神様なんて要らない。 真理はいつも残酷で 辛すぎる現実しかつれてこない。 これは、なんの代償? 【アゲハ蝶 16 訪れた崩壊】 それは、アルフォンスの決意だった。 取り戻そう。 全ては無理かもしれない。 失われた記憶は戻らないと聞く。元からそこに存在していないものを錬成する事が出来ない事と同じ原理だろうか。 それでも、アルフォンスの記憶は途切れ途切れだが存在していた。 真っ赤なコートを見下げる自分。 あのコートはおそらく兄のものだ。 兄だと名乗った小柄な青年がいつも羽織っている、あの赤いコート。 何故なのかは分らないが、何かの上に立っているのだろうか、視線はいつもの位置より高い。 それが、一つ目の記憶。 二つ目は、真っ黒と真っ赤な空間。ぬるりとした感触。そこがどこなのか分らないけれど、その感触と目に飛び込んでくる色は変わらない。 それが、二つ目の記憶。 あとは、誰かの笑い声や、一瞬だけの表情、知らない家の中、知らない女の子が二人、そんな途切れ途切れの記憶だけ。 それでも、アルフォンスの中に記憶はある。 全く無いわけではない。だから―― 記憶は、戻るかもしれない。 一部でもいい。 記憶を。 それしか道が無いというのならば。 もうごめんだった。 エメロードが泣くのも、傍にいることしか出来ないのも。 誰かが傷付くのも、自分の所為で、自分の記憶が無い所為で、誰かが子供を亡くした事も。 もうこれ以上、誰かが傷付くような事はあって欲しくなかった。 記憶をなくしたとは言え、基本的な性格は変わらない。 あの、優しいままのアルフォンスなのだ。 あの優しくて、真っ直ぐな。 アルフォンスは眠ってしまったエメロードを置いて、病室を出る。 向かうのは、師匠と名乗った女性がいる場所。 面会謝絶の兄がいる所。 本来なら、アルフォンスが一緒にいるべきだが、アルフォンスにとってエドワードは未だ「兄」と認識できない存在だった。 いや、エドワードだけではない。他の誰もが自分の知人だという事を認識できない。 記憶の中に残っていないのだ。 そんなアルフォンスにエドワードの付き添いを任せる訳には行かないとイズミが申し出たのだが、アルフォンスはその事に安堵していた。 今の自分では、兄に何を言っていいか分らなかったから。 自分を庇ってくれた兄に、何を言っていいか分らなかったから。 「…………」 面会謝絶。その言葉が、アルフォンスを遠ざける。 この病室は、他の棟から隔離されている棟にあって廊下を通る人間も少ない。昔は、伝染病患者などを隔離している棟だったのかもしれない。 真っ白な廊下、真っ白な扉。 気が狂いそうなほどの白に、アルフォンスはげんなりとしながら、ドアノブに手をかけた。 師匠と名乗った女性が、記憶を取り戻す鍵になるかもしれないから。 他は誰も、大事な事を話してくれない。 しかし、あの女性なら。 そう思ってドアノブを回しかけた瞬間、聞こえてきた会話。 「だから、オレが悪い」 「…………」 「オレが、この子を殺した」 「エド」 「オレが、守れなかった」 「……エド」 「オレが、守らなきゃならなかったのに」 「エド!」 よく聞き取れないが、何かもめているらしい。 アルフォンスは悪いなと思いつつそっと扉に耳を寄せる。 「それ以上は言っちゃいけない」 「でも」 「でも、じゃない。お前は、悪くない」 「じゃあ、何でこの子は死ななきゃならなかったんだ?」 「仕方なかったんだよ」 「命に仕方ないなんて事は無い!オレが、オレが守らなきゃならなかった!」 「エド、落ち着け」 「オレが、アルを選んだから、だから、子供が……」 「エド……自分を責めても子供は戻らないよ」 「!」 「自分を責めても、子供は戻らないんだ…」 今度は聴こえた。 間違いない。流れた子供の話だ。 アルフォンスは扉から離れ、じっとその扉を見る。 冷たいものが、するりと背中を落ちていった。 あの銃撃で、流れた子供。 誰の子供か分らなかった。 でも、あの銃弾は兄だと名乗った人の下腹部を貫いていて。 そして。 「兄さんじゃない……?」 兄だと名乗った人は、あの赤いコートの人は。トルセイアの家を訪ねてきた国家錬金術師は。 兄ではなく……? けれど、兄だと名乗った事を誰も何も言わなかったし、それで間違いないと思っていた。 でも、この現実は? この、会話は? その時。 「っつ………」 頭の側頭部に走る痛み。 まるで、何かの危険信号のように。 