笑う事が真実ならば。 笑っていよう。 けれど 笑えない時の方が多すぎて 本当の笑い方を忘れてしまった。 【アゲハ蝶 9 見えないもの】 アルフォンスの友人だといった青年は、どこかアルバートに似ていた。 金色の髪に、銀色の瞳。 誠実なところはアルフォンスの方が似ているけれど、雰囲気はこの青年の方が近い。 ちょっとびっくりした様子のエメロードに、青年は戸惑ったように笑うと。 「アル…アルフォンスいますか?」 そう訪ねた。 どうやら、アルフォンスの知人らしい。 セントラルは、アルフォンスと縁の深い土地柄だったらしく、軍人以外の人間が三人の宿泊している宿屋に良く訪ねてきていた。 おそらくこの青年もその一人なのだろう。 アルフォンス自身は覚えていなかったらしく、少し戸惑っていたけれど、青年は話があるからと宿屋からアルフォンスを連れて行ってしまった。 「ねえ、お姉ちゃん」 「何?」 「さっきの人、アルバートお兄ちゃんに似てたね」 「そうね」 スカートの裾を引っ張って満面の笑みを見せるエドガー。そのエドガーを見てエメロードもにっこりと笑った。 「……そういやあ、前にもこんなとこで話をしたな…って覚えてないか」 夕暮れ近い公園のベンチ。 あの時と違う公園だけれど、雰囲気は良く似ている。 ただ、あの時は、二人とも重い肩書きなんか持ってなくて、子供で、アルフォンスは鎧だった。 そして、自分の犯した罪から逃げられなくて苦しんでいた。 あの、頃。 「俺の事、覚えてないのか?」 アルフォンスの事を覗き込みながら、ラッセルは苦笑する。 それを見てアルフォンスは。 「ごめんなさい…」 そう言う事しか出来なかった。 「本当になん何も思い出せないのか?」 築いてきたもの。 たくさんの感情。 たくさんの思い出。 たくさんの傷。 数え切れない経験とその果てに得たもの。 その全てを。 「…全部忘れたって言うのは語弊があるかもしれない。ところどころ切れ端みたいに覚えてるから。だけど、君の事も他の事も殆ど覚えていないんだ」 どこか澱んだ金色の瞳。 おぼろげに繋ぎ合わせられた世界はひどく不安定で、アルフォンスにとってエメロードとエドガーが世界の全てだった。それだけが、今のアルフォンスの全てだった。 「だから、君と思い出話とか確認とかそう言うのは出来ない」 もう、何度口にした言葉だろうか。 誰かが訪ねてくるたびに何度もそう言って来た。 そうして誰もが、困ったように笑うのだ。 アルフォンスに、罪悪感を残して。 「別に俺はお前と思い出話をしにきたわけじゃないさ」 「じゃあ、何を……」 「最初に言っておく。どんな事態になろうが、俺はお前の記憶を取り戻す」 「え?」 ラッセルは殴らない事を約束に、ハボックからアルフォンスの滞在場所を聞きだした。 一刻も早く、アルフォンスの記憶を取り戻すために。 エドワードの事は決して言ってはならないけれど。 エドワードの存在は、今のアルフォンスの混乱を呼ぶ。 皮肉な話だけれど。 「ボクの記憶…を?」 「そう、お前の記憶。お前が築き上げてきた記憶を引っ張り出す。それだけ言いたかったんだ」 「でも、そんな、事…」 出来るわけが無い。アルフォンスはそう言った。 そう、可能性は低い。失った記憶を取り戻す事は。 それでも。 「…そう言えば、俺はまだ名乗ってなかったな。俺は、ラッセル・トリンガム。森羅の錬金術師。まあ、所謂国家錬金術師だ。得意分野は医療。……これで、分かってもらえたか?」 医療を得意分野とする国家錬金術師。 その言葉に、アルフォンスはじっとラッセルの顔を見た。 「つまりは、そういう事だ。不可能を可能に出来るかもしれない。他のヤツが無理でも、俺なら出来るかもしれない」 ラッセルは説明しながらむなしいものを覚える。 同じ罪を抱えた同胞。 心の中に潜んだ闇に問いかければ、答えてくれた声。 誰よりも親しい人間だったはずなのに。 友と呼べた人間なのに。 それなのに。 「ボク、国家錬金術師としてそんなに必要なんですか?」 「え?」 「他の国家錬金術師が出てこなきゃならない程、ボクは必要な国家錬金術師だったんですか?」 予想していなかった言葉。 思いの外、国家錬金術師の肩書きは、今のアルフォンスには重いものだったらしい。 話によれば、エメロードと言う女性は軍人を嫌っているらしい。 アルフォンスにとって、国家錬金術師であるという事は大事な人を傷つけるためのものでしかないという事だ。 ――望んだのは、自分だというのに? ラッセルの口から思わずそんな言葉が飛び出そうになる。 大切な人を守る為に、約束したのに。 国家錬金術師になるって約束して、その為に足掻いて。 軍の狗だと蔑まれてもいい。 そんな覚悟でなった、国家錬金術師。 拝命した二つ名。 それを。 「……なぁ、アル」 アル。 ラッセルはそう呼んだ。 何度も呼びなれた名前を。アルフォンスには初めて聴こえる響きで。 「お前は思い出すことが怖いかもしれない。自分が何をやったのか、どうやって生きてきたのか、思い出すには辛いかもしれない。お前の大切な人を傷つけるかもしれない。