全てが、戻る場所に
 全てを見つけた場所に
 舞い降りた蝶を
 捕まえる術は失ったけれど

 それでも



 伸ばした手には、きっと何かが残っている





【アゲハ蝶 最終章 僕の肩で羽を休めておくれ】





 優しい風が吹く。
 ラッセルはその風に前髪をたなびかせながら、小さく笑った。
 やっと、やっと。
 全ては幸せな未来に、動き始めた。
 もう、あんな思いをしたくないと願ってからどれ程の時間がたっただろう。
 それでも、こうやって、未来のビジョンが見え始めた。
 エドワードと、アルフォンス。
 二人の絆は、今、確かに強固なものになりつつある。
「兄さん」
 隣に座っていたフレッチャーが兄を見上げて。
「いいの?」
 少し心配そうに聞いた。
「いいんだよ、これで。うん、きっといいんだ」
 だって、エドワードにはアルフォンスしかいなくて。
 アルフォンスにはエドワードしかいなかった。
 だから、これでいい。
 胸の奥に小さな穴はあるけれど、いつかは癒えて行くだろう。
「ま、アレだよアレ」
 そんな二人を見ていたハボックが、煙草に火をつけて軽く笑う。
「お前とアルフォンスの絆は強かった。それだけの事さ」
「え?」
「……そういう事だよ」
 きっと、誰にだって譲れないものがある。
 何を犠牲にしても、守りたいものがある。
 ラッセルにとって、それは。
 エドワードへの恋心ではなく、アルフォンスとの友情。
 ハボックの脳裏に、一瞬あの銀色の髪の優しく笑う青年が過ぎる。裏切られたと言う感覚は今でも拭えない。それでも、大事な、大切な――。
「それより、今日、エドワードのヤツ退院じゃなかったか?」
「だからここで待ってるんですよ」
 ここ、とは中央司令部の一室。
 良く見知った面々が右往左往しながら仕事をこなしている場所。
「多分、帰りに寄ると思うから」
 今回の事で、アルフォンスがここにいる面々に多大な迷惑をかけている事を知らないわけじゃない。何があろうと、アルフォンスはこの場所に立ち寄るだろう。
「そうだな」
 そう、几帳面なアルフォンスならきっと、この場所に。
 ハボックは窓の外を見やると、いつものように笑いながら扉を開けて入ってくる弟妹達の姿を思い浮かべた。





