何を言い出せば良いかなんてわからないけど。
 昨日のボクも明日のボクも過去のボクも



 きっと貴方を愛し続けてる。





【アゲハ蝶 19 全てが貴方だった】





「さっきのでっかい告白、凄かったッスね」
 漸く落ち着いたハボックがぼそりと言う。その言葉に、同じように落ち着いた面々は首を縦に振った。
 ここから待合室までは結構離れている。
 隔離病棟と言うヤツだろうか。
 そこから待合室まで聞こえてきた大きな声。
 しかも、「愛しています」なんて、一世一代の告白みたいな。
 きっとこの病院にいる人間でその意味を理解したものなんていない。隔離病棟から聞こえてきたのだ。誰か訳もわからず叫んでいるんだろうと憶測したものが殆どだろう。
「でも、これからだから」
「ラッセル?」
「正念場。アルがエドワードの傍にいれるかは、これからだ」
 ラッセルの視線の先には、真っ白い扉。
 多分、きっと、踏み越えてはいけない境界線。ラッセルの中の聖域。
 同じ罪を背負った戦友、そしてひたすらに思い続けてきた少女。
 その二人の、誰よりも願ったその二人の幸せがあの向こうにある。
 幸せになればいい。
 もう、こんな事はごめんだ。
 今まで十分に苦しんだじゃないか。だから、今度こそ。
 幸せになってくれればいい。
 手に入れて欲しい。
 それが、どんな形だとしても。
 ラッセルの視線にあわせるように、そこにいた誰もが視線を扉へと流す。
 白い扉が、開く事を願って。