…でも、な」 記憶は。 アルフォンスが置いてきた記憶は。 エドワードとの記憶は。 失って良いものじゃない。 失わせてはいけない。 アルフォンスが、エドワード以外を見るなんてあってはいけない現実。 エドワードを守る事が出来るのは、他の誰でもない、アルフォンス・エルリックという名のたった一人の男なのだから。 「お前の記憶の中で、泣いてるヤツがいたらどうなるんだよ」 くしゃり。 ラッセルは前髪を右手で梳いて書き上げる。 「ボクの記憶の中で……?」 「そうだろ?記憶をなくす前のお前にはちゃんと土台のある生活があったんだ。この場所に。それをお前は消そうとしてる。そうしたら、その記憶の中にいた人間はどうなる。その記憶に縋ってた人間はどうなる?泣くしか出来ないだろ?」 「でも、思い出したらエドが……」 「エド、ね……」 ふんわりとした雰囲気を纏った優しそうな女性。 守ってやりたくなるのは当然だろう。 アルフォンスの呼び方が気に入らないけれど、その人は紛れもなく今のアルフォンスにとって大事な女性だ。 記憶と引き換えに出来るほどに。 「……今日は、様子見だったんだけどさ。これだけは言っておく。お前に嫌われようが誰に嫌われようが誰が傷付こうが泣こうが関係ない。俺は、お前の記憶を取り戻す事に全力を尽くす。それがお前の為にもなるって信じてるから」 ラッセルは確信していた。 これでアルフォンスはラッセルを要注意人物とみなすだろう。 それでも構わない。 ラッセルが信じているのは、本当に小さな幸せを掴もうとしてた大事な二人の未来だけだから。 「ほら、出来ましたよエドワードさん」 「……フレッチャー」 目のまでニコニコと笑うフレッチャーに毒気を抜かれ、エドワードは大きく溜息を付いた。 「こんなことしてどうするんだよ」 「気分転換になるかなぁって」 「髪型変えるのが、か?」 エドワードはいつも後ろに三つ編みをしているか束ねているかのどちらかだ。 そのエドワードの髪を、フレッチャーはひどく楽しそうに二つに分け三つ編みをすると小さな白いリボンを結びつけた。 「兄さんがね、今日エドワードさんに服を買ってくるって行ってたから合わせてみようと思って」 「はぁ?」 「この前ショーウィンドで見かけたんだ。きっとエドワードさんなら似合うよ」 「……お前ら兄弟はよっぽど暇らしいな」 いつものエドワードなら何だこんなものと怒っているに違いない。 それが、こんな風になすがままにされているのは、やはりアルフォンスのことが影響しているからに違いない。 まあ、おそらく、服を買ってきたとしてもそれだけは拒否するだろうけれど。 アルフォンスの為に、男であろうとしているから。 兄だと言い切ったエドワード。 言わなかった自分の性別。 婚約の事実。 全てを無かった事にしてしまおうとしているエドワード。 そんなエドワードに、女性らしい服は禁忌に等しい。 「僕、エドワードさんみたいなお姉さんが欲しかったな」 「フレッチャー?」 「だって、きっとずっと愛してくれるから。何があっても手を離さないで愛してくれるから。だから、エドワードさんみたいなお姉さんが欲しかったな」 「お前には、頼りになる兄さんがいるだろ?」 「兄さんは時々頼りないよ。僕がしっかりしなきゃならない事だってあるし。……大好きだけど」 「だったら、いいじゃないか」 「兄さんとお姉さんは違うよ。そうだ、エドワードさん。兄さんと結婚しない?」 「は?」 フレッチャーの言葉に、思わずエドワードは素っ頓狂な声を出した。 「兄さんと結婚すれば、エドワードさんがお姉さんになるのに。ね、そうしない?」 無邪気な子どもの顔で、フレッチャーは言う。 そのフレッチャーにエドワードは苦笑して。 「ラッセルには、もっとずっといい女が見つかるさ」 「僕、エドワードさんがいい」 「でもなぁ」 「ああ見えても兄さん男前だし、国家錬金術師だし、お買い得だと思うんだけど……」 「あのな、フレッチャー……」 「……分かってるよ」 フレッチャーも分かっている。 ラッセルの思いは届かない事。 エドワードが誰を必要としているかを。 それでも、言わずにはいられなかった。 一人で立つエドワードはあまりにも寂しすぎて。 「兄さんがエドワードさんを攫う前に、アルフォンスさんがちゃんと迎えに来てくれますよ」 「…………フレッチャー」 「大丈夫です。アルフォンスさんはちゃんと思い出してくれますよ。だって、エドワードさんの隣にいないアルフォンスさんなんてアルフォンスさんじゃないもの」 ふわり。 「エド、ワードさん?」 エドワードは自分の目の前にいる少年を優しく抱きしめると。 「ありがとな」 小さく小さくそう零した。 「…………」 驚くほど小さな背中。 フレッチャーは両腕を回してエドワードを抱きしめる。 そうして、ショーウィンドウに飾られていた真っ白なウエディングドレスのような服を思い出していた。 なくしたものはおおきくて でもそれにきづけなくて てにいれたときには きずだらけになっているかもしれない それでも たいせつなものを すべてけしてしまわないで |