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舞っていた蝶を 逃がしたのは自分。 その手で逃がしたのは自分。 それでも。 蝶はまだそこで花に止まっている。 【アゲハ蝶 2 狙われた姫君】 錬金術師が帰ったその日、エメロードは一向に落ち着かなかった。 ずっと泣いたままだ。 アルフォンスは何も出来ず佇んで、その横顔を見守る。 エドガーも今にも泣き出しそうに顔を歪めて、アルフォンスの服の裾を掴んだまま黙っていた。 「…………」 こんな時、どうすればいいのだろう。 アルフォンスは、考える。 慰めの言葉を一つでもかけて、抱きしめてやればいいのだろうか。 だが、体が動かない。 指先一つ、動かない。 まるで、それが禁忌だと言わんばかりに体は拒絶している。 理由は分からなかった。 ただ、泣いている人を慰める方法がここには無いだけ。 アルフォンスには出来ないだけ。 それだけの事だ。 けれど、それはアルフォンスにとって苦痛でしかなかった。 「大切」な人を守れない。 その思いが、ずきりと心に突き刺さる。 記憶を失う前からある、思いだろうか。 もしかしたら、自分は大切な人がいて、守れなかったのだろうか。 守りたい人がいたのだろうか。 アルフォンスはそこまで考えて首を横に振る。 違う。 記憶が無かった頃の事を考えている場合ではない。 今、ここで、泣いているのは「エメロード」だ。 アルフォンスは、エメロードの全てを知らない。 エメロードは、自分を助けてくれた女性。 あったかくて柔らかくて。お日様みたいな人。 だけど、いつも、鏡の横の写真を見るときは泣きそうだった。 アルは、知らない。 エメロードがどんな人生を歩いてきたか。 何を無くし、何を得て、生きてきたか。 知らなければ、傷を癒す事が出来ない。 それが、たとえ、この場所から帰ることが出来なくなったとしても、本当を知らなければ何も出来ない。 キィ。 アルフォンスは、エメロードの腰掛けた椅子の前に座り、ゆっくりと両手を組むと、じっとエメロードを見て。 「ねぇ、エメロード」 出来るだけ優しい声音で、そう呼びかけた。 「…………」 エメロードは言葉を返さない。 「ごめんね」 自分は、国家錬金術師だった。 何故かは分からない。 だけど、持っていたその証。 偶然拾った、なんてそんな事は有り得ない。 錬金術が使えるし、何よりそれは、大事そうにベルトの一部に繋げられていた。 中を開けることは出来ないけれど。 記憶を失う前に、どうやら封をしてしまったらしい。 アルフォンスの時計は、開く事が出来なかった。 それ、を持っていた自分。 何気なくだけれどエメロードは言った。 恋人を軍に殺されたのだ、と。 自分がここにいるのは苦痛かもしれない。 それでも、分かり合わなければ、知らなければ、守る事なんて出来ないから。 アルフォンスは真っ直ぐエメロードを見て、そうして、笑う。 それから。 「ごめんね」 再び謝罪の言葉を口にした。 そうすると、エメロードは伏せていた顔を上げ、アルフォンスを見ると、涙を拭い。 「アルの所為じゃないの、だから、謝らないで」 「でも…」 「アルは、私を守ってくれたもの。だから、あいつ等とは違う」 「……エド……」 いつものようにとは言えないけれど、ぎこちない笑顔でエメロードは笑った。 「それより、突然取り乱したりしてごめんね。私がしっかりしてないから…」 「違うよ。エメロードは悪くない。だって、軍の人間は嫌いなんでしょう?」 「……そうね。嫌いよ」 ぽたり。 再び、エメロードの瞳から涙が落ちた。 「だって、あの人を……」 「アルバート、さん?」 あの、赤いコートの錬金術師と対峙した時、エメロードが叫んでいた名前。 アルフォンスは、覚えていた。 「………アルバート。大切な、大切な、人、だった」 ぽろり。ぽろり。 エメロードの涙は止まらない。 「そんなに、大事な人、だったの?」 「……大事な、人だった」 何よりも。 そう言って、エメロードは泣き出したエドガーを引き寄せる。 「あの人は、軍人だったの」 「え?」 「だけど、殺された。この前の、内戦、で」 国内の内戦は、全て終結したわけではない。 小さな小競り合いは、未だ根強く残っていてこの場所の側でも勃発していた。 「でも、軍人がなんで軍に殺されるの?」 「………アルバートは、ゾルゲと言う男の部下だったの」 ゾルゲ。 記憶の底に引っかかる名前。 もしかしたら、覚えているのかもしれない。自分の知らない記憶が。 アルフォンスは知り合い程度だったらいいと、願った。 …間違いなく、エメロードはその男を憎んでいるから。 ゾルゲと言う声に込められた、思い。 それは、アルフォンスにひしひしと伝わってくる。 「最初は、ただの、アルバートの上司だった。それだけだったの。アルバートはゾルゲを尊敬していたし、ゾルゲもアルバートを信頼してくれていた。それだけだったの」 エメロードは、きゅと小さく唇を噛んだ。 「それだけだったのに、私を、アルバートが私を婚約者だってゾルゲに紹介した時から……アルバートはゾルゲに疎まれるようになったの」 「何故?」 「…ゾルゲは、私を妾にしたいんだって、そう言ってた…」 「え?」 「私に愛人になれ、って。だけど、アルバートがそんな事…ううん、私だってそんな事したくなかった。そんなものになりたくなかった。