「…………」
 言葉は時に無力になる。
 どんな言葉を思い浮かべても声にしなければ意味は無い。
 今、まさにそんな状況下だった。
 アルフォンスの思いは言葉にならない。さっきの一世一代の告白はどうしたんだと言わんばかりに。
 真っ白な病室、真っ白なベッド、真っ白なカーテン、真っ白な服を纏ったエドワード。
 そこには、何も無い。
 鮮やかな金色の髪だけが、そこにある全て。
 真っ白だったのは、なにも病室だけの話ではない。
 アルフォンスの頭も真っ白だ。
 会いたい。
 ただそれだけで来てしまった病室。何も考えてなくて、ただ、エドワードに会いたくてそれだけで来てしまった。
 何て言おう。
 ただいま。
 ううん、この台詞は当の昔に使ってしまった。
 ごめんなさい。
 謝って済む事じゃない。
 言葉なんて、いくらでもある筈だ。
 それなのに。
 エドワードに対しての言葉だけが見つからない。
「アル……」
 最初に口を開いたのは、エドワードだった。
 少し痩せたのだろうか。何だか、酷く華奢に見える。記憶を失っていた時は、こんな事感じなかったのに。
 眼を合わせられなくて俯いてしまったアルフォンスに、小さな笑い声が届いた。
 驚いて顔を上げると、エドワードがくすくすと笑っている。
「にい……さん」
「何だよ、お前。ひっどい顔してるぞ」
「え?」
「……記憶が無い時の方が、ずっと良い笑い方だった」
「!」
「懐かしかったよ。お前のあんな笑い方」
 何も知らなくて、ただ純粋に笑えていたアルフォンス。
 エドワードが無理に記憶を戻したくなかった要因。
 そう、きっと、アルフォンスには屈託の無い笑顔の方が似合っている。
 こんな、泣きそうな辛そうな表情をするよりは。
「……戻って来る、気か?」
「え?」
「辛いぞ。多分、もう道も無い。未来はあるけど明るくない。それでもいいのか」
 何となく、エドワードの言いたい事は分った。
 きっと多分、一生一緒に生きていくつもりなら、人として当たり前の生活は出来ないだろうという事だ。それ程に、失ったものは大きすぎる。
「エメロードさんのところに戻れば、違う未来も待ってる。お前には選択肢が出来たんだよ、アル」
「…………」
「いつまでも一緒にいる必要は無い。お前が生きたい様に生きれば良いんだ」
「……兄さんは、ボクといるのが嫌、なの?」
「オレが嫌なら、お前はエメロードさんところに戻るのか?」
 それが、エドワードの願いなら。
 こくりと頷くと、エドワードはただ、そうか、とだけ言った。そして。
「アル……あのな。きっとオレたちは二人で一つだって誰もが思ってる。だけど違うんだ。オレはオレで、お前はお前だ。オレが望んでいる事はお前が望んでいない事かもしれない。お前が望んでいる事がオレが望んでいない事かもしれない。思いまで同じとは限らないんだ」
 だから。
「オレは、お前が望んだとおりに生きれば良いと思う。オレの事なんて考えなくて良いから」
 負い目を追わずに。
 自分の好きな道を選べ。
 エドワードはそう語っている。
 だけど、アルフォンスには。
「………じゃあ、ボクは、兄さんの傍に一生いる」
「アル…」
「ボクにまだ選択肢が残ってるなら、ボクは兄さんの傍にいることを選ぶ」
「アル、良く聞け。今までお前に頼ってたオレが悪いんだ。だから、お前は……」
「……もう、嫌だよ」
「アル……?」
「記憶、ごちゃごちゃで、兄さんとエメロードの記憶が入り混じって、それでも考えた。だから、どうしても嫌なんだ。兄さんの傍を離れる事が……」
 最後に残ったのは純粋な願い。
 ただ、傍にいたいという純粋な願い。
 要らないものを排除して、残ったもの。
 それが、きっとアルの全て。
 エドワード・エルリック。それが、アルフォンスの全て。
「兄さんが良いって言うなら、兄さんの傍にいたい」
 傷つけた。
 散々傷つけた。
 もうこれ以上無いくらい傷つけた。
 言葉で行動で、何もかも傷つけた。
 それでも許してくれるのならば、エドワードの傍にいたかった。
「アル……」
「ボクのわがままかも知れない。でも、聞いて。ボクは、兄さんの傍にいたい」
 弟、だからじゃなくて。
 自分がアルフォンス・エルリックを選んだ時からそれは決まっていた思い。
「オレは、お前がどうしようと構わないさ。でも、オレを選ぶってことは泣く人がいる。お前の所為で泣く人がいる。それでもいいのか?」
 エドワードは真っ直ぐな瞳でアルフォンスを見る。
 アルフォンスが置いて行こうとしている幸せ。そこには、可愛らしい女性とその弟が待っている。エドワードはその二人を傷つけてまで選んで欲しくはなかった。
「……兄さんを泣かせるよりはマシだ」
「ア……ル」
「こんなに、痩せて。笑顔、も、ぎこちなくて。はな、れて、る間に、こんなに、ぼろぼろに、なって……ボクのい、ないところで、兄さんが、なくの、はもう、いや、だ」
 ぽたりぽたりぽたり。
 アルフォンスの瞳から、涙が零れる。
 比べられる筈も無い。
 エメロードとエドワード。
 記憶のあるアルフォンスに、比べられるはずは無い。
 エメロードが注いでくれた愛情は温かかった。その中でまどろむのは気持ちが良かった。それに女性として素晴らしかった。きっと女性らしさなんて言葉じゃエドワードは適わない。でも、それでいいのだ。だって、エメロードは人だから。何も知らない、自分の深遠を覗き込んで飲み込むことなんて出来ない、脆い人だから。
 だけど、エドワードは違う。注いでくれた愛情は、痛くて剥き出しで鋭利で、時に誰かを傷つけてしまうけれど、優しくて尊い。他の誰もが持ち得ない、柔らかな感情。罪も罰も未来も過去も何もかも飲み込んだから、そこにある形。まるで、自分だけを照らしてくれる女神。大切な、大事な、たった一人の女神様。
「でもな、アル。オレはお前の子供を産んでやれないし、結婚だって怪しい」
「兄さん?」
「お前、子供欲しがってただろ。ごめんな、もう無理なんだ。多分子宮が傷付いているから、もう……」
「……っ!」
 思わずアルフォンスはエドワードに駆け寄る。そしてそのまま、いつもより細くなった体を抱きしめた。
「何でそんな事言うの! 兄さんが言う台詞じゃない! その台詞は……」
 自分のものだ。
 確かに望んでいた子供。一縷の望みをかけて、欲しかった子供。
 エドワードが子供を産めないかもしれない、そんな事を言われていた時に起きた奇跡。その奇跡を悲劇に変えたのは、紛れもなく自分。
 たった少し、記憶を失った所為で。
「兄さん、ごめんね。ごめんね、ごめんね! ごめ……」
「アル……」
「子供、いたのに! 出来たのに! ごめんっ……!」
「アル」
「何で、どうして、こんな時に、記憶を……」
「なぁ、アル」
 混乱するアルフォンスの頭を撫でながら、エドワードは少しだけ笑う。
「幸せだったか?」
「………え?」
「エメロードさんたちといた時、幸せだったか?」
 突然のエドワードの問いに、アルフォンスはふと思い出す。
 絵に描いたような幸せな時間だった。
 今までの記憶には無い、幸せな幸せな。
「こんな辛い現実、受け止めなくても良いんだぞ。お前は他に幸せになれる道を見つけたんだから」
「……こんな現実だから、ボクは受け止めたい」
「アル…」
「受け止めるよ、何があっても。だって、兄さんといる現実だもの。どれだけ辛くったって大丈夫。兄さんがいる。ラッセルや少将たちがいる。ボクは、この現実がどんなにひどいものでも大好きだよ」
 積み重ねてきた時間。
 一緒に背負った過去。
 何もかもひっくるめて、全てが愛しい。
「何だよ、それ……」
 エドワードは困ったように笑うと、ぽたりと涙を零した。それからゆっくりと手を伸ばしてアルフォンスの背中に腕を回す。
「辛いんだぞ、分ってるのか?」
「うん」
「あんまり、いい未来は待って無いぞ」
「うん」
「あのな、アル」
「うん」
「お前の事、愛してるよ」
 初めての、エドワードからの言葉。
 さっきの硝子が割れそうな勢いのアルフォンスの言葉に返すかのような。
 きっとアルフォンスが放った言葉よりも、重い、重い。
 その、言葉。
 その言葉に。
「………ボクも、兄さんが大好きだよ」
 愛しているとは言えなかった。
 今、アルフォンスがその言葉を言ってしまえば陳腐以外の何物でもない。
 だけど。
 ずっと、一緒に。
 それだけが、願い。
 なくしたものは大きすぎて。
 失った現実はあまりに辛くて。
 やってきた未来はあまりにも悲壮で。
 でも、その中でもエドワードを思う気持ちだけは真実。
「だから、兄さん。傍にいて、置いてかないで………」
「おう。置いていったりするもんか」
 もう二度と離さない。
 エメロードの家を訪ねた時に拒絶された、あんな思いはもう二度としたくない。
 子供は産めないだろう。
 それに、人として当たり前の幸せなんて手に入れられないかもしれない。
 覚悟は決めた。
 何度となく決めてきた覚悟だけれど、今回のものは少し違う。
 未来が、見えない。
 希望も無い。
 たどり着く先も無い。
 それでも、出来るならば一生、この人間と一緒にいれますように。
 大事な人と離れなくて済みますように。
 強くならなければ。
 そう願ったのは、エドワードなのか、アルフォンスなのか、それとも。
 二人はお互いを抱きしめあって、ただ震えるように泣いていた。





