違うんだ。
 違うんだ。
 きっと、裁かれたかったのは。



 愚かな、自分自身





 【天国より野蛮 5 掻き消された祈り】





 二人は、一言も話そうとしなかった。
 否、話せば罵詈雑言が飛び出すことくらい分かっている。
 その為に、二人は顔も合わせずただ沈黙を守っていた。
 その光景に、ロイとヒューズ、それに付いて来ていたハボックが顔を見合わせる。
「何が、原因だったんだ」
 最初に爆弾を投下したのはロイだった。
 錬金術師同士の喧嘩。しかもその一人は国家資格を持っている。
 その上、相手もその国家資格を持つ錬金術師と同等に戦っている。
 被害は、甚大だった。
「ラッセル=トリンガム、と言ったな。……どこで、カール少佐の事件を知った」
「……陰口に戸を立てられないのはご存知だと思いますが?」
 確かに、今東方司令部でカールの起こした事件を知らないものはいないだろう。公然の秘密と言うヤツだ。それが、東方司令部を尋ねてきた兄弟の耳に入ってもおかしくはない。
「……中央の事件も、そのカール少佐が起こした事件だったんでしょう」
「………」
「迷宮入りにされた事件の多くに関わってると聞きましたが?」
「………」
 聡明な、子だ。
 誰一人反論できない。
 そんな中、エドワードは。
「だから、犯人が分かっても裁けないんだ」
「裁けなくて何が刑法だ」
「免罪って言葉を知らないのかよ、お前は!」
「そんなものがまかり通る事態がおかしいんだよ!」
「二人とも、やめなさい!」
 ラッセルが口を開けば、エドワードが口を開く。そして、喧嘩になる。
 頭の回転の速い二人の喧嘩だ。
 周りが止める暇もなかった。
 ロイの一言も、そのまま消えていきそうになる。
 しかし、ロイは大きく深呼吸をすると。
「……二人とも、聞いて欲しい」
 静かに、低い声で語り始めた。
「カール=シェスター少佐の起こした事件は、確かに許されるものではない。本当なら、断罪するべきだろう。いや、しなければならない。たとえ、彼が軍人であったとしてもだ。それは、間違いない」
 大きな樫の机に肘を付き、顔の前で組み合わせるとロイは、淡々とそう語る。
「しかし、その為の代償は大きい。彼を裁くためには、免罪を許さないことと…何より、被害者の証言が必要になる。……出来る事なら、我々も彼に裁きを下したい。だが、その為に被害者の心の傷を広げるだけの価値があるのか。ラッセル、君はそれを考えた事があるのか?」
「…………」
「綺麗事だ……」
 血を吐くような思いで、ラッセルはそう呟く。
「そう、綺麗事だ。被害者を傷つけたくないから、断罪しないなど。それでも、私は、……彼を断罪する事より被害者の気持ちを守りたい」
 それは、ロイの本音。
 確かに、カール=シェスターは親しい人間だった。
 それが、罪を犯し、自分が裁くべき人間になってしまった。
 ……出来る事ならば、白日の下に全てを晒して、裁きを下してやりたい。
 それが、おそらくどんな形であれカール=シェスターと言う男を救う唯一の方法だから。
 しかし、その為には被害者……、それも彼が認めている犯罪の被害者の証言が必要だ。
 彼が今現在認めている犯罪は、たった一件。
 四年も前の、少女への暴行。
 その事件への関与以外は、認めていない。
 それが偽りであると証明するのは、時間の問題かもしれないが。
 それでも、今の時点で、その少女のみが唯一の被害者なのだ。
 その少女に、ロイは、法廷に立てとは言えない。
 言える筈が無い。
 目の前で、強い視線で自分達を見ている少女に。
 これ以上、辛い思いをさせたくはなかった。
「君は、どうなんだ。被害者の気持ちとカール=シェスターへの断罪。どちらが大事なんだね?」
「……俺は」
 迷いの無い瞳。
 ラッセルは、銀色の光を湛えた視線を向けると。
「カール=シェスターへの断罪の方が、必要だと思う」
