聡い頭は、考える事を余儀なくし。
 思考は、ずるずると暗闇だけを這う。
 あれは、何。
 いつか、訪れる結末?
 違う。
 あれは、悪い夢。
 現実に垣間見えた、夢。
 願っていたのだろう。
 願っていたのだろう。
 本当は、願っていたのだろう?



 ただ、一人の幸せを。




【アゲハ蝶 3 捕らわれたままの心】




 部屋に入った瞬間、流れ込んだのは暗闇だった。
 ラッセルはその空気に足を止める。
 部屋は暗いわけではない。
 夕日が差し込んだ、柔らかなオレンジ色を零す室内。
 一見すれば、穏やかなその光景。
 そこに、ラッセルが一度垣間見た、もう二度と見る事はないだろうと思っていた暗闇が、そこにあった。
 まとわりつくのは、何の手だろうか。
 覗いているのは、何の深淵だろうか。
 一瞬でも自分を見失えば引き込まれそうな闇が、ラッセルを襲う。
 けれど。
 それを払いのけられないほど、純粋なままじゃない。
 それを知って、引き摺られるほど柔じゃない。
 自分は暗闇を知らない人間じゃない。
 一度、悟られないように大きく深呼吸して、ラッセルは軽く手を上げると。
「よう」
 部屋の主に声をかけた。
 その声に気付いたのか、部屋の主はいつものように笑って軽く手を上げた。
「あの馬鹿、行方知れずだって?」
 包み隠して柔らかくしても事実は変わらない。
 ラッセルは久しぶりに会った友人に、開口一番そう尋ねた。
 ざわり、と闇が広がる感覚。
 それでも、部屋の主は何事もなかったかのように笑って。
「そうなんだよなー。勝手に流れて行きやがった」
「また一人で川に落ちたんだろ?あいつ、変なところで不器用だもんな」
「まあな」
「ま、お前ほど間抜けじゃないから、そのうち見つかるだろ、アルのヤツ」
「何だよ、それ」
「まあ、平たく言うと、良くお前が落ちなかったなぁと」
「てめぇ…」
「とりあえず元気そうだな、エドワード」
「…それは最初に出てくる言葉じゃないのか、ラッセル…」
「いや、あまりにも元気が目に見えたんで聞く必要はないかなぁと」
 嘘だ。
 ラッセルは悲鳴のような声を胸で上げる。
 傍目には何も変わっていない様に見える。
 だが、中身はからっぽだ。
 闇があふれ出して、その中からあふれ出して、部屋を埋め尽くしてしまった。
 そして、空っぽなエドワードだけが残っている。
 空っぽなエドワードと、深淵を抱く暗闇。
 それだけが、この空間を支配していた。
「あのなぁ!」
「はいはい、俺達が言い争いしてる場合じゃないだろ、鋼の錬金術師さん?」
「…ラッセル…」
「全く、水臭いって言うんだよ。あの人から依頼されなかったら、俺今回の事知らないままだったぞ」
 ゼノタイムにいるラッセル。
 時折便りが届くものの、それは殆どアルフォンスからでエドワードからだった事はない。
 そんな状況下のラッセルが今回の事件を知る由は無かった。
 だが、一本の電話がラッセルをこの場所に呼んだのだ。
 電話の主は、ロイ=マスタング少将。
 ラッセルに告げられたのは、ただ一言。
「鉄のが行方不明だ」
 そう、それだけ。
 それは、ラッセルに今すぐ来いといっているのと同じ。
 ラッセルの中で、鋼と鉄の二つ名は特別な意味を持つ。
 ラッセルは電話を受けて直ぐにフレッチャーをつれて列車に飛び乗った。
 フレッチャーにとっても、その二つ名は特別なものだったから。
 そして、今に至る。
「アルのヤツなら絶対に死んでないだろうから。どこかで道草くってるだけだろうよ」
「当たり前だ、簡単に死なせてたまるか」
 何事も無かったかのように笑うエドワード。
 ラッセルは、その闇に気が付いても真意に気付く事は無かった。