「お兄ちゃんの嘘つき!」
 ぽふ。
 小さな手が、アルフォンスを叩く。
「嘘つき! ずっと一緒にいてくれるって言ったじゃないか!」
 病院の前で、少年はぼろぼろと涙を零しながら、アルフォンスに訴え続ける。
 そうだ、自分は確かにこの子に約束をした。ずっと一緒にいるからと。
 亡くなったアルバートの分まで、一緒にいると。
 けれど、それは記憶が無かった時の話。あの世界が全てで、大切なのはこの姉弟だけだった時。
「エディ……」
「嘘つき! 嘘つき! 嘘つき!」
 小さな頃の約束。それは大事なもので、色褪せずいつまでも存在するもの。
 そう言えば、兄さんはあまり約束をしたがらない子供だったな。
 そんな事を思い出して、アルフォンスは今目の前の子供の心をどうやって納得させればいいのか考えていた。
「駄目よ、エディ」
 病院の中から出てきたエメロードが、エドガーに近付いて頭を撫でる。
「どうして! 姉さん! お兄ちゃんはずっと一緒にいてくれるって言ったじゃないか!」
「それはね、エディや私の傍にはずっとアルバートがいるからよ」
 だから、アルのいる場所がないの。
 ねえ、そうでしょ?
 そう言って片目を瞑って、エメロードはアルフォンスを見た。
「…エメロード…」
「それにね、エディ。あなたもう直ぐお兄ちゃんになるんだから。お兄ちゃんにばっかり甘えているわけには行かないでしょ?」
「お兄ちゃん?」
「そう。私とアルバートの子供が生まれたら、あなたがお兄ちゃんになってくれなくちゃ」
「………」
「だから、アルとはここでバイバイ。ね?」
 聡い女性だ。
 アルフォンスが四苦八苦していたエドガーの心の整理を、いとも簡単に片付けてしまった。
「そうよね、アル」
「うん…そうだね」
 あんなにも愛しいと思った女性。それが何か別の感情だったとしても、確かに大切だった。大事だった女性。
 柔らかな笑顔も、温かな声も、大好きだった。
 そして、多分、今でも大切でしょうがない。
 だから、傷付いて欲しくない。
 幸せに、幸せになってほしい。
 もちろん、エドガーの幸せも願っている。
 まるで、小さな頃の自分を見るかのような少年。
 姉を守ろうと必死で頑張っていた少年。
 その少年の、幸せな未来を。
 この二人の幸せを願うには、きっと自分の存在は重すぎる。
 重くて、きっと羽ばたけない。
「……ごめんね、エディ。ボクは、一緒にはいられない」
 それでも。
 アルフォンスはエドガーを抱きしめて。
「でも…何かあったら呼んでね。辛い時苦しい時、きっと助けに行くから」
 どんな事があっても、きっと君達の幸せを守って見せるから。
「絶対、守って見せるから」
 もらった愛情の分。たくさんの幸せの分。
「エメロード、君も」
「ええ、何かあったら直ぐに。子供が生まれたら、ちゃんと連絡するから」
「うん…ありがとう」
「……もう、エドって呼んでくれないのね」
「エドは、……ボクにとって世界に一人しかいないから」
 優し過ぎて残酷な男。
 愛情が広い分、深い部分は一つも見せてくれない男。
 それでも、大好きよ。
 エメロードはにっこりと笑って、そんな言葉を全部飲み込んだ。
「ねえ、アル。一つだけ約束して」
「何を」
「エドワードさんと結婚したら、一度うちまで遊びに来てね」
「え?」
「エドワードさんとお話がしたいの。いっぱい。だから、お願いね」
 真っ直ぐな金色の目をした少女。
 優しすぎて壊れやすい、それでも鋼の意思を持った少女。
「うん、わかったよ」
 結婚する望みは薄い。
 それでもアルフォンスは笑って約束した。
 きっと訪れるだろう未来への願いを込めて。
 そうして、アルフォンスとクリスティ姉弟は背を向けて歩き始めた。
 自分の歩くべき、道を。





「姉さん」
「……お前の言いたい事はわかるが、それ以上は言うな」
 病院の待合室で、二人は椅子に腰掛け行き交う人々を見ている。
「錬金術に魅入られた、とでも結論付けておけ」
「………」
「ロイ」
「何ですか」
「笑え」
「は?」
「そんな小難しい顔をして、エドを待つ気か」
 医師との話が終れば、エドワードはこちらに来るのはわかっている。
 そのエドワードを迎えるには、ロイの表情は硬く重かった。
「あの子が決めた道だ。大丈夫、今までだって乗り越えてきただろう」
 母の死も、父の事実も、何もかも。
 自分達が背負った罪でさえ。
 子供が産める確率はゼロになったとしても、きっと多分、あの二人なら超えていける。
「確率はゼロでも奇跡はゼロじゃない。そう言ったのはお前じゃないか、ロイ」
「……」
 その台詞は、子供が産めなくなったイズミにロイが言った言葉だ。
 まだ覚えていたのか、と思いながらイズミを見ると、イズミも少しだけ難しい顔をしていた。
 きっと、まだ受け止められない事実。
 おそらくは、当人達の方が受け止められない事実。
 周りの人間が落ち込めば、おそらく二人は何事も無かったかのように振る舞い傷を飲み込むだろう。
 だから、今は。
「あの二人は、奇跡の申し子だからな」
 きっと、大丈夫。
 イズミやロイに出来ない事が出来るはずだ。
 そう言い聞かせて、二人はエドワードが来るのをぼんやりと待ち続けた。





