聞こえていた言葉に耳を塞ぐのは飽きた。
 届かない言葉を叫んで声は失った。
 残されたのは思うことだけ。



 君の幸せを願うのは、きっと間違いじゃない。





【アゲハ蝶 7 深い闇が見えた】





「ボクの、兄さん……?」
 不敵な笑みを浮かべるエドワード。
 その真意を図る事は出来ない。
 ただ、いつものように笑っている。
「そうだ。信じられないかもしれないけど、オレがお前の兄貴だ」
 記憶をなくしたアルフォンスに、兄弟の出現は驚き以外の何物でもない。
 確かに、銀時計を調べれば家族に辿り付くとは思っていたけれど。
 ゆっくりでいい、少しずつでいい。少しだけでも自分を知っている人に会えば、自分が何ものか分かるかもしれないとは思っていた。
 けれど、これではあまりにも唐突だ。
「あの、これ、嘘じゃ……ないですよね?」
 アルフォンスの言葉に、ロイは困った顔をしながら首を縦に振る。
「本当に、兄さん?」
「疑り深いな、お前。そう言うところは変わってないんだな」
「そう言うのは慎重だと言うんだ、鋼の」
「どっちもどっちだろ。兎も角お前はオレの弟なんだよ」
 真っ直ぐな、笑顔。
 いつもの笑顔。
「……アルのお兄さん? だったらこの前家に来たのは…」
「あんたを狙った訳じゃない。ただ行方不明になった弟探してただけだから」
「鋼の」
「何だよ」
「君は、この二人に会っていたのか?」
「……まぁな。でも、何か雰囲気がいつもと違うから黙っておいたんだけど」
 エドワードはある日を境に部屋から出なくなった。睡眠もろくに取っていないだろう。食事も喉が通らない日もあった。おそらくその辺りで、遭遇していたに違いない。
「まさか記憶喪失とはな。お前これで二度目だぞ、二度目」
「え?」
「昔やっぱりちょっとした記憶喪失だったんだよ。その時は運良く記憶が戻ってきたけど」
 こんなにも脆く辛い事が今まであっただろうか。
 ホークアイはそう思う。
 エドワードはいつもの通りだ。
 アルフォンスは記憶がない。
 今、この場所で、誰が一番辛い?
 エドワードが一番辛い筈。
 けれど、この少女は飲み込む事に長けていた。
 何もかも飲み込んで、前を向く強さを持っていた。
 それが、今にも崩れそうな硝子細工だとしても。
 しかし、ここで。
 エドワードとアルフォンスの関係をエメロードと言う少女に話したならば、信じてくれるだろうか。アルフォンスが信じるだろうか。
 その可能性は薄い。
 今のアルフォンスにとって、一番はエドワードではない。エメロードなのだ。
 エドワードは何もかも飲み込んで、アルフォンスの兄であろうとしている。
 それが、今この場所を上手く纏める一番の方法だから。
 自分の気持ちは、無視して笑っている。
「クリスティさん、だっけ」
「はい」
「アルのヤツ、頼むな。大人しいようで頑固だから」
 その言葉に眩暈を覚えたのは誰だろう。
 エドワードの口から零れる言葉は、研いだばかりの刃物のようだ。
 いっそ叫んでしまいたくなる。
 エドワードの名前。
 エドワードとの関係。
 交わした約束。
 長い間に培った絆。
 何もかも。
 ロイはきっとそんな事を言えるほど弱くはない。
 ホークアイも、今そんな事を言えば何もかも崩れていくのが分かっていた。
 耐えられなかったのは。
「ねえ、エメロード」
「何?」
「本当に、アルフォンスさんと結婚するの?」
「そうよ」
「知り合って間もないのに?」
「そんな時間なんて関係ないわ。私にはアルが必要だし、アルも私を必要としてくれているもの」
 ねぇ、アル。綺麗な声でアルフォンスの名前を呼んで、エメロードは微笑む。その微笑にアルフォンスは笑って答えた。
「だって、アルフォンスさん、記憶が無いんだよ?」
「それは関係ないんです、シェスカさん」
「関係ないわけないじゃないですか!みんながどんなにアルフォンスさんを探したか…エドワードさんだってどんなに…」
 今にも泣きそうなシェスカを見て、アルフォンスは困ったように笑う。
「それは、分かってる。でも、ボクは、自分の記憶よりも彼女を守りたい。記憶なんて無くったっていい。エメロードとエドガーだけが今のボクの生きている価値だから」
 ぱん。
 それは突然だった。
 アルフォンスの頬を勢い良くエドワードが叩く。
「鋼の!」
「エドワード君!」
 とうとう黙っていられなくなったのか、エドワードはアルフォンスの言葉を頬を平手打ちにする事で遮って、眉間に皺を寄せる。
 エドワードが怒るのは当たり前だ。
 アルフォンスが守っていたのは、エドワードなのだから。
 エドワードが守ってきたのは、アルフォンスなのだから。
「あんまりふざけた事言うなよ、アル」
「……」
「彼女だけが生きる価値? ふざけるな! どれだけの人間がお前の事を心配してたと思うんだ! お前が必要だから、みんな探してたんだ! 彼女と結婚? 上等だよ。でも、忘れるな。この人たちやお前の一番大事な友人が、必死でお前を探してたんだ! それだけは忘れるな」
 兄。その言葉に嘘は無い。今の状況で誰がアルフォンスの兄であるかは一目瞭然だ。誰が、この少年に見える少女が、この男の婚約者だと思うだろうか。
「お前の一番が彼女ならそれでいい。幸せになればいい。だけど、お前を愛してくれた人たちの愛情まで記憶と一緒に捨てようとするな」
「にい、さん……」
 自然とアルフォンスの口からその言葉が飛び出す。
 そう、アルフォンスは忘れてはいけなかった。
 どれほどの愛情に包まれていたかを。
 例え、一番愛情を注いでくれた半身とも呼ぶべき少女の事を忘れたとしても。
「……ごめんなさい」
「分かればいい」
 そうして、エドワードはいつもの笑顔になる。
 そして。
「それから、少将」
「何だね」
「選択肢はもう一つ。記憶が無くても錬金術は使えるから、死亡したなんて事にしないで、鉄の錬金術師の妻としてクリスティさんを娶るって方法があるだろ?」
「エドワード君!」
 ホークアイが思わずエドワードの名前を呼んだ。
「そうだろ、少将」
 真っ直ぐなエドワードの瞳。それは、ロイを捕らえて。
 眉間に皺を寄せて、ロイは悩んでいたが「そうだな」と小さな声で呟いた。
「確かに、記憶喪失である事を隠して鉄の錬金術師のまま彼女を娶る事は可能だろう。腕も鈍っていないようだしな」
「本当、ですか?」
「ああ、君達がそれを望むならな。鉄の錬金術師の名を捨てる事も可能だが、ゾルゲ将軍と何かあったとき、国家錬金術師が傍にいたほうがいい事もある」
「つまり、いくらでも選択肢があるってことだ」
 エドワードはアルフォンスの肩をポンと叩き。
「お前が幸せになる方法はいくつでもあるんだよ、アル」
 優しい笑顔で、アルフォンスとエメロードを見てそう言った。
「お腹の子ども為にもゆっくり考えろ」
 あまりにも寂しい言葉を繋げて。