 それは、簡単な任務だったのかもしれない。
 エセルバート・ゾルゲからの任務。
 エドワードはその内容を知らなかった。
 アルフォンスはただ、鉄の錬金術師としてゾルゲ少将から命令が下ったとだけ言った。
 笑っていた。
 いつものように「簡単な任務だから」と笑っていた。
 エドワードも信じていた。
 信じようとした。
 心配をかけまいと笑っている弟に、心配な顔なんて見せられるわけが無かった。
 だから何も言わずにエドワードは送り出し。
 他の面々もそれを黙認した。
 しかし、そんな些細な心配りが悲劇へと転じたのだ。
 アルフォンスが赴いた地方を突然襲った豪雨。
 そして、ゾルゲ将軍からの「行方不明」の通告。
 事態は、エドワードの知らないところで、ロイたちの知らないところで最悪の事態に陥ってしまったのだ。
 ゾルゲ将軍は、何の任務か口を割らない。
 ただ「銀時計の回収を」と告げてきただけ。
 ロイやその腹心が腹を立てないはずは無かった。
 ロイが怒りを覚えたのはそれだけではない。
 確かに、国家錬金術師は国家に仕える錬金術師であって個人の所有物ではない。
 だが、鋼・鉄・森羅の三人の国家錬金術師はロイ=マスタングの配下である事は周知の事実だ。
 三人の錬金術師は、ロイの「懐刀」と称される人間。
 ロイの地位からの圧力を考えてか、殆どのものはその三人に任務を下す事はなかった。
 それはロイの手腕が垣間見える部分でもある。
 しかし、ロイと同じ階級、その上、ロイを敵対視しているゾルゲは鉄の錬金術師であるアルフォンスに任務を下した。
 厭味の部分も有ったのだろう。
 鋼と森羅であるならば、その任務を蹴ったかもしれない。
 しかし、鉄となるならば別だ。
 鉄は、普段は酷く温厚な青年だ。かなりの激情しやすい性質である事を知っているのは周りの人間だけ。
 余程の事が無い限りその部分を表に出したりはしないけれど。
 そう、鉄は、思慮深く冷静で、物事を先まで見ることの出来る人間。
 おそらくは、分かっていたのだろう。
 自分がその任務を蹴れば、その任務が鋼に回る事を。
 遠くにいる森羅にその任務は回されないとしても、いつも側にいる鋼に回る事は考えられる。
 鋼には回って欲しくなかった任務。
 そして、一方的にロイを敵視している将軍の任務。
 鉄はロイを慕っていた。
 ロイの不利になるような事はしないつもりでいると、前に零したことがあるくらいには。
 そんな任務をあっさりと受けてしまうには、理由が分かりすぎている。
 だから、ロイは。
 息子のように思ってきた鉄を、どんな任務か分からない任務につかせた上に行方不明にさせておいて銀時計の回収をしつこく要求するゾルゲが許せなかった。
 軍とは私情で動くものではない。
 それでも、ロイや、ロイの腹心は今現在私情で動いていた。
 銀時計の回収と言う大義名分を背負って。
 その事をラッセルが知ったのは、ついさっきの事だった。
 電話をもらい、直ぐに列車に飛び乗って、中央司令部へ。そうして話してもらえたのは、その事実。しかも、一ヶ月は経過していると言う。
 何で、もっと、早くに。
 それが、ラッセルの第一声。
 込み上げてきた吐き気を抑えて、そう零すのが精一杯だった。
 どうすればいい。
 悲観すれば良いのか。
 違う。
 何に驚いていいのか分からない。
 いや、有り得る事実だったのだ、これは。
 自分達が、国家錬金術師でいる限り。
 エドワードが、ロイの養女である限り。
 アルフォンスがアルフォンスである限り。
 いつかは訪れるであろう危機。
 分かっていたのに。
 それが目の前に現れると、人は混乱して正しい道を選べなくなる。
 ラッセルは、どうにかして自分を落ち着かせると、やるべき事を考えた。
 アルフォンスを探す事。
 そして、アルフォンスを失ったエドワードに何もなかったかのように振舞って見せること。
 これだけだ。
 これ以外は、今、必要ない。
 そう思って、エドワードには会ったのだけれど。
「無理」
 ラッセルはロイを目の前にして、そう言い放った。
「やはり、無理、か…」
「…何でもっと早くに俺を呼んでくれないんですか」
 こうなる前に。
 そう言いながら、ラッセルは近くにあった椅子に座ると、がっくりと頭を項垂れた。
「なに、あのエドワード。マジでヤバイんだけど」
「森羅のが言うなら、やはりそうなのだろうな」
「あんた達に手に負えないのが、俺の手に負えるかよ…。まあ、アルなら兎も角、今の俺には無理だ」
 コトン。
 呟くようにそう言ったラッセルの前に、ホークアイがコーヒーを置いた。
「フレッチャー」
「何、兄さん」
「お前、さり気無くエドワードを見張ってろ」
「え?」
「ここにいる人たちや、俺はアルフォンスを探しに行く。その間、お前が側にいたほうがいい」
 話の邪魔にならないようにと隅の方で、ホークアイの淹れてくれた珈琲を飲んでいたフレッチャーに、ラッセルはそう告げた。
「森羅の……」
「今のあいつは、絶対一人にしたらヤバイ。断言できる」
 あれは、アルフォンスと同じだとラッセルは思った。
 片方をなくせば、何かを失う人間と言うのが世の中にはいる。
 アルフォンスとエドワードの場合もそうだ。
 アルフォンスの崩れた音を聞いた事がある。ラッセルは知っている。
 あの中から溢れてくる、闇を。
 エドワードもその中に同じ闇を孕ませていた。
 違うけれど、同じもの。
 一人にすれば、きっと闇は弾けて持ち主を覆うだろう。
 今のエドワードは、まさにその状態だった。
「確かに、フレッチャー君は適任かもしれませんね」
 ホークアイはそっとフレッチャーに視線を流して言う。
 最初にエドワードと一緒にいるべきだと言われていたのはホークアイだった。
 だが、ホークアイはそれを引き受けなかったのだ。
 自分の存在は、エドワードを弱くすると言って。
 一度崩れた姿を見たことがあるから。
 だから。
 エドワードはいとも簡単に崩れてしまう。
 弱さを認めてしまう。
 それではいけないのだ。
 今のエドワードは虚勢でもなんでも、強くなければならないのだ。
 そうしなければ、エドワードは自分を見失う。
 ホークアイは、きっと優しい言葉をかけてしまうから。
 だから、エドワードは弱くなる。
 ホークアイはその事を分かっていて、引き受けはしなかった。
 しかし、フレッチャーは。
 エドワードより年下で、何より「弟」の領域にいる人間だ。
 エドワードは、決して弱い部分を見せようとはしないだろう。
「僕で、大丈夫、かな」
「フレッチャー君以外、適任者はいないわ」
 少し不安そうな素振りを見せるフレッチャーの頭をホークアイは優しく撫でる。
「私達が持ってないものを持ってる。だから、貴方しかいない」
「そういうわけだが、フレッチャー。頼めるか?」
 ロイはちらりとフレッチャーを見る。
 その視線を受けて、フレッチャーは。
「はい」
 そう、答えた。
「よし、じゃぁ、エドワードの事はフレッチャーに任すとして…俺は何をすればいい?」
「お前はオレと一緒に動いてくれると助かるんだが」
「ハボック大尉とね。了解」
 煙草を吸いながらぼりぼりと頭を掻くハボックを見て、ラッセルはいつものように笑顔を見せた。
 ここは、今、嘘で塗り固められた空間。
 誰も笑いたくない。
 事実を認めたくはない。
 格好悪く足掻いている人間達の空間。
 それでも、望みが奇跡に変わる事を知っているから。
 誰一人として、諦めてはいない。
 ただ、臆病に前を向いて。
 悪い考えを全部追いやって。
 残った一縷の望みに縋りながら、歩いている。
 そんな彼らを、嘲笑う者はどこにもいなかった。