 それは、加害者への救済でもあるから。
 断罪を与えられない人間は、辛くて苦しいけれど、断罪を与えねば罪の重さが分からない。
 ラッセルはもしかしたら、自分とカールを重ね合わせているだけかもしれなかった。
「!」
「確かに、被害者の女の人には辛い事だと思う。だけど、……これが事件で、被害者には非が無い事を証明しなかったら、……被害にあった人たちは、乗越えていけるのか?あいつの影に怯えないって言えるのか?」
 カール=シェスターのしたことが犯罪だと認められなければ、被害にあった女性達は「いない」ものと同じ。その事実は無かった事になり、被害者の心の中でいつまでも残る傷になる。
 乗越えて行く事さえ、出来なくなる。
 ラッセルの起こした事件とは違う、大きな傷を背負ったままで。
「どうなんだ……?」
 ラッセルの言葉に、誰一人言葉を返せなくなった。
 確かに、その事を「犯罪」だと認めなければ、それを裁く事は出来ない。
 同時に、犯罪でなければ、被害は無かった事と同じになってしまう。
 被害にあった女性の心の中だけの、傷。
 エドワードは乗越えた、と言った。
 それが晒す事によるものならば、ラッセルの言う事は「正論」なのだろう。
 しかし。
「……じゃあ、何か?」
 ふとその言葉に口を開いたのは、エドワードだった。
「お前は、被害にあったヤツに、その全てをたくさんの人間に言えって言うのか?」
 ゆっくりとラッセルを捉える、金色の瞳。
 その瞳に、いつもの虹彩は見られない。ただ、静かで鋭い光だけが。
「ああ……」
 それに負けないくらいの、強い光を放った銀色の瞳で、ラッセルはエドワードを見る。
「お前の言葉こそ第三者じゃねぇか、ラッセル……」
「何だと?」
「お前は、被害者の気持ちなんて分かっちゃいない。この事件の重さなんて分かっちゃいない。ただ、自分の怒りの矛先の向ける場所に拘ってるだけだ」
「!」
「単に、自分を裁いてくれない人間に対する怒りをぶつける場所が欲しいだけなんだろ」
 がつん!
 前触れなんて、無かった。
 ラッセルは、渾身の力でエドワードを殴る。
「ぶつけたいなら、オレにぶつけろよ。周りにあたるより、よっぽどいい」
 さっきと同じ場所から流れた血を拭って、酷く落ち着いた声でエドワードはそう言った。
「んだと!」
「お前は、今の自分とカール少佐を重ねてるだけだ!自分を断罪して欲しいだけだ」
「……」
「誰もお前達を責めてない。…カール少佐のやった事は責められる事でもことを公にしたくない人だって沢山いる筈だ!」
 たとえ、どんなに卑劣な犯行だとしても。
 目の前に死ぬ事しか見えなかったり、逃げるしかない人たちだっている。
 ラッセルには、その重みが分かっていなかった。
 確かに自分のしている事は自己満足なのかもしれない。
 けれど。
「じゃあ、お前は……そんな目にあって泣いてる人を見たことがあるのか?」
 薄い膜が掛かったような記憶。
 その記憶と重なるのは、優しいゼノタイムの人たち。
 そんな「被害者」達が泣いているのを何度も見てきた。
「ラッセル……?」
「泣いてる人を。いつも笑ってる人が泣いてるのを。見た事があるって言うのかよ!」
 知らなかった。暴行されていたなんて。
 怪我だと思っていた。
 なのに、その事件から一変して周囲の人の反応は変わっていった。
「俺は、無力だったよ。何も出来ない子供で……犯人が憎いと思うしか出来なかった。ずっと、それだけしか出来なかった……」
 小さな自分は、何一つ出来なかった。
 事実に気付いた後、一人でないた。
 自分の無力さを嘆いて、泣いた。
 特別な感情、に近かったのかもしれない。
 母親のように傍にいてくれた女性。その女性の事に気がつけなかった。
「お前は、そんな人間の気持ちが分かるのか!」
 気が付けば、ラッセルは叫んでいた。
 エドワードの胸倉を掴んで。
「わかんねぇーよ!」
 同じように、らっせの胸倉を掴んで、ラッセルの声に負けないくらいの大声でエドワードは叫ぶ。
「お前の気持ちなんて、ぜんぜんわかんねぇ!」
「だろうな!お前は見た目と違って冷静だからな!」
「わかってたまるか……お前の気持ちなんて!」
 足元が、揺らぐ。
 エドワードはラッセルを見据えて、叫んだ。
「お前の気持ちなんて……わからない!」
 分かってしまえば、おそらく。
 今の自分が崩れるのが分かっていたから。
「落ち着きなさい、二人とも!」
 言い争いを初めてしまった二人の間に入って、ロイはその身体を引き離す。
「二人の言い分は分かった。だから落ち着くんだ。君達が争ったところで何の解決にもならない」
 それは、ある種の言い訳だった、
 二人の姿は、ロイにとってハボックにとって、目の前に突きつけられた、現実。 
 親しい人間によって傷つけられていた、人間の姿。
 気付けなかったものが産んだ、あまりにも悲惨な現実。
 それを見たくなかった、と言ってしまえばそれまでかもしれない。
 その事を見透かすかのように、エドワードとラッセルは争いをやめなかった。
「分からないんなら、口を挟むな!」
「お前こそ、いい加減に理解しろ!」
「うるさい!お前には関係ないだろう!」
「お前だって、被害者の関係者ってだけじゃないか!」
「だけ?被害者の関係者がどれだけのもの背負ったと思ってるんだよ!」
「分かるか、そんな事!」
「お前だって、別の事件の被害者の関係者だろ!」
「ああ、そうだ!関係者だ!だけど、本人がいいって言ってるのに、周りがどうこう騒ぐ事じゃねぇだろ!」
「騒いでるんじゃねぇ!自分に出来る事をしてるだけだ!」
「それが騒いでるって言うんだよ!」
「何だと!」
「お前が騒いだ事で、お前の知り合いが要らない傷でも負ったらどうする気なんだ!」
「俺が何とかする!」
「出来るわけないだろ、この馬鹿!」
「やってみせるさ!それだけの覚悟で来てるんだ!」
「じゃあ、やってみせろよ。その人間をここに連れてきて証言させて傷を悪化させて守ってみろよ!」
「何で、あの人をここに連れてこなきゃならないんだ!」
「お前が言ってる事は、そう言う事だろ!」
「違う!」
「違わない!」
「違う!……あの人には関係ない!俺が一人でやってる事だ!」
「そんな子供みたいな言い訳が通用するか、馬鹿!」
 止められない、二人の争い。
 ロイの制止も、ヒューズの制止も、ハボックの制止も届かなかった。
「支離滅裂な事しか言えないんだったら、最初から来るんじゃねぇ!大人しくゼノタイムに帰ってろ!」
「お前こそ、軍部を擁護する暇があるんなら、とっとと自分の目的のために旅にでも出てりゃいいだろ!」
 二人とも既に、自分が何を言ってるのか分からない状態だった。
 売り言葉に買い言葉。
 その状態が、延々と続く。
「お前みたいに飲み込めたわけじゃない!俺は、俺は……自分も犯人も許せないだけだ!」
「阿呆か、お前!お前がどうして自分を許せないんだよ!何かしたのか?別に、何もしてないだろ!」
「何もしてないから、許せないんだ!分からなかった事が、気付けなかった事が、お前の名前を騙った事が何もかも……全部悪いんだ!」
「!」
 ふとラッセルの口から零れた言葉が、そこにいた軍人達に突き刺さった。
 分からなかった事が、気付かなかった事が、全て悪い。
 そう、気付いてさえいれば、分かってさえいれば。
 こんな事件は起こらなかった。
 こんな事には、なっていなかった。
 制止の声をかけようとしていたロイの口が、ふと閉ざされる。
 自責の念。
 それだけが、今、その空間全てを支配していた。
「ふざけるな!」
 エドワードの左拳が、ラッセルの頬に飛ぶ。
「何が悪い事なんだ!それの、どこが悪い事なんだ!」
 それは、まるで悲鳴のような声だった。
「名前を騙った事はもう十分お前達反省してるじゃないか!お前達はその罪を背負って生きていけばいい!辛いけど、出来ないことじゃない!カール少佐の事件で、ここで知った真実で誰かが………何かして欲しいって頼まれたのか?気付いて欲しいって、分かって欲しいって……」
 そのままでいて欲しかった。
 変わらないでいて欲しかった。
 ただ、それだけが望みだった。
「お前に、被害者の気持ちの何が分かる!お前が大事な人間だったから、隠してたんだろ!お前に変わって欲しくなくて、だから、黙ってたんだろ!傷付いてるなんて言わなかったんだ!」
 子供だからじゃない。
 いろんな意味で、特別な人間だったから、黙っていたはずだ。
 心配なんてして欲しくなくて。
 それを吐露する事で、変わって欲しくなくて。
 怒りに身を任せて欲しくなくて。
「お前が、大切だったからだろう!ラッセル!」
 ぐい、っとラッセルの胸倉を掴むと、エドワードは叫ぶ。
「お前が変わる事で、被害者がどれだけ苦しむと思ってるんだ!ただでさえ、ずっと事件の記憶と戦ってるのに、お前はそれ以上の負担をかけたいのか!」
「エドワード……」
「あれを忘れる為に、どれだけの思いをしなきゃならないと思ってる!消えないんだぞ、一生!どんなにかかっても、消えないんだぞ!どんなに大丈夫だって言っても、消えるわけないんだ!」
 エドワードは、自分が何を言っているのか分かってはいなかった。
「押さえつけられて、言葉も自由も奪われて!こっちが何も出来ないのをいい事に、人の身体を散々撫で回して!あんなもの、捻じ込まれて!」
「鋼、の……」
「ずっと、中にあいつの精液が残ってて、異物感なんて消えなくて!怖くて逃げ出したくて、でも出来なくて!ずっとあいつに縛られたままでいなきゃならない被害者の気持ちなんてお前に分かるのか!」
「兄さん!」
 その瞬間、ばたん、と突然扉が開いた。
 扉の向うには、青銅色の鎧と少年が一人。
「アル……?」
 鎧の姿を捉えて、エドワードはふとその名を呼んだ。
 がちゃん、がちゃん、がちゃん。
 アルフォンスは無言でエドワードに近付くと、そっとその大きな身体でエドワードを抱き締める。
「おい、アル……?」
「ねえ、兄さん。目、閉じて」
「え?」
「いいから、目、閉じて……」
 元々似ているのかもしれない。
 エドワードの声と良く似た、いや、エドワードよりも落ち着いた低い声で鎧が囁く。
「耳も塞いでいいよ。何も見なくていい、何も聞かなくていい、何も喋らなくていい……」
「アル……?」
「だから、おやすみ」
 一瞬だった。
 アルフォンスは、とん、と軽くエドワードの首筋に手刀を当て、その意識を飛ばす。
「アルフォンス!」
 それを見ていたラッセルがアルフォンスに近寄り、その腕を掴んだ。
「大佐……」
 その腕の事など気にしないように、アルフォンスはロイの方を向いて。
「少しの間、兄さんを休ませてください。じゃないと、また発作を起こしますから……」
 いつもより幾分か下がった声で、そう言う。
「あ、ああ……」
 アルフォンスの言葉に、ロイはただ頷く事しか出来ない。
 近付いてきたヒューズにアルフォンスはエドワードの身体を預けて、頭を下げると、自分の腕を掴んでいたラッセルの腕を掴み。
「話があるんだ、ラッセル」
 殆どラッセルを引きずる様にして、執務室を後にした。





 聞こえてきたのは、あまりにも辛い現実
 逃げられない事実
 無力だと嘆いたのは、だれよりも己自身
 無力で、何も出来なくて
 それを罪だと認めてもらえない事の

 辛さを知る

 裁かれるのは、己自身
 無力さを嘆く、あの日の自分
 どうしたら、守れますか
 どうしたら、助けられますか



 どうしたら、その心を救えますか?






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