それは決めていた事。 あの時から決めていた事。 今更だ。 嘆いても 喚いても もう、遅い。 引き返せない場所に、立っているのだから。 【アゲハ蝶 6 切れていた糸】 「少将、お話したい事があるのですが」 いつに無く厳しいホークアイの声。その声に、ロイは片方の眉を上げてホークアイを見た。 「何だ?」 あまり良い知らせでない事は確かだ。 普通の伝達ならばホークアイが表情を崩す事は無い。それが、今は険しい顔をしている。 「ここで構わないのか?」 ここは、ロイの執務室ではない。ホークアイやハボックなどが机仕事をこなしている場所だ。防音されているわけでもなし、情報は筒抜けになる。 「いえ、ここでは無理です。出来れば執務室の方で」 「そうか。それなら場所を移動しよう」 かたん。 ロイは座っていた椅子から立ち上がり、ホークアイの隣に並ぶ。 そうして二人はその場所を後にした。 昼間だというのに、カーテンのかけられた執務室。 ホークアイは、執務室に入るや否や、窓を閉じ全てのカーテンを閉じた。それから、盗聴の危険性が無いかあちこち確認し、そうしてやっとホークアイは口を開く。 「少将、落ち着いて聞いてください」 「何をだ?」 「……アルフォンス君が、発見されました」 「何だ、…と?」 「アルフォンス君が発見されたんです」 「どこでだ!」 ホークアイの言葉を聞くや否や、ロイはホークアイに詰め寄って声を荒げた。 「落ち着いてください、少将。あまり大きな声を出されては困ります」 「しかし…」 「アルフォンス君を駅の方でシェスカが発見しました」 「あの子が、か?」 「はい。先ほどその事を知らせに来てくれました」 震えながら、今にも泣きそうになりながら、それでも報告する事を選んでくれたシェスカ。 あの事実は彼女一人が持つには重過ぎる。 それは、ホークアイにとっても同じ事だけれど。 「なら何故、君は喜んでいないんだ?」 「喜べない事態だからです」 「喜べない事態…?」 ホークアイの言葉に、ロイはすっと目を細める。 駅で発見されたという事は、五体満足で「生きた」ままで発見できたのだろう。 それを、喜べない事態。 かなり重い事態と見て間違いないだろう。 「何か、あったのか」 「はい」 「何が、あった」 「アルフォンス君は、記憶を失っているそうです」 「何だと!」 再びロイは声を荒げた。 「お願いですから、落ち着いて聞いてください、少将。外に漏れては大変な事なんです」 「確かに、外に漏れたら一大事だが、何故、記憶を……」 「それについては、分かりません。ただ、アルフォンス君が記憶を失っているのは確かな事です」 「…間違いないんだな」 「はい」 「…体の方に異常は無いのか?」 「シェスカの情報ですと、記憶以外は問題ないようです」 ロイは片手で顔を覆い、言葉を探す。 何ていえばいい。 どうすればいい。 浮かんだのは、鋼の錬金術師の顔。 あれは、この事実を受け止められるだろうか。 一番大切なものが記憶を失っている、この事実を。 「しかし、記憶が無くても無事なら何よりだ」 搾り出すように、まるで自分に言い聞かせるようにロイはそう言って、応接用のソファに腰を下ろす。 「それが……ただ記憶を失ってるだけじゃないようなんです」 「…? どういう状態何だ」 「シェスカの話では……今月中に、ある女性と結婚するそうです」 時が止まる、と言うのはこういう事を言うのかもしれない。 ロイは、考える事が出来なかった。 その先を。 ホークアイの言葉の先を。 結婚。 誰と誰が。 あり得ない、と誰かが言う。こんなのは現実ではないと願望が叫ぶ。 けれど、それは紛れも無い事実で。 「どういう事だ……」 自然と声のトーンが下がる。 「記憶を失っていた間、一緒に暮らしていた女性と結婚するそうです」 「……それは、まだ誰にも言ってないんだな?」 「はい」 「森羅のにも伝えてないな?」 「はい」 浮かぶのは愛しい娘の顔。 愛しい息子の顔。 誰かが悪いわけじゃない。 それでも、今現実に起こっている事は、誰かがあの二人の運命を捻じ曲げようとしているとしか思えなかった。 何が不満だ。 何が不服だ。 あの二人が幸せになる権利を奪う事など誰にも出来ないのに。 「……ここで、話をする事は出来ないな」 「はい…」 ここには「鉄の錬金術師」を知る人間が多すぎる。 記憶を失った事が知れ渡れば、どうなるか分からない。 それ以上に。 鉄が結婚するなどとここで言い出せば、それはあの娘にも伝わってしまう。 「ホークアイ少佐」 「はい」 「場所を確保してくれ。私が行く」 「分かりました」 ホークアイは一礼して、執務室から出て行った。 