アルフォンスは側頭部に手を当てその場に蹲る。 兄だと名乗った、エドワード・エルリック。 否定しなかった周りの人々。 流れた子供。 そうだ。それに当たって 子供が流れた。 あの女性はそう言わなかったか? あの弾に当たって。 あの銃弾を受けたのは、ただ一人。 その所為で、子供が流れた。 被弾したから、子供が流れた。 そうなると。 「…………」 やはり、この人は兄じゃない。 兄のはずが無い。 だって、その体に、子供を宿していた。 誰の子供かは分らないけれど。 そして、その子供が自分の所為で流れた。 「…………っ」 ぐっと、胃の中から何か競りあがってくる。 折角生まれてきた命を、自分の所為で。 その命のお陰で、自分は生きている。 記憶の無い自分を守ってくれた母子。 何ものか分らない、その、母子。 悔いても悔いても足りないような気がした。 エメロードが無事だったから、それで満足していた自分がいた。 他人事のような感覚だった。 だけど、これは現実で。 辛すぎる、現実で。 アルフォンスは自分で受け止める術を無くしてしまっていた。 記憶がある頃ならば、もっと何か出来たかもしれない。 記憶を失ってから初めて、記憶が欲しいと願った。 エメロードを守る。 その気持ちは変わらない。 だけど、自分がした事は、記憶を取り戻すことでしか贖えない。 記憶を取り戻した先に、きっと何かある。 側頭部を押さえたまま立ち上がり、少し震える右腕でドアノブを持ち、大きく深呼吸をする。 まず、最初に謝ろう。 それから、あの人に記憶を取り戻すことを告げよう。 それから全て始まる。 アルフォンスはそう思っていた。 それなのに、扉の向こうから聞こえてきた言葉は。 「……アルは、オレといてくれるかなぁ……」 アルは、きっとアルフォンス。あの人は自分をアルと呼んだ。 自分が、一緒に? あの人と一緒に? エドワード・エルリックとアルフォンス・エルリックの関係は? 兄弟。 いや、違う。 だって、兄じゃない。 じゃあ、何? あの人は、誰? 兄だと名乗った、あの人は誰? 「………っぁ」 側頭部の痛みが、全体に伝わる。 痛くて考えるどころじゃない。 きぃんとした金属音が鳴り響いて、それからがしゃがしゃと金属が擦れる音がする。 何だこれは。 何だ、この音は。 それから不可思議なビジョン。 聳え立つ扉と、笑っている人の形。 見た事の無い、いや、知っている風景。 これがなんなのかを「ボク」は知っている。 前に「記憶」を失った時「記憶」だ。 人体錬成・鎧・血印・機械鎧・……それから、兄さん。 赤いコートの兄さん。 金色の瞳、金色の髪。 いつも、いつも笑ってた兄さん……兄さん? あれは、兄さん? いつも笑って 大胆不敵で。 ちょっと子供っぽい所があったけれど、あれは。 あれは。 「………なあ、アル」 金属音に重なる声。 「何……兄さん?」 返しているのは自分の声。聞きなれた、自分の声。 「お前は、ずっといてくれるか?」 真っ白な、ワンピースの……誰? 喋っているのは誰? 「え…?」 ボクは、誰と話しているの? 「傷物で、しかも男性恐怖症何ていうけったいな肩書きがあるけどさ……」 違うよ。 傷物なんかじゃないよ。 男性恐怖症だって構わないよ 「お前は、オレといてくれるか?」 うん、いるよ……兄さんが大丈夫って言うまで。 そう言ったのは―――ボク? ボク、一生兄さんの傍にいていい? そう言ったのは……そんな言葉を言った事があるのは。 「………ボク、だ」 がくん。 体中の力が抜けた。 上手く物事がかみ合わない。 記憶が頭の中で渦を巻いている。 思い出すと言うのは、これほど辛く苦しい事なのか? 襲ってきた吐き気に、アルフォンスは口を押さえる。 溢れてくる記憶。 それも、断片的に。 鎧であったり人の体であったり。 旅の途中や、セントラルの街の中であったり。 それは、まるでキルトを作り上げていくような感覚。 良かった事も、悪かった事も。 恐ろしい事も。 全てが、頭の中に還って来る。 膨大な情報量として。 「…………」 ここにはいられない。 ここにいてはいけない。 アルフォンスはずるりと立ち上がり、壁に体を押し付けると壁に持たれかかったまま前に進む。 流れ込んでくる記憶。 その中にいるエドワード。 そして扉の向こうにいるエドワード。 顔なんて見れない。 どうしたらいいかなんて分らない。 だって。 だって。 だって。 