「クリスティさん」
「はい?」
「すまない」
 そう言って頭を深く下げたのは、ロイだった。
「全てこちらのわがままだ。聞いてくれとは言わない。ただ、君をゾルゲの手から守る事は約束しよう」
 彼女もまた被害者。あの時、もし銃弾でアルフォンスが倒れていたならば、彼女が流産していたかもしれない。
「大丈夫ですよ」
「え……?」
 少し赤い目でにこやかにエメロードは笑う。
「多分、私、アルバートやアルフォンスに甘えていたんです。優しい人たちだったから」
 アルバート。
 優しくて温かくて、でも強くて頼りになった大好きな人。
 もうこの場所にいない人。
 アルフォンスを最初見た時はアルバートが還ってきたのかと思ったくらいだ。
 だから、無茶なお願いをした。
 無茶なお願いでも、聞いてくれると思って。
「アルフォンスにも大事な人がいるんじゃないかって思いながらも。それでも、誰かにいて欲しかった」
 寂しくて潰されそうだったから。
 けれど。
「もう、平気です。私は戦える。だって、母親になるんだから」
「クリスティさん……」
「だから、伝えてください。アルにも、貴方の娘さんにも」
 私は大丈夫だって。
 そう言って笑う少女は、どこかアルフォンスが大事にしている少女と良く似ている。
「……ありがとう」
 短い会話だった。
 それでも、ロイはこの少女の中にアルフォンスが何を見たのか分ったような気がした。





 いきてるいみ
 ここにいるいみ
 ここであなたのそばにいること
 なにもかも


 すべてがあなただから


 あなたがここにいてくれればなにもいらない
 ほかに、なにも





  
<<  back  >>