悪な言葉を吐いた自分自身か。
 ただ、分かるのは。
 エドワードにあんな言葉を吐かせた自分が一番最悪だと言う事だ。
 自分がしていた事は、全て偽善。
 自分の中の正義感を振り回し、ただ、叫んでいただけ。
 それだけ。
 被害者の気持ち、思い、痛み。
 何一つ、分かってはいなかった。
 加害者としても、第三者としても。
 天秤にかけるような犯罪じゃない。
 だけど、自分は、加害者である自分は裁かれるもので。
 加害者は必ず裁かれるもので。
 どんな犯罪でも免罪など許されるわけがなかった。
 許されるはずがなかった。
 それを認めたくて。
 それが正しいと叫びたくて。
 思わず、あんなことをしてしまった。
 時に正義感は人を傷つける。
 誰の言葉だったか、そんな言葉を思い出したラッセルは再び口をつぐんだ。
「ラッセル」
「…………」
「君、裁いて欲しいって言ったよね」
「………」
「あの、ゼノタイムでのこと」
「………」
「あのね、ゼノタイムの事は何があっても訴えないと思う」
「…アルフォンス」
「兄さんを、また被害者にしたくない」
「また?」
「……………ラッセルが、怒ってた婦女暴行事件、あるでしょ」
「昔のか?」
「そう、迷宮入りしたって言う」
「ああ」
「兄さんも、その被害者の一人なんだ」
「え?」
「兄さんも、カール=シェスターの被害者なんだ」
「何だって……?」
「だから、今、僕たちはここに居る」
 事件の蚊帳の外にいたわけじゃない。
 事件に関わるから、ここに、いた。
「……そん、な」
 あまりにも淡々と言葉を紡ぐアルフォンスに、ラッセルは次の言葉が次げない。
「ねえ、ラッセル」
「何だ?」
「婦女暴行罪に遭った人間が、どんな聴取を受けるか知ってる……?」
「え?」
「ボクも、最初は訴えた方が良いって思った。でもね、訴える為に兄さんが傷を追うなら、ボクは……」
 確実に、エドワード君は傷を負うわ。
 ホークアイは、そう言った。
 カール=シェスターの起こした事件は、瞬く間に軍部全体に広がっていった。
 カール=シェスターを訴えた方が良いと判断した上層部の人間達は、それを丸く治める為にその事実を「無かった事」にしようと画策していた。
 被害者などいない、と。
 確かに、婦女暴行は被害者が訴えなければ事件として成り立たない。
 ……事件には、ならなかった。
 成り得なかった。
 被害者など、いないのだから。
 アルフォンスはそれを不服として、ロイに直談判したのだけれど、ロイは首を縦に振りはしなかった。
 何故、とアルフォンスが言うより先に、傍に控えていたホークアイが一言。
「確実に、エドワード君は傷を負うわ」
 静かな声で、そう言った。
 事件として成り立たせる為には、被害者の証言が必要になる。
 被害者として、一番条件に遭った人間。
 加害者が少佐である為、ある程度発言権を持った人間でなければ、直ぐに揉み消されてしまう。
 そうなると。
 国家錬金術師の肩書きを持つエドワードは、まさしく条件に相応しい被害者だった。
「アルフォンス君。……婦女暴行事件の証言を取るのは、苦痛以外の何ものでもないわ。エドワード君の場合、十三歳以下だから、それ程酷くはないかもしれないけれど。どんな事をして何をされたか。事細かに聞かれて……思い出したくないことまで、思い出さなければならないのよ……」
 何度か、ホークアイはそう言った事件の聴取に参加している。
 女性の事を聞くのは、女性が一番良い。
 被害にあった女性達に尋ねる事を、ホークアイは苦痛と感じていた。
「エドワード君は、乗越えている。けれど、それを全て吐き出せる程には癒えていない。そんなエドワード君に、君は証言して欲しい……?」
 アルフォンスの答えは、「否」。
 裁きたいけれど、そんな思いをエドワードにさせてまで裁きたくは無かった。
 そっとしておいて欲しいとは思わなかったけれど。
 それでも、今のエドワードに過去を全て曝け出して欲しいとは思わなかった。
「…他の事件で被害者として被害届けを出せば、この事件のこともいやおうなく扱われる。だから、ラッセルたちの事は訴えない」
「…………」
「これで、納得してくれる?」
「…………」
「納得して欲しい。もう、これ以上兄さんを傷つけないで欲しい」
 元々エドワードとよく似た声質だが、エドワードのそれより格段に落ち着いた声。
 アルフォンスが、十四歳の少年だと思い出させるように、低い。
「……傷つけたのはお前だろ」
「え?」
「俺が傷つけたのは、エドワードと、お前だろ」
 ラッセルはアルフォンスを見て、そう言う。
「…………」
「お前も、エドワードも俺が傷つけた」
「ラッセル……」
「俺がここにいなきゃ、エドワードはあんな言葉叫ばなくて済んだ。お前だってあんな言葉聞かずに済んだ」
「………」
「お前だろ、アルフォンス。エドワードが言ってたのは」
 カール=シェスターから受けた傷の一部。
 アルフォンスであったなら、決して聞くことは出来ない。
 エドワードは言ってた。
 変わって欲しくないから、大切だから、言わないのだと。
「あの言葉は……ボクの、知らない……兄さんの……」
