どうして忘れていたんだろう。 どうして無くそうとしていたんだろう。 どうして。 どうして。 簡単に捨ててしまえるほど、軽いものではないのに。 【アゲハ蝶 14 砕けた硝子たち】 「何、これ………」 自分の掌を染める、赤。 鉄の匂いが、鼻の奥に抜ける。 「せん、せい……」 「しっかりしろ、アル! いいか、しっかり支えておくんだぞ!」 そういいながらイズミは持っていたハンカチを傷口に押さえつけ、圧迫止血を試みる。それでも尚、血は止まらない。 その隣で、エメロードが青ざめている。 それはそうだろう。 いきなり倒れた人間が腹から血を流しているのだから。 「姉さん、それじゃ血は止まらない」 ロイが近付いてその場に片膝をつくとイズミの手を見る。 「じゃあ、他に手があるのか、ロイ」 イズミの手を赤く染めて尚、広がって行く血。 病院に行くにしても、血を止められなければ意味がない。 「師匠、変わって」 「え?」 ラッセルが歩み寄り、ゆっくりと右手をエドワードの傷口に翳す。 ラッセルの得意とする、治癒の錬金術。その為に、ラッセルは右の二の腕に錬成陣を彫り込んでいた。 大きな病気などは治す事は出来ないけれど、傷口なら大概塞ぐ事が出来る。とはいえ、応急処置的なものだけれど。 「馬鹿、しやがって」 ぽつりと零した言葉。 あの時、分っていればラッセルの方が先に窓際に立っていた。 いや、ラッセルだけではない。 おそらく、そこにいた誰もが窓際に立った筈だ。 …アルフォンスを狙う銃弾から守る為に。 気付いたのはエドワードだけ。 だから、エドワードはアルフォンスから光を遮るように移動した。 自分の体を盾にする為に。 「これで病院に運べると思う」 すっとラッセルが右手を引くと、傷口は塞がっていないものの血は止まっている。原理は良く分らないが細胞の何かに働きかけて止血したらしい。ラッセルの錬金術は特殊で他の者には分らない部分が多々あった。 「アル、エドワードを寄越せ」 ラッセルが手を差し伸べて、エドワードの体を持ち上げようとすると。 「……アル……」 アルフォンスは首を横に振った。 「アル?」 エメロードが驚いたようにアルフォンスを見る。 「お前が運ぶのか?」 同じように驚いたラッセルがそう問うと、今度は首を縦に振った。 「……何でこんな時だけ……」 ラッセルは頭をがしがしとかくと、眉間に皺を寄せてアルフォンスを見る。 記憶を捨てると言ったアルフォンス。 エメロードと生きていくと言ったのに。 それなのに。 傷付いたエドワードの体を離そうとしないのは何故だろう。 エメロードが真っ青になっているのに、頑なにエドワードの体を抱きしめているのは何故だろう。 「ボクが、運びます」 アルフォンスはゆっくりとエドワードの体を抱きかかえ立ち上がる。 何度も見た光景。 いたるところで眠ってしまうエドワードを、鎧の時からアルフォンスはこうやって抱きかかえていた。 「お前が……」 ラッセルは一瞬戸惑いながら、困ったように。 「記憶を失ってるのが、嘘みたいだ」 そう零す。 記憶が無い。 何もかも忘れているという事実。 それがまるで嘘のようだ。 何一つ変わっていないように見えるのに、何一つ残ってないなんて。 イズミに沿われて執務室を出て行く姿は、昔のまま。 知っているアルフォンスのまま。 「兄さん」 「ん?」 「兄さんがアルフォンスさんの記憶を取り戻せなかったら言ってね」 「フレッチャー……」 「僕も頑張るから。アルフォンスさんの記憶、取り戻すから」 その瞳に涙を溜めたフレッチャーは、拳を作ると力強くそう言った。 これは、何の代価だろうか。 誰も望んでいない、あまりにも辛い現実。 病院の待合室はさほど込んではいなかった。ベンチに腰掛けながら、軍服の上着を抜いた面々がひっそりと会話を続けている。 「どこからの刺客だ」 「はっきりとは言えませんが、狙撃手はゾルゲ将軍に依頼を受けたものかと」 「……アルフォンスを殺そうとしたってとこっスかね」 「…………」 アルフォンスを殺そうとした。 それは、あのエメロードが選んだ相手だから。 あの時、エドワードが動かなければ、確実にアルフォンスは頭を打ちぬかれて死んでいただろう。 それ程に、ゾルゲは。 「あの少女に固執しているのか」 「そのようですね。大変可愛らしい方ですから」 エメロードは、誰が見ても可愛らしい女性だ。 小柄で清楚で可憐な。 ゾルゲが目をつけるのも分らなくはない。 それでも、行き過ぎている。 誰かを殺してまで何かを奪おうとするのは、まるで戦争のようだ。 「…………ホークアイ少佐」 「何ですか?」 「半年前の違法賭博場壊滅事件の件だが」 「はい」 「洗いなおしてくれ。確実にゾルゲが関連している」 「わかりました」 おそらく、ゾルゲは主催者の一人だ。それがつかめれば、ゾルゲを失脚させる事が出来る。 そう踏んだロイは、ホークアイにその事件の再調査を命令した。 ホークアイは一礼して、ロイの傍を離れる。 残ったのはハボック一人。 イズミは運び込まれたエドワードの付き添いで病室に入り、アルフォンスは気分が悪くなったエメロードに付き添って用心の為取ってもらった病室に入っていった。 トリンガム兄弟は、面会謝絶となったエドワードの病室の前のベンチで座っている。 「……最初から、伝えておけばよかったんスかね」 「鋼のを優先して、か?」 「……聞き入れちゃくれなかったでしょうけど」 ハボックは乾いた笑いを零すと、そのまま項垂れる。 「でも、こんな事態にはならなかったんじゃないかって」 「……そうだな」 もしかしたら、アルフォンスは記憶を取り戻すことを願ったかもしれない。 全ての過去を洗い浚い話していれば、アルフォンスは過去を振り返ろうとしたかもしれない。 それでも。 エドワードは、決めていた。 アルフォンスが幸せになれる手段があるならば、どんな手段でもいいと。 自分の傍にいることが幸せでなくても構わない。新しい幸せを見つけても構わない。 だから、記憶を取り戻させようとはしなかった。 おそらくそれは、エメロードが身篭っていたというのも理由の一つだろう。 エドワードの体の一部。 女としての体の器官は上手く動いていない。 ……子供なんて望めるわけがなかった。 それが、引け目になったