見えない世界のことを
 知ろうとするのは
 ともすれば痛みを伴って
 いつまでも、いつまでも



 傷を作り続けるのかもしれない





 【天国より野蛮 2 届かなかった手】





「よう」
 扉を開けるのと同時に、ヒューズは中にいる面々に声をかける。
 その声に答えるように顔を上げてロイはちらりとハボックを見て、手元の資料に目を落とした。
「あんまり、進んでないみたいだな」
「当たり前だ。どれだけの事件が絡まってると思う」
「……そうだよな」
 かたん。
 空いていた椅子を引き、ヒューズはそこに腰掛けると積み上げられた資料を一枚取り目が痛くなりそうな程ぎっしりと書き込まれた内容を読む。
 もくもくとその作業を繰り返し、関係のあるところに付箋を張り、その付箋の資料からたった一人の人間の起こした犯罪だけを羅列していく。そしてそれを管轄地域ごとに選別し、事件一つ一つ
を詳しく洗い直しきちんとした報告書に纏める。それの繰り返しをどれだけの時間していただろうか。最初から加わっているロイやその部下達は既に真っ赤な目をしている。
「どれだけ洗い出せたんだ?」
「半分、だな」
「まだ、半分か……」
「読んでるだけじゃなくて、お前も手伝えヒューズ」
「はいはい」
 ロイの言葉にヒューズも付箋を取ると手近に纏めてあった資料に目を通す。
 それは、ちょうど中央の資料でヒューズにとっては良く聞き慣れた地名がかなり羅列されていた。
「やっぱりこっちの関係の事件は多いな」
「物取りの次くらいだろう。罪が軽いからな」
「……あんなもんやるヤツは車罪でもかけときゃ誰もやろうとはしないだろうよ」
「………ああ」
 この時代、女性の地位は低く漸くその地位が認められてきたところだ。
 刑法は前の時代の産物としか言いようが無く、女性に対する暴行罪は比較的軽い。そこに殺人や強盗致傷などが加われば話は別だろうが。
 重くて禁錮5年、そこに汚い大人の算段が加われば…無罪になる事さえある。
 免罪が許されるのもおかしな話だが、免罪が未だ認められてる今の刑法ではこれが精一杯の裁く方法なのだ。
「…カールは、重い刑には処せられないだろうな」
「ヒューズ中佐、口は災いの元という言葉をご存知ですか?」
「…分かってるよ、だけどな、……調べてみたが、免罪がまかり通りそうな状況だ」
「……………」
 無駄、としか言いようの無い作業。
 裁こうとしている相手は、免罪がまかり通る相手。
 こんな証拠など役には立たない。
 それを、誰よりも被害者自身が知っている。
 そう、被害者自身が。
「…しないよりはマシだろう。カールを裁けないとしても、……もうこんな事件を起こさせないようにする事は出来る」
 ぱし、と叩かれたロイの手の中の資料。
 調べれば調べるほど、浮き上がってくる事実。
 知らなかった真実。
「少し、休憩するか」
 ロイは周りを見渡しそう言うとかたんと立ち上がり資料を横に置く。
「珈琲を淹れて来ます」
「頼む、ホークアイ中尉」
 連日の作業で、誰もが疲れている。
 少し休憩を取る事も必要だろう。
「俺は、もうちょっと続けるわ。今来たばかりだからな」
「そうか……」
 私は少し外の空気を吸ってくる。
 ひらひらと資料を振るヒューズを横に、ロイは会議室を後にした。