「どうしたの、兄さん。ぼんやりして」
「え、いや、なんでもない」
 医師の診察も終ったのに、エドワードはどこか上の空で。アルフォンスはエドワードの顔を覗き込んだ。
 クリスティ姉弟と別れ、待合室にいたマスタング姉弟にエドワードを迎えに行ってくると言って迎えに来たまではいいのだけれど。
 エドワードは、どこか別の世界を見ているようだった。
「……アル」
「何?」
「お前、本当にエメロードさんとは……」
 ごつん。
 アルフォンスは思わずエドワードの頭を小突く。
「った……」
「何度言わせるの、兄さん。ボクは兄さんの傍にいるの!」
 どうやらエドワードの良くないクセが出ているようだ。いつもなら、傍若無人に人の思いを引きずり込んでしまうくせに、一旦消極的になるとそのままずるずる引き摺る、クセ。
「兄さんが嫌だって言っても傍にいる」
「アル……」
「エメロードと兄さんが何を話したか知らないけど、ボクの気持ちは変わらないから」
 先刻、アルフォンスとエドガーが話しているとき、どうやらエドワードはエメロードと会っていたらしい。
 詳しい話は分らないけれど、エドワードがどこかこの世界を見ていないのはその所為だろう。
「兄さん」
「ん?」
「兄さんの幸せって何?」
「え?」
「ボクは散々言ってるよね。兄さんといる事だって。でも、兄さんはそう思ってないかもしれない」
「………」
「兄さんの幸せって何?」


 あなたのしあわせはどこにあるんですか?


 ふと甦る、柔らかな声。
 アルフォンスを助けてくれた女性が、エドワードに投げかけた疑問符。
 エドワードは答えられなかった。
 自分の幸せ。
 あまり、それを突き詰めて考えた事が無い。
 考えれば、どこかどろどろとしたものに突き当たりそうだから。
 けれど。
 女性は、そんなエドワードを見て笑ったのだ。
 あなたのしあわせは、ここにあるんですね、と。
 私の幸せは、トルセイアの家にあります。だから、あなたはあなたのしあわせを大切にしてください。アルと一緒にいられた時間は幸せでした。でも、それ以上の幸せがあるから大丈夫なんです。あなたのしあわせは、きっとここにしかないと思います。だから、私の事なんか気にせず幸せになってください。
 優しい人の声。
 アルフォンスが、幸せならそれが一番幸せだと思っていた。
 大切な人たちが幸せなら、それが幸せだと思っていた。
 だけど、それが自分の幸せじゃない事にこんな事になって初めて気が付いた。
 自己中心的で、わがままで、どうしようもない願いだけれど。
「あのな、アル」
「うん」
「オレにとっての、幸せな…凄い単純なんだ」
「?」
「お前が幸せで、ウィンリーが幸せで、ばっちゃんが幸せで、ラッセルとかフレッチャーとか、軍部の人とかみんな幸せで」
「……うん」
「世界中なんて言わない、でも、関わった人たちみんなが幸せなら」
「それで、いいの?」
「それで、いいと思ってたんだ。だけど」
 エドワードは遠い世界から帰ってきたばかりのように微笑んで、不思議そうなアルフォンスを見ると。
「アルフォンス・エルリックが隣にいてくれること以上の幸せなんて、この世界になかったよ」
 幸せだったから気付かなかった幸せ。
 いつもずっと一緒にいたから、離れたことなんてなかったから。
 気付かなかった幸せ。
 でも、その幸せが一番幸せだったことに、エドワードは漸く気が付いた。
「兄さん…」
「だから、うん、きっと、今が一番幸せなんだ」
 辛い事も哀しい事も思い出したくない過去も何もかも乗り越えてこれたのは、アルフォンスがいたから。
 幸せがここにあったから。
「……って、なんでお前が泣くんだよ」
「だって……」
「全く、お前は…」
 エドワードは、ぐりぐりとアルフォンスの頭を撫でる。
 アルフォンスは、零れた涙を拭いながら満面の笑顔を浮かべると、人目を憚らずエドワードをぎゅっと抱きしめた。





 ふわり、ひらり。
 風に飛んだものを追いかけて
 この手に残ったのは、幸せの欠片


 大丈夫だよ
 もう離さないよ


 幸せは、ここにあって
 大切なものは、さいしょからここにあって
 追いかけてたものは、手放していなかった


 戻ってきたよ
 だから
 ずっと一緒に
 これからも一緒に



 歩いていこう





「なぁ、アル」
「何、兄さん」
「エメロードさんの子供、きっと男の子だよ」
「何で?」
「んー、なんとなくな」
「なんとなくって…」
「だって、エメロードさんを守ってくれただろう?」
「え?」
「きっと、守ってくれる。これからも」
「そうかな」
「そうだよ」



 数ヵ月後、一通の手紙がエルリック姉弟の元へ届く。
「子供が生まれました。男の子です。名前は大切な方から頂いてアルフォンスと名付けました」






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