残されたロイは、ソファに深く座りなおして天井を仰ぐ。 それ程に、鋼のが大事か はい 自分の命よりもか? はい 君の人生の全てを賭けてもか? ボクの未来なら、全部兄さんにあげます ……鋼の以外必要ない、とそう言うわけだな ボクの全てですから あの時の言葉に嘘は無かった。 全てだといった、アルフォンス。 何を失っても、失えないと。 それ程にエドワードが大事だと言ったアルフォンス。 それが。 別の女性を娶るという。 「悲劇か、これは」 ぽつりと口をついた言葉。 喜劇のような悲劇。そうとしか思えない。 幸せになるはずだったのに。 幸せになれる矢先だったのに。 それなのに。 訪れた現実はこんなにも辛い。 何故、記憶を失わなければならない。 何故、あの娘以外の娘と結婚をしなければならない。 ロイは詰めていた息を、ふっと吐き出す。 考えているだけなら誰でも出来る。 今は、動かなければ。 聞かなければ。 その口から真実を。 ゆっくりと立ち上がり、かけてあったコートを手にする。 そして。 ロイは、執務室を後にした。 ホークアイが用意してくれたのは、中央司令部の管轄下でありながら、殆ど人の通らない資材置き場の一角に設けられた休憩所を兼ねた粗末な建物だった。 確かにここであれば、人が入ってくる事は無いだろう。同時に、アルフォンスを「アルフォンス」だと認める人間がいない。それが、何より好都合だった。 粗末な建物とは言え、それなりに設備は整っている。 ホークアイはサイフォンで珈琲を沸かしながら黙って座っている五人を見た。 一人は何も語ろうとしないロイと、緊張しきっているシェスカ。 それから、少し脅えた素振りを見せる少女とその少女にしっかりと捕まっている少年。 そして、探して、ずっと探して血眼になりながら探し続けた青年がそこには座っていた。 「私の名前はロイ・マスタング。階位は少将だ」 「あ、えーっと、アルフォンスです」 名前を名乗られたら名乗る。こんなところは記憶を失っているとは思えない。前のままだ。 「わ、私は……エメロード。エメロード・クリスティです」 アルフォンスが名乗った事に少し安心したのか、エメロードはきちんと自分の名前をロイに告げる。そうするとエドガーも習って自分の名前を告げた。 「君達が何故こんなところにいるのか、分かってるね?」 出来るだけ言葉を選んで、ロイは柔らかな言葉で話しかける。 「これ、ですよね」 アルフォンスが差し出した、銀色の時計。それはまさしく国家錬金術師の証拠である銀時計だった。 「そうだ。記憶が無いのに、そんな事は分かるんだな」 「多分、無くなった記憶は一部だと思うんです。自分が国家錬金術師である事はこの時計で分かったし、錬金術を使う方法も忘れていなかった」 「じゃあ、君がなくした記憶と言うのは?」 「その他の、全てです」 「…君の周りにいた人間を覚えているかい?」 「全く覚えてません」 「……だろうね」 ロイは腕を組んでソファの背もたれに凭れ掛かる。 「クリスティさん、これから聞く事は君の重荷になるかもしれない。それでも君は聞きたいのかい?」 「……アルの記憶の話ですよね。だったら、どんな事でも。記憶が無いのはあまりにも辛すぎます。 はしばみ色の瞳に陰りは無い。真剣そのものだ。 「君は、軍人が嫌いだと聞いたが?」 「…嫌いです。だけど、アルは違う。アルは……守ってくれましたから」 そう言ってエメロードはアルフォンスを見上げる。そうすると、アルフォンスは大丈夫だよと笑った。 その笑い方は、以前の、まま。 ロイはその瞬間、心臓を鷲づかみにされたような気がした。 アルフォンスが笑顔を向けていたのは、愛しい娘にだけ。 心を許した友にだけ。 信頼したものだけに見せていた笑顔。 それが、今、ここにある。 それは、酷く痛くて辛い。 「そうか、なら話は早い。アルフォンス君。君の名前は、アルフォンス・エルリック。国家錬金術師で二つ名は鉄。二月ほど前、ある任務をこなしていた途中で行方不明になっていたんだ」 「行方、不明……?」 「そう、誰も君を見つけられなかった。二ヶ月ほど、ずっと君を探していたんだ」 どんな小さな情報でも足を運んで探して。ずっと探し続けてきたロイの配下の軍人や友人達は血反吐を吐く思いをして「生きている」と信じながら探し続けてきたのだ。 「それは、ボクが国家錬金術師だからですか?」 「違う。君が、アルフォンス・エルリックだから探し続けたんだ」 「…………」 ロイの話を真剣に聞きながら、アルフォンスは考え込む。 おそらく、頭の中でいろいろと整理をしているのだろう。記憶の隙間を埋めるように。 「……君には二者択一しか残されていない」 「え?」 