「おい、ハボック」
「何スか?」
「それを一本寄こせ」
 ロイは同じように会議室から出て来たハボックが持っている箱を指差すと、眉間に皺を寄せた状態でそう言った。
「珍しいっすね……」
 ハボックは、とんとん、と箱の底を叩き中身を一本だけはみ出させるとロイに向けて、苦笑いを浮かべる。
「…………」
 差し出された箱の中身を一本抜き取り、ロイは発火布の手袋を付けた右手で軽く指を鳴らすと、その煙草に火を付けた。
「やっぱ、辛いっスねぇ」
 窓をからからと開けて、ハボックは空を仰ぐ。
 毒素を含んだその煙を風になびかせて、二人はただ無言で空を見た。
「…………」
 言葉が続かない。
 二人の中にある、同じ形をしたけれど根底は違う罪。
 大人だからこそ、背負ってしまった、否、背負わなければならなかった決して忘れる事の出来ない自分の愚かしい部分。
 子供ならば、泣き叫んでごめんねと謝れば許されたのかもしれない。
 母に手を引かれるような、幼子であれば。
 けれど、自分達は軍服に身を包み人を殺す事さえ厭わない、軍人と言う名の大人だった。
 物事を考え、自分の力のみで前に進み、全ての責任を自分で背負う事の出来る、大人。
 ……言い訳や弁解は許されなかった。
 いや、許されなかったわけではない。許したくなかったのだ。最後の大人のプライドとして。
 許せるわけがない。
 最初は、少年だと思っていた。書類で見る限りでは、三十路の男だと。それも間違っていたのだけれど、出会ってみれば、右腕と左脚を失ったうつろな眼をした少年だった。
 たった十一歳で失敗とは言え人体練成を行い、特定の個人の魂を練成した子供。
 少年と思いこんでいたのかもしれない。
 その子供の後ろから離れなかった、がらんどうな鎧に宿る魂のみで存在していた少年が「兄さん」と呼んでいた所為もあるだろう。
 ロイは、出会った当初から少年と思い接してきた。
 国家資格を取る為に軍施設を訪れた時も少年の形をしていたし、久しぶりにあった今回もまたその時と変わらぬ形をしていて、ロイの中の固定観念は揺らぐ事はなかったのだ。
 それが。
 少女だったと、誰が想像しただろう。
 左脚を失った痛みと戦って、血反吐を吐いてまで自分の右腕と引き換えにしてまで弟の魂を練成し、帰る場所を自らの手で焼き払い、たった一つの望みに懸けてどんな場所へでもトランク一つで行ってしまう子供を少女だと思えるだろうか。
 ……今は、何を言っても言い訳にしか過ぎないけれど。
 過去や考えをどうのこうの言ったところで、今は変わりはしないのだから。
 少女、だった。エドワード=エルリックと言う名の。もしかすると、男名であるエドワードは偽名なのかもれないけれど、その子供は間違いなく少女であって、しかも……幼い頃に成人男性から性的暴行を受けていた。軍服に身を包んだ、自分達と同じ軍人に暴行を。
 普通ならば、同じ軍人である自分達に心を開いてくれる事はないだろう。そうした事件の被害者は、その事件の所為でそれに関わる全てのものを拒絶する傾向が見られる。それが、エドワードには全く見られなかった。
 軍人である自分達を何だかんだ言っても慕ってくれていたし、懐いてくれていた。
 それなのに、自分は。
 その信頼や何もかもを自分の手で打ち壊してしまった。
 加害者を信じ、被害者であるエドワードの言葉を信じはしなかった。
 女である事さえ、一度は否定した。
 ……あれから、何度も考えてみた。
 どうして自分は、エドワードの言葉を信じなかったのかと。
 少女であった事は、今までの固定観念の為。
 加害者……カール=シェスターの言葉を信じて、エドワードの言葉を信じなかったのは……カールの方が信頼に値する、と判断してしまった為。
 実際、カールの言葉は真実味を帯びていた。嘘のつけない正直な性格だと知っていた事もあるし、何よりエドワードの言葉の方が疑う余地があったのだ。
 性別、言動、そして、子供と言うその年齢。
 嘘ではないにしろ、勘違いしていると思ったのだ。子供の頃の記憶が正しいとは限らない。現に子供の言葉を信じて馬鹿を見る例がかなりある。エドワードもまた、子供の頃の記憶が混乱して、その上連続婦女暴行事件が発生して…それが引金となり思い込んだのだと思ったのだ。
 浅はかな大人の考え。
 型枠にはまった事しか考えられなかった、大人のあまりにも愚かな考え。
 それが、全ての原因だ。
「…………」
 ふ、と煙草の煙と共に溜息を零すロイを見て、ハボックも同じように溜息を付いた。
 ロイとは違う、とは言え、ハボックもまたエドワードを傷つけていた。
 出会った頃と同じ言葉の暴力で。
 今でも忘れられない。
 自分は、おそらく言ってはいけない一言を口にしていた。
 それは、さりげないものだったのかもしれない。
 それでも、その言葉は二人を、……エドワードを傷つけた。
 あの時の目を、ハボックは一生忘れないだろう。
 あれ程に、人に憎まれる事は一生無いに違いない。
 そんな事をしたのに。
 それなのに、エドワードとアルフォンスは。
 慕ってくれた。
 そんな言葉など無かったかのように、慕ってくれた。
 自分を、手の内の人間として認めてくれていたのに。
 ……それを、突き放したのは間違いなく浅はかな自分。
 カール=シェスターの本質も見極められないで、ただ、頭ごなしに否定したあまりにも幼稚な自分。
 信じられなかった。
 唯一無二の親友が、婦女暴行犯だなんて。
 しかも、目の前の少年にしか見えない少女に暴行を加えていたなんて。
 世界がひっくり返っても、信じられるはずは無かった。
 無かったのに、それは間違いなく真実で、少女には大きな傷が残っていた。
 その傷に塩を塗りこみ、悪化させ、どうしようもない事態にまで持っていったのは。
 ガン!
 ハボックは、響いた鈍い音に驚いて思わず隣を見る。
「……大佐……」
 滅多に見せない、表情。
 苦悶とも苦悩とも違う。
 ただ、目を伏せ唇をかみ締めて、窓枠を力いっぱい殴りつけている姿。
「……私は、カールになりたい」
「!」
 ぽつりとロイが零した言葉。
「大佐、何、言って……」
「そうすれば、あの子に断罪してもらえただろう……」
 弱音では無かった。
 本音。
 弱い大人は、自分の犯した罪を飲み込むことなんて出来ない。
 何かで償う事で、それを抹消しようとする。
 自分は罪を償った、だからもう背負い込む事は無いと、誰かに言って欲しいのだ。
 贖えない罪だとしても、それで心の均衡は保たれる。
「……裁くヤツも辛いなぁと思ったけど……」
 ふう、と煙草の煙を吐き出しながらハボックは。
「裁いてもらえないヤツってのも辛いっスねぇ……」
 がしがしと前髪を掻いて、ポツリとそう零す。
 糾弾が欲しい。
 お前は罪人なのだと誰かに言って欲しい。
 そうすれば、自分は罪を犯した愚かな人間だと戒められるから。
 自分は間違っていない、なんて思ったりしないから。
「俺、こんな状況、はっきり言って絶えられないんスよね」
 罪を犯したのに、誰一人追求しない。
 被害者でさえ、許そうとしている。
 あれから一度も目を合わすことは無いけれど、後遺症なのか震える身体を押さえつけるようにして自分達の前で何も無かったかのように振舞う子供。
 そして、静かな沈黙を守り続ける鎧の少年。
 何も言わない。
 何も問わない。
 糾弾しない。
 善悪の区別をつけようともしない。
 ただ、中に浮いた罪悪感だけがここにある。
 自分達はどうすればいいのか、と迷う心だけがここにある。
「……あの二人、ホントに凄いっスよね」
 ずるり、とハボックは壁伝いに滑るようにしてその場に座り込んだ。
 自分の罪を誰に問われるでもなく、戒めている子供。
 自分の罪を贖う術を必死で探して。けれど、それは許される為でなく前を向く為の手段として。
 種類は違えども、同じように「罪」を犯し、それを誰も糾弾しなかったのに。
 馬鹿なことだ、可愛そうだと思っても、「子供だから」と追及しないのに。
 それが自分達の罪だと考え、贖う術も探さず飲み込んで飲み込んで、前を向いて。
 血反吐を吐いて、絶望を繰り返し、狂気に近い感情に振り回されながら、たった一つの希望を見出している子供達。
 その強さを。
 その怖さを。
 その純粋さを。
「…………」
 ロイとハボックは初めて、痛感していた。





