無くしたものの重さは、きっと計り知れなくて。 神様なんていない。 そう思うには十分で。 ただ、信じるのは己のみ。 だから、笑っていられるんだろう? 【アゲハ蝶 8 嘘と苦痛】 「不覚だ」 真っ赤な目で、エドワードは言う。 「何が不覚何だね?」 「あんたの隣で泣いた」 エドワードは酷く不服そうで、口を尖らせ後ろ頭をぼりぼりとかいていた。 「鋼の」 「何だよ」 「人間は風船なんだよ」 「風船?」 「そう、空気をたくさん吸い込んで大きくなって、最後には破裂する。あれと同じだ」 「……だから?」 「今の君は風船のぎりぎり一杯のところだったんだ」 ロイは思う。 こんな簡単な言葉で泣く娘ではない筈だと。 もう、限界だったのだ。 体の中に詰めた悲しみは既に許容範囲を超えていて、いつ破裂してもおかしくない状態だったに違いない。 それに気づけなかったのは、誰もが「アルフォンス」を探していて「エドワード」に気づけなかっただけ。 着実にエドワードの悲しみは増えていて、ほんのちょっと突付いただけで、溢れてしまった。 「そんなにぎりぎりか、オレ」 「少なくとも、いつもの君ではないよ。精彩に欠けている」 「そんな風に、見えるか?」 「鏡を見ていないのか? 大分疲れているぞ」 ロイの言葉に、エドワードはむにと自分の頬をつねる。 エドワード自身は何も変わっていないつもりだった。 アルフォンスの言葉を受け止めて、ちゃんと飲み込んだつもりだった。 そう、それは「つもり」だっただけ。 飲み込めていない、受け付けていない、拒絶したい。 アルフォンスの言葉を、言動を、全てなかったものにしてしまいたかった。 自分が知っているアルフォンスでいて欲しいと願っていた。 だけど。 アルフォンスは変わっていた。 記憶をなくしていた。 大事な人を見つけていた。 何よりも、大切な人を。 「……弟離れできないオレが悪いんだよな」 ぽつり、とエドワードは一言呟く。それを聞いたロイは少しだけ目を見開いて、それからエドを見た。 「鋼の……」 「だってそうだろ? 普通に考えたら、弟離れできてないオレが悪いんだ」 「それは、本音か?」 「どうとでも。でも、弟離れしなきゃあいつは幸せにはなれない、違うか、少将」 エドワードが強い視線でロイを捉える。 記憶喪失の人間が記憶を全て取り戻すのはごく稀だ。 思い出せない過去の記憶を取り戻す事を考えるより、今が幸せならばそのままの方がいい。 守りたい人がいて、一緒に幸せになれるなら。 自分と一緒にいるより、遥かに幸せだ。 エドワードは何度も自分にそう言い聞かせた。 まるで、呪いのように。 「オレが、きちんとアルの状況を理解して、弟離れすれば、あいつはクリスティさんと幸せになれる。そうじゃないのか?」 「……そんな自己犠牲愛など鉄のが望むと思うか?」 「話さなきゃいい。そうすれば、アルは今の人生を望むさ。これまでの人生なんて。必要な部分だけ話してやればいい」 「……鋼の」 「確かにまだ、オレは理解できてない。だけど、オレが、あいつの兄貴である事を理解すれば、すべて丸く納まることだろ」 誰も被害を受けない。 むしろ、幸せになれる事だ。 「君自身の幸せはどうなる」 「オレの、……そんなもの、アルが生きてくれていれば十分だ」 そう言ってエドワードは、いつもの笑顔を零した。 「おいおい、マジかよ……」 ハボックはべたりと机に額をくっつけ、溜息と共に言う。 「この事、ラッセルのヤツには?」 「まだ伝えてないわ」 月さえ浮かばない闇夜の中にぽっかりと灯りが一つ。 音を外に漏らさないように施されたその部屋で、アルフォンスを探していた中心人物、ロイの有能な部下達はホークアイから事実の一部を聞いて驚きを隠せずにいた。 「…それで、大丈夫なんスか、アルのヤツ」 「どうも人間関係の記憶を失っているだけだから、国家錬金術師である事に問題はなさそうよ」 「それより問題は」 「……婚約者が出てきたって事か」 ブレダが重く溜息を付く。 ただの記憶喪失であったならまだ許せる。不幸な事故だと哀れむ事も出来る。人間関係ならまた築いていけばいい。必要な事があれば話してやればいい。 問題は、記憶喪失の間に婚約者が出きた事だ。 しかも、身重の。 「しかもエドワード君はまた、一人で飲み込んでたんですか?」 前に、一人で飲み込んで背負い込んで壊れかけた事がある。 その時の事を思い出してフュリーは下唇を噛んだ。 「そのようね。かなり疲れてるみたいだったわ」 ホークアイも溜息を付く。 誰もが想像し得なかった出来事。 見つかったのは良かったけれど、これでは見つからない方が良かったのかもしれない、なんて思ってしまう。 エドワードとアルフォンス。 対でいなければ壊れてしまう二人なのに。 アルフォンスは大切なものを見つけて。 エドワードは大切なものを失った。 あまりにも、虚しい結末。 「俺、あの二人の結婚式楽しみにしてたのにさ」 ぽつり、とハボックが呟いた。 「アルフォンスを絶対からかってやろうと思ってたのに」 実際、あの二人の結婚話はかなりの割合で進んでいた気がする。 本人達は無頓着だったが、周りの人間がいろいろと画策していた気がする。 記憶を失う前なら、結婚してもしなくても同じ事だと思っていたけれど、こうなってしまうと早く結婚させておけばよかったと思ってしまう。 何もかも、過去形だけれど。 「どうして、幸せって手に入れたと思ったら逃げるんでしょうね」 同じ事を思ったのか、フュリーもそう呟く。 