何度も申し出があったけど、断ってきた。アルバートも、私も」 それなのに。 そこまで話して、エメロードは泣き崩れる。 ……察しは、ついた。 アルフォンスは、唇を噛むとエメロードの途切れた言葉に自分の言葉を繋げる。 「しつこく言い寄ってきて、その度に邪魔したアルバートさんが邪魔で鬱陶しくて、ゾルゲって言うヤツは戦乱に乗じてアルバートさんを殺したの?」 こくり。 エメロードは無言で頷いた。 珍しくは無い話だ。 部下の恋人や妻を気に入り、その部下を殺し手に入れようとする地位の高い人間。 昔ほど頻繁ではなくなったものの、未だにそんな話は耳にする。 記憶を失っていても、そんな知識はアルフォンスの中にきちんと存在していた。 「…あんな錬金術師を送ってくるくらいだから、エドの事、まだ諦めてないんだろうね。その、ゾルゲって人」 「多分、諦めてないわ。私の気持ちは変わらないのに、あんな風に錬金術師を雇ったり他の部下が訪ねてきたりするから」 踏み込んではいけなかった境界線。 アルフォンスは、今、それを踏み越した。 戻れなくなっても、帰れなくなっても。 アルフォンスは、決意した。 守る事を。 エメロードを、守る事を。 エドガーを守る事を。 おそらく、アルバートと言う人間は、誠心誠意この二人を守ってきたのだろう。 包み込んできたのだろう。 だから。 アルバートは、エメロードにとってもエドガーにとっても「大切な」人だったのだ。 「……アル、ごめんなさい。貴方には何の関係もないことなのに」 「ううん、いいんだ。話してくれて嬉しかった、エド」 知らないよりは知っていたほうがいい。 その方が、きっとずっと強く守れるから。 「……お兄ちゃんが、守ってくれるの?」 二人の会話を泣きながら静かに聞いていたエドガーが不意に顔を上げ、アルフォンスにそう訪ねる。 「……そうだよ、エディ」 「アル?」 「言ったでしょ、エド。僕がエドを守るって。エディも守るって。その、アルバートさんの代わりはなれなくても」 助けてもらった。 暖かく包んでくれた。 今のアルフォンスにとって、大切な、家族。 守り抜いてみせる。 アルフォンスの決意は変わらなかった。 「だから、もう心配しないで。泣かなくてもいいんだよ、エド」 その為の力はある。 今日みたいに錬金術師が来たとしても、大丈夫だ。 アルフォンスは椅子から立ち上がり、エメロードの側へ行くとぎゅっと二人を抱きしめる。 そのアルフォンスの腕に縋りつくようにして、二人は泣いた。 「…………」 その二人を見ながら、アルフォンスはふと思う。 記憶をなくす前の自分。 その自分を知っているかもしれない、あの赤いコートの錬金術師。 驚いたように自分を見て、そして何かに打ちひしがれて帰っていった。 あれは、エメロードを狙っていたのか? それとも。 もう、帰れない場所の事を思いながら、アルフォンスは何故か心の中であの翻った赤いコートの背中に小さく謝っていた。 「あの色ボケ将軍が!」 だん! ロイは思わずそう叫んでハボックの机を叩く。 「……軍施設内では言葉を選んでください、少将」 苛々した様子のロイを宥めて、ホークアイは溜息と共に珈琲を差し出した。 「また、何か言われたんスか」 「……今度は、アレが娘の婚約者だと知って、娘を寄越せと言って来た」 ぶほ。 その言葉に、そこにいた誰もが珈琲を噴出した。 「エドワード君を?」 「そうだ。婚約者が死んでしまったのなら、独り身だろうと言ってな」 ロイの額には、青筋が浮かんでいる。 ロイの娘の話は一時期軍全体を揺るがし、婚約者が決まった事で落ち着いた。 娘の正体も、婚約者の正体も、今まで誰にも明かした事はないのに。 ゾルゲ将軍は、何故かアルフォンスの事を知ってしまったらしく、今回の発言に至ったらしい。 まだ、エドワードの事は知られていないようだが。 「あんな色ボケにくれてやるくらいなら、一生独り身でいさせてやろう」 ずぞ、とロイは珈琲を啜って半眼でちらりと窓の外を見た。 「少将、そんな事はありえないでしょう。アルフォンス君は死んでいないんですから」 「…当たり前だ。丁重にお断りしてきた」 「…しっかし、あの将軍も好きモノっスよねぇ」 「英雄色を好むと言いますが、あの人の場合はその典型的パターンですね」 「この前も、部下の婚約者を見初めて、部下、殺したって話だからな」 「…ハボック大尉、ブレダ大尉、ファルマン中尉、口は災いの元よ。どこで聞かれてるか分からないから、その話はしない方が身の為ね」 ゾルゲの噂はいつも女が絡んでいる。 その噂をしただけで、降格された者の話などよく聞こえてくる噂の一つだ。 「そうっスね。今、自由に動けなくなるのは辛いっスよね」 「そうよ。エドワード君の為にも、早く、アルフォンス君を見つけないと」 いなくなった片方。 このままでは、冗談などではなくエドワードがゾルゲの毒牙にかかってしまう。 ロイの持ってきた話で再びやる気を奮い起こした面々は、珈琲を飲み上げるとコートを持ちその場を後にした。 たった一人の人間を探す為に。 ごめんなさい。 わからないけれど、ごめんなさい。 なにがそんなにかなしいのか わからなくて ごめんなさい もしかして、あなたはぼくをしっているの? ぼくのきおくをしっているの? だったらごめんなさい ぼくはもう きおくをひつようとしないから だから ごめんなさい ここで、まもらなければならないひとたちがいるから |