「あ……」
 ヒューズは資料の中で見知った名前を見つける。
 『発見者 ラッセル=トリンガム』
 先程まで、詐称の罪で裁くことを望んでいた子供だ。
「あいつらも、カールの被害者、か」
 中央の事件の一つ。
 十七歳の少女が被害にあっている。その発見者がラッセル=トリンガム。まだ幼くそれを婦女暴行と分かっていなかったらしいが、乱れている衣服と血を流している彼女を見て怪我だと判断し通報したようだ。
 昔から頭の回る子供だったのだろう。
「……こいつも、自分を責めたんだろうな」
 真っ直ぐな銀色の瞳。
 最期に残した言葉は、やはりこの事件の事があったからだろう。
 運良く、あの連続婦女暴行事件の犯人は捕まったけれど、カールの事件は犯人が捕まる事は無い。
 全て、免罪されてしまう。
 犯人のいない婦女暴行事件。
 それは、裁くこともできず被害者の傷を深くするだけ。
「やりきれねぇな…」
 ぽつりとヒューズの零した言葉は誰に聞かれるでもなく積み上げられた資料の中で消えて行った。





 膿んだ傷を治すのは出来なくても
 これから増える傷を癒す事が出来るから
 そんな慰めみたいな言葉
 必要ないことを知っていたけれど
 声にせずにはいられなかった



 ただ、望むのは断罪を。






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