「鋼の」
「何だよ」
「君はいいのか?」
「何が?」
「彼女の事だ」
「彼女の事だのなんだの言ったって、どうしようもないだろ。彼女、身重だし。これ以上心配とかそんなのかけるわけにはいかないし」
 ロイの執務室はランプの灯りだけで照らされており、どこか寂しい。
 そんな中で、ロイとエドワードは話をしていた。
「しかし、良く彼女が身重だと気づいたな」
「お腹、大きくなってただろう?」
「そうだったか?」
「そうだよ。あんた時々無能だよね」
「……鋼の」
「悪い悪い。でも、本当にクリスティさんのお腹には子どもがいる。……まあ、アルの子どもかどうかは分からないけどな」
 アルはエメロードの体が心配だからとエドガーと三人で宿を取り、シェスカはつかれきった様子で自宅に帰っていった。
 残されたのは、かけるべき言葉を失ったロイとホークアイ。そして、いつもの振る舞いと何の代わりも無いエドワード。
 落ち込みも、喜びもしない。
 ロイは何とか話をしようとホークアイに先に帰るように言うと、エドワードを執務室に呼び、今に至るわけだが、エドワードは飄々としていて自分の身の上に起こった事など些細な事だと言わんばかりだ。
「アルのヤツは、それ背負う覚悟みたいだし、今オレたちが何を言っても聞かないだろ?」
「……確かに、かなり頑固になってるな」
「それもあれだろ、えーっと」
「ゾルゲ将軍」
「そ、あの色ボケで有名な将軍が関わってるから、過敏になってんだよ」
「……君を妾にしたいと言ってきたしな」
「オレもかよ」
「ああ、いま丁重にお断りしている途中だ」
「……絶対首を縦に振るなよ、少将」
「分かっている」
 エドワードは何も変わってはいない。
 そう思える。
 けれど、今のエドワードは確かに無理をしていた。
 どこか冷めた口調で現実を受け止めている。
「あの将軍からでもアルなら守りきって見せるさ」
「君は誰が守るんだい?」
 ロイのその言葉にエドワードは笑って。
「自分で守るよ。そんなにガキじゃない」
 そう言った。
「……鋼の」
 ロイは椅子から立ち上がり、エドワードの傍まで行くと。
「何、少将」
 ぎこちなくその手を伸ばしてエドワードを抱きしめる。
「少将?」
「私は、鉄のの記憶が戻って欲しいと思ってる」
「…………」
「君と、鉄のが一緒になって欲しいと願ってる」
「…………」
「何か方法があるのなら、何でもしよう」
「…………」
「だから、そんなに不幸を一人で背負い込むな」
「…………」
「私達は知っている。君が鉄のをどれ程愛していたか、鉄のが君を愛していたか、みんな知っている」
「……少将」
「泣きなさい。今の君には涙が必要だ」
「………そんな、オレ、泣きたくなんか…」
 エドワードの声が震えた。
 そうして。
「君は私の大事な娘だ。幸せになって欲しいと願っている」
「………っ」
 瞳から大粒の涙。
 声にならない悲鳴を上げて、エドワードは静かに泣き続ける。
 小さな子供のように。
 今までおそらく抑えてきたのだろう。
 泣く事、悲しむ事。
 アルフォンスに対する感情を全て我慢してきたはずだ。
 アルフォンスの幸せを考えて。
「…鋼の……」
 ロイは、祈らずにいられなかった。
 どうかこの娘に幸せを。
 大きなものでなくていい。
 小さくてもいい。
 どうか、この娘に幸せを。





 なくことはいつでもできる
 いまはただ
 わらっていたい
 たとえ、こわれてしまっても
 ただ、わらっていたい



 それがきみのしあわせにつながるなら






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