視界が不意に揺らいだ。 ぽたり。 ぽたり。 涙が落ちる。 どうすればいい。 自分はどうすればいい。 前に道なんて見えない。 ただ、何だかうっすらとぼやけた真っ白な廊下が広がるだけ。 記憶が一つ戻るたび、足が進まなくなる。 記憶が一つ戻るたび、音が聞こえなくなる。 一つ。また一つ。 そうして、アルフォンスは自分の居場所を失った。 どこにもいけない。 どこにも逃げられない。 どうすればいい。 どうすればいい。 どう、すれば。 どこをどう歩いたのか分らないが、足はエメロードの病室ではなく、待合室と呼ばれる場所に向かっていた。 逃げたかったのかもしれない。 もしかしたら、逃げたかったのかもしれない。 この現実から。 思い出した、全ての記憶から。 「アル?」 声が、した。 ぼやけた視界、幕で覆われた聴覚。その中で、声がした。 聞き覚えのある 同じ罪を背負い、同じ決意を固めた、友の声。 アルフォンスは声のする方向を向くと、誰もが不思議そうな、それでいて驚いたような顔でアルフォンスを見ている。 何故、走り出したのかは分らない。 足がもつれそうで、今にも倒れそうになる。 けれど。 今、一人で立っていることなんて、アルフォンスには不可能だった。 受け止めた現実は、あまりにも重くて。 「おい、顔色真っ青だぞ?」 聞き覚えのある声がアルフォンスの顔を覗き込む。 「…………う」 どうしよう。 声が、声にならない。 震えたままの声が声にならない。 「え?」 「ボク……」 ボクはどうすればいい。 どうしたらいい。 誰か教えてくれるとは思わなかった。 それでも。 「鉄の?」 こんな呼び方をする人は、たった一人。 まるで、父のような人。 それを認識した瞬間、アルフォンスは手を伸ばしてその腕を掴んでいた。 そして。 「どうしよう、大佐!ボク、兄さんを―――!」 それは、悲鳴だった。 震える声で、やっと紡げた言葉。 心の中にあった言葉。 「鉄……の……」 「どうしよう! どうしよう! どうしよう!」 他に言葉を持たないかのように、アルフォンスはその言葉を繰り返す。 「に……い、さん、を……」 ぎゅっと捕まれた腕。 アルフォンスの焦点は合っていない。ロイは慌ててその肩を揺さぶる。 「鉄の! 私の言葉が聞こえるか! 鉄の!」 「……たいさ……?」 「そうだ。私だ。だから落ち着け」 落ち着かなければ、話も出来ない。 何があったのか分からない。 ちょっと前に会った時には、エメロードを心配させまいとその隣で笑っていたのに。 それが、今では。 「何があったんだ、鉄の……」 取り乱して。 エメロードに何かあったのかと思った。 子供がもしここで流れたのなら、彼女がまいってしまう。 けれど。 「おい、アル……」 ぐい、とラッセルがアルフォンスの肩を引っ張り、アルフォンスの顔を見る。 「今、大佐って言ったよな」 「…………」 アルフォンスは、少将と呼んでいた。今のアルフォンスが「初めて」会ったロイの階位は少将。その前の階位を今の記憶を無くしたアルフォンスが知るはずは無い。 けれど、アルフォンスは今、確かに。 「ごめん、ラッセル。約束、守れなく、て」 「アル……お前、やっぱり」 「ごめんなさ…い。ごめんなさい!」 大切な事も何もかも忘れて。 大事な人も忘れて。 約束も忘れて。 生きて来た全ての時間を忘れて。 戻ってきて、ごめんなさい。 「ごめ、んな、さい」 アルフォンスの瞳からぼろぼろと涙が零れる。 記憶を失ったままならどれ程良かっただろう。 一瞬そう思うほどに、還って来た記憶は壮絶なものだった。 けれど。 戻ってきた記憶は想像以上に優しかった。 温かかった。 優しすぎて、温かすぎて、自分の言葉がどれ程この人たちにとって重かったかを知る。 「大佐、ごめ、ん、なさ……いっ」 「鉄の……」 「兄さん、ちゃんと、幸せに……するって!」 言ったのに。 大切な人を守ると。 未来を全部上げると。 そう、言ったのに。 それなのに。 それなのに。 「ボク、は!」 「とりあえず、落ち着くんだ、鉄の」 ロイはアルフォンスの頭を撫で、アルフォンスの顔を覗き込む。 「君の所為じゃない」 そう、全てはアルフォンスの所為ではない。 全ては、たった一人の男の思惑の所為。 アルフォンスが記憶を失う原因を作ったのも。 エドワードが撃たれたのも。 エメロードが大切な人を失ったのも。 すべて、たった一人の男の画策の所為だ。 