ロイの言葉に、思わずホークアイは驚きの声を漏らした。 「アルフォンス君……いや、鉄の。君には二つの道しか残されていない。一つは、記憶はないままだが軍部に戻ってくる。もう一つは、君は死亡したことにしてクリスティさんと暮らす。このどちらかだ」 「少将!」 シェスカが困ったような顔をして、ロイを見た。 「そんなの、間違ってます!当人達が話し合いをしてそれで探せば道なんて幾つも…」 「シェスカ……話し合いは最初から決裂している。鉄のの選択次第で道は決まるんだ」 「でも」 「その先の発言は許可しない。大人しく座ってくれ、シェスカ君」 シェスカの発言を遮ると、ロイはアルフォンスを見て。 「今日明日で決めろとは言わない。それでも、最後に選択するのは君だ。考えるだけ考えて答えを出して欲しい」 「……ボクの心は決まっています」 「ほう、もう決まっているのかね?」 「はい。ボクは、……エドを守ります」 「エ……ド、だと?」 その名前の呼び方に、ロイは思わず目を見開く。 その口から飛び出た聞き覚えのある名前。 エド。 だけど、そんな呼び方はしない。 ずっと「兄さん」と読んでいた筈だ。 エメロードの略称だが、何故か受け容れられない響きだった。 「はい。ボクは彼女に助けられた。だからどんな事をしてでもエドとその家族を守りたいんです」 「………アルフォンス君」 珈琲をそこにいる人間に配りながら、ホークアイはアルフォンスを見る。 「私からも意見を言わせてもらうわ。私はリザ・ホークアイ。少佐よ。こんなところで私が発言するのは間違ってる事かもしれないけれど、言わせてもらうわ。……貴方が記憶を失う前に大事な人がいたとは思わなかったの? その大事な人や大切な人たちをすべて振り払っても彼女を取る?」 「……大事な人?」 「そう、大事な人たち。私達は知ってるから、それを失ってまで彼女を取るのかどうか知りたい」 「…でも、ボクの大事な人たちには、誰かがいるんでしょう?」 「そうね、いることにはいるわ」 「だったら、ボクは、ボクしかいないエドを取ります。エドを守り抜いて見せます」 「何から守ろうとしているんだね、君は」 「わかりません。ただ、貴方方軍人だという事は確かです」 「我々が彼女を狙う? そんな筈は無い」 「ゾルゲ将軍」 「え?」 「彼女は、ゾルゲ将軍に狙われているんです。だから、誰かが守らなきゃ…」 嫌なところで糸とは繋がるものだと、ロイは大きく溜息を付き「あの色ボケ将軍が…」と小さく零した。 「ゾルゲ将軍に関しては我々が何とかしよう。同じ軍人として戦えない相手ではない。君では無理だ」 「それでも!」 だん! アルは力強くテーブルを叩くと。 「彼女にはボクしかいないんです。それと同じで今のボクには彼女しかいないんです!」 震える声でそう言った。 耳を塞ぎたかったのは誰だろう。 ロイも、ホークアイも、シェスカもその叫びに応える事が出来ない。 アルフォンスはかなり一直線に生きている。 守る事を決めたら、頑なに一筋に守るだろう。 いま、その様子をまざまざと見せ付けられている。 「……大事な人たちには悪いと思います。でも、ボクには……」 「それでいいんじゃねーの」 かちゃり、と扉が開いた。 そこは誰も来ないはずの休憩所。誰にもここに来る事を知らないし教えていない。 なのに、そこに立っているのは。 「鋼、の……」 「ひでぇよ、少将。見つかったんなら見つかったって言ってくれなきゃ。オレだってラッセルだってずっと探してたんだから」 かつかつとブーツの底を鳴らして、エドワードは部屋に入ってくる。 「おーアル。元気だったか?」 「え?」 「体の方は大丈夫そうだな。良かった良かった」 「鋼の、鉄のは、今は……」 「記憶を失ってるんだろう?」 さらりと。 隠していた事をエドワードは当たり前のように零した。 「自己紹介が遅れたな。あの時はそれどころじゃなかったし」 エドワードが来た所為でエメロードは更に脅えてアルフォンスにしがみ付く。 「貴方は!」 「言っとくけど、オレは別にお前達を狙ってるわけじゃない。勘違いするのも構わないけど、オレに敵意が無いって事は認めてくれ」 「どうしてそんな事が言い切れるんですか!」 アルフォンスはエメロードを庇うようにして、エドワードを睨みつける。 「どうしてって…」 きょとん、とした顔のエドワード。それからころころと笑って。 「あのなぁ。オレの名前はエドワード・エルリック。お前の兄貴だよ」 そう、言った。 きれたいとをたどっても たどりつけなくて おいてけぼりなこころを ひきずって それでもまえにすすむことを わらいたければわらえばいい |