たくさんたくさん辛い目にあってきた子供達だから、それと引き換えの幸せは大きかったはず。 それなのに。 「やりきれませんね」 ファルマンが額を押さえて呟いた。 「…で、少佐、当分の間俺達はどうすれば?」 「通常任務に戻ってもらう事になるわ。…もちろん今ここで話した事は秘密にして」 「……アルフォンスのヤツに会ってもスか?」 「そう。アルフォンス君と、それから……」 「ラッセルには俺が話しますよ。納得してくれるか分からないけど」 「そう、じゃあ、お願いするわハボック大尉」 ハボックは了解と呟くと、ひらひらと手を振る。 それを見たホークアイはまた溜息を一つ吐いた。 「えーっと、それは直訳するとアルを殴っていいって事ですか」 「まあ、そうなる」 「じゃあ、早速……」 「待て、ラッセル」 今にも会議室から飛び出して行きそうなラッセルを捕まえて、ハボックはラッセルを見た。 「大尉、俺にまだ何か言いたい事があるんですか?」 半眼の銀色の瞳が、ラッセルの怒りを露にしている。 「いいから、ちょっとここに座れ」 ハボックはラッセルを引き摺り戻して、椅子に座らせるとその前を陣取って同じように椅子に腰掛けた。 「アルフォンスには、大事なものがある」 「エドワード以上に? あいつにとって大事なものなんてそれだけでしょう」 自分の命さえ要らないと言ったアルフォンス。 何を引き換えにしても守りたいと願った相手。 それ以上の相手がいるとは思えない。 「……だから、言ってるだろう?」 「その、婚約者とか言う女がいる事? 関係ないですよ」 ラッセルにとって、大人たちのいう事は不思議で一杯だった。 誰もがエドワードとアルフォンスのことは認めているし、二人が幸せになればいいと願っている。その為に尽力してきた筈だ。そうしてラッセルも、一歩引く事を覚えた。 あの二人の幸せは、誰にも邪魔できないものだと誰もが思っているはずなのに。 それなのに。 大人たちは誰しもが、エドワードとアルフォンスの関係を口にすることを禁止した。 その理由がラッセルには分からない。 「じゃあ、聞くが、お前は記憶喪失になって何もわからない時助けてくれた人とそういう関係になって結婚しようかという事になった途端、記憶のあるときの恋人が出てきたらどうなると思う?」 「めちゃくちゃ」 「だろう? 俺だって出来るもんならあの二人を幸せにしてやりたいよ。だけど、出来ないんだ。アルフォンスに記憶が戻らない限り。アルフォンスは頑なにクリスティさんを守ろうとしてるから」 ラッセルは一度何かを話しかけて直ぐやめると、呟くように。 「そんなに、アルはその、クリスティさんだっけ? を大事にしてるんですか」 「みたいだな。身重の所為もあるだろうけど、ホント大事にしてる」 まるでエドワードを守るように。 ハボックは最後の一言は言わず、その言葉だけは飲み込んだ。 それを言ってしまえば、目の前の少年はきっと本当にここを飛び出して、アルフォンスを殴りに行くに違いない。 それだけは、避けたかった。 だから、飲み込んだ台詞。 ラッセルはハボックの言葉を受けて黙り込んでしまった。 どうしても、出てこない台詞。 アルフォンスがその女を守るなら、エドワードは俺が守る。 エドワードの事はずっと好きだった。 どんな女より強い存在感を放って、ラッセルの中にいた。 今なら、もしかしたら、エドワードの心が自分に動くかもしれない。だけど、それは決して有り得ない事だと分かっている。 エドワードにとって、アルフォンスは唯一の男だから。 エドワードが他の男を見る事はない。 「……俺、出来るかわからないけど」 すっとラッセルはハボックを見て。 「アルの記憶、取り戻してみる」 「ラッセル?」 「出来ないわけじゃないんだ。可能性がないわけじゃない。だから、俺……」 元々医療系の錬金術に長けているラッセル。可能性がないわけじゃない。 「俺は、そのクリスティさんには悪いと思うけど、やっぱりアルとエドワードが一緒にいないと嫌だ」 「ラッセル……」 膝の上で握られた拳。 本当は、アルフォンスを殴りたくてしょうがないけれど、その矛先を自分の可能性に変えた。 出来るはずだ、と。 「出来なきゃ、嘘だろ。こんなのだって国家錬金術師の端くれなんだからさ」 アルフォンス。 エドワード。 大切な人たち。 そう、家族と錯覚してしまいそうなほど、大切な。 「アルのヤツには、エドワードの事は絶対言わないから、アルに会わせてくれ」 ラッセルはお願いしますと頭を下げる。 「……本当に話さないんだな?」 「はい」 「殴らないな?」 「…分かってます」 「じゃあ、近いうちに会わせてやるよ」 ハボックはラッセルの頭を撫でると、ぎこちない笑顔を浮かべた。 「お姉ちゃん」 「何? エディ」 「王子様に見つけてもらえなかったお姫様はどうなったの?」 「え?」 「昔話してくれたでしょ?」 エドガーは小首を傾げてエメロードを見る。 「ああ、人魚姫ね。あれは、そう……」 アルフォンスが見つめる中、楽しそうに話す二人。 どうやら、人魚姫の話らしい。 アルフォンスもその二人の会話を聞いていたけれど。 「あの後ね、お姫様は見つけてもらえなくて海に飛び込んで泡になったの」 泡になったの。 何故か、その言葉と一緒に自分の兄だと名乗った人の顔が浮かんだ。 わらうことにはなれた でも なくことにはなれていないから ひとりでいることをおもいだしたくない ないたり さけんだり わめいたり ただそれだけのことで もどってくるはずはないから |