加害者と呼べるべき人間がいるならば、その男だけだ。 「だから、君が自分を責めるべきではない」 「ちが……っ!」 アルフォンスは首を横に振ってロイの言葉を否定する。 「ボクが、守るって……約束したんだ!」 誰の言葉でもなく、自分の言葉で、その未来を選んだ。 どんなに辛くても、一緒に生きていくと誓った。 どれだけ弱くても、強くなくても、大事な人を決して悲しませないとそう思っていたのに。 「ボクが……ボク、が」 「馬鹿野郎!」 どかっ。 頬に拳を受けたアルフォンスは、一瞬後ろによろめく。 「お前の所為じゃないって言ってるだろうが! 俺との約束まで忘れたのか! 思い出せなかったのか!」 「ラッセル……」 「肩くらいなら貸してやるって言っただろうが! あいつを守れなかったのはお前だけじゃない。俺もだ!」 「………」 「あいつがどう思っててもいい。それでも守りたいって言っただろ! そんな事すら思い出せてないのか!」 ラッセルは、ただひたすらエドワードの幸せを願った人。 アルフォンスと同じように。 守れなかった悔しさはきっと同等だろう。 「俺は、お前にはなれなかった。お前じゃなきゃ無理なんだ! なのに、お前は……」 ラッセルはぐいとアルフォンスの胸倉を掴み、じっとアルフォンスを見る。 「お前は自分を責めて逃げてるだけだ! ちゃんと向かい合え! 現実と!」 「でも……」 「でも……じゃないだろ、アル……」 不意にラッセルの瞳から落ちた涙。 「記憶、戻ったんだろう? お前は、何が一番か思い出したんだろう?」 ぽたり、ぽたり、ぽたり。 ラッセルの瞳からは涙が幾度となく流れる。 それは、喜びか悲しみか。 アルフォンスにはわからない。 けれど、それが大切な友の思いだと言うのは分った。 「……うん」 「だったら、今、何すべきかわかるだろう?」 謝りの言葉ならいつでも聞ける。 後悔だって何度でも出来る。 ここにいるのだから。 皆いるのだから。 支える人も、支えた人も。 大切にしてきた人も。 いるのだから。 だから。 「だったら、お前が行く場所は一つじゃないのか?」 ずっと、待っててくれた人。 誰よりもアルフォンスを待ち続け、そして傷付いた人。 その人のそばに。 今、全ての言葉はその人の為に。 アルフォンスがぐるりと周りを見渡すと、よく知った青い制服の軍人達がじっとアルフォンスを見ている。 誰も恨んではいない。 責めてはいない。 喜ぶには犠牲が多すぎた。 ただ、なんともいえない表情でアルフォンスを見ている。 その表情はエドワードと重なって。 「……兄さん、許してくれるかな」 アルフォンスは、小さく呟いた。 「それはお前が確かめろ」 「そう、だよね」 記憶をなくした間、ずっと他人のようだったエドワード。 エメロードのほうが近いと思っていた。 けれど、一番近くにいたのは、エドワードで。 失っていた時間に、酷く傷つけてしまった気がする。 エメロードを守る。 それより遥かに強い誓い。 エドワードを守る。守りたい。この全てを賭けて。 「……行って来るよ、ボク」 全てに決着をつけるため。 エメロードもエドワードも、きっとアルフォンスが傷つけた。 自分も傷付いた、なんて被害者みたいな事は言っていられない。 誰よりも傷付いた人たちがいるから、自分の事は後回し。 泣きたい。 叫びたい。 消えたい。 そんな事はいつでも出来る。 どんなに頭が混乱していても、分っている事がある。 一番大切な人は、誰か。 それはもう、分っているから。 最初に、還ってきた記憶だから。 だから 「エメロードと兄さんと……話をしてくるね」 もしかしたらアルフォンスの顔色は青ざめていたかもしれない。 それでも、誰一人止めようとはしなかった。 アルフォンスがやるべきことだから。 記憶を失ったのはアルフォンスの所為じゃない。 けれど、その口から零れた言葉は間違いなくアルフォンスのものだから。 アルフォンスがやるしかない。 どんなに辛くても。 どんな未来が待っていても。 行くしかない。 変な頭痛は取れない。 耳鳴りが酷い。 気分が悪い。 それでも、アルフォンスは。 「行ってきます」 真っ直ぐ顔を上げて、そう言った。 せかいがくずれおちた そうして、もとのせかいがもどってくる どちらがしあわせだったのか、なんてわからない それでも しあわせがそこにあったのはたしかなじじつ たとえどんなみらいがおとずれても ここからにげだしたりはしない |