「なぁ、アル」
 忘れそうな言葉を呟いて。
 エドワードは闇が広がる空間で、じっと前を見ると。
「お前が幸せなら、それでいいんだよ」
 幸せであるならば。 
 それが、例えどんな道であろうとも、どんなに苦難が待っていたとしても。
 アルフォンス自身が選んだ道ならば。
 それでいい。
 だけど。
「………忘れるなよ」
 置き去るなよ。
 何もかも。
 大事だった言葉の一つ。
 大切な思い出の欠片。
 忘れないで。
 忘れないで。
 胸の奥で、誰かが言う。
 あれは、現実で嘘ではなくて。
 目の前で起こったことで。
 捻じ曲げられない事実で。
 どうしようもない事で。
 いつか来るかもしれないと思っていた未来。
 だけど、その未来を否定したアルフォンス。


「ボク、誰かを好きになったりしないよ?ずっと一緒にいるよ……?」


 あの言葉に嘘はない。
 嘘にならなかった言葉。
 それでも、今目の前にある現実も嘘ではない。
「ばーか……」
 エドワードはぽつりとそう零して、拳を作る。
 駄目だ。
 今は。
「…………」
 不意に現れた現実に、エドワードは立ち向かおうとしていた。




 とらわれていたこころは
 いつまでもとらわれていたままで
 はなそうとしないおもいを
 いつまでもかかえつづける
 あるくために
 まえをむくために
 それがひつようだというならば
 こころごと
 すててしまえばいい
 そうすれば



 きみのしあわせにとどきますか?





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