「アルフォンス……」
 俯いたまま、顔を上げようとしないアルフォンスの腕を掴んで、ラッセルはその名を呼ぶ。
「聞くんじゃ……無かった!」
 悲鳴だった。
 分かっていた。
 エドワードが男に乱暴された事。
 カール=シェスターに犯され、傷を負い、今まで生きてた事。
 分かっていた。
 分かっていたつもりだった。
 けれど、自分は何一つ分かってはいなかった。
 ちゃんと前を向ける人だと思っていたから、一人で乗越えられると信じていた。
 下手に何か慰めれば、それを振り払う人だ。
 だから、ただ傍にいる事を選んだ。
 一緒に、ただ。
 けれど、癒えている筈が無い。
 現に、ここ数日エドワードはロイやハボック達と目を合わせる事が出来ないし、軍人を見ると極力避けようとする。
 それでも、歩いていたから。 
 ただ、隣にいた。
 エドワードは、おそらくそれだけを望んでいた筈だから。
 そう、思っていた。
 扉の前で、エドワードの言葉を聞くまでは。
「あんな事されて、簡単に傷が癒える筈が無いのに……」
「…………」
「あんな……あんな酷い事!」
 耳から離れない、エドワードの声。
 鎧の身体には無い筈の耳を押さえたかった。
 しかし、直接魂に入り込んできた声は、決して消える事などない。
 被害者の気持ちを分かっていなかったのは、ラッセルだけではない。
 アルフォンスもまた、被害者の気持ちなど分かってはいなかった。
 いや、誰もエドワードの気持ちなんて分かる筈が無かった。
「ボクは、兄さんを助けれなかった。今でも、助けられない……ボクは、兄さんの気持ちを聞くことすら出来ない!兄さんは、……っ」
 大事だから、と。
 変わって欲しくないから、言わない。
 それは、エドワードもラッセルの大切な女性も変わらないのだろう。
 こんな時に、どれ程自分が、自分達が愛されているのかを思い知らされる。
「……っ」
 ぽたり。
 ラッセルの瞳から、涙が零れた。
 自分の放った言葉は、エドワードにどれだけの傷を負わせたのだろう。
 あの人の笑顔と同じじゃないか。
 結局同じ事しか出来なかったんじゃないか。
 馬鹿だ。
 どうしようもない、馬鹿だ。
 何をやってるんだ。
 被害者の気持ちなんて考えず、叫んで。
 被害者の気持ちを踏みにじった。
 そして、自分と同じ立場の人間さえ傷つけた。
「ごめん……ごめん、アルフォンス……!」
「ラッセル……」
「ごめん……っ」
 謝るべき、対象ではないのかもしれない。
 本当ならば、エドワードに。
 いや、アルフォンスにも謝らなければならない。
 自分の言葉は、強姦された被害者の周りの人間まで傷つけた言葉だったから。
 あれ程に、軍部の人間達が頑なに拒んだのは、おそらく被害者がエドワードだと知っていたからに違いない。
 そんな、人たちまで。
 自分の言葉は、人を傷つけていた。
「ボクこそ、ゴメン、ね……」
 あの言葉は、ラッセルの言葉は。
 もしかしたら、自分が吐き出していた言葉かもしれない。
 大切な人に向って。
 自分の代わりに吐き出してくれたラッセルにアルフォンスは、どうしようもない罪悪感を抱えていた。
「何で、お前が謝るんだよ……」
「ごめん……」
 どうしようもない、罪の意識だけがそこにはある。
 自分達の愚かしさに、ただ、涙が零れるだけ。
 泣いているのは、ラッセルだけだけれど。
「ゴメン、ラッセル……」
「泣くなよ…」
 アルフォンスの泣き顔なんて分からない。
 鎧の向うの顔は、一度も見た事は無いから。
 それでも、アルフォンスの声は泣いていて、自分が泣いているにも拘らずラッセルはそんな事を言った。
「泣いてないよ……」
 ラッセルの言葉に、アルフォンスは震える声でそう返す。
「泣いてる時のフレッチャーと声が一緒だ……お前」
「……泣いてるかもしれない。だけど、ボクは泣けないから」
「え?」
「……泣く事なんて、出来ないから」
 それは、初めてのことかもしれない。
 アルフォンスが、己の意思で自分から兜を取るなど。
 がちゃり、と音を鳴らしてアルフォンスはそっと自分の兜を取った。
「!」
 ラッセルは、一瞬自分の目を疑う。
 アルフォンスだと思っていた鎧の中身は、空っぽで。
 真っ暗な空間が、鎧の中に広がっていた。
「お、お前……」
「ボクに、身体は存在しない。この鎧が、ボクの身体なんだ……」
「…………」
 驚きのあまり、他に言葉が浮かんでこなかった。
 何を言えば良いのかさえ、分からない。
 しかし、それと同時に浮かんだのはエドワードの機械鎧。
 同じ鋼の、異なる光を放つそれ。
「お前達……」
「ラッセル……?」
「お前達、一体……」
 何をやったんだ。
 ラッセルの言葉に、空洞のアルフォンスはゆっくりと言葉を発した。





 見えているものなんて、空っぽで。
 見えない場所に、真実があった。
 贖う事の出来ないものを
 生み出した言葉を
 今更呪う事なんてできず
 ただ





 その言葉を、飲み込んで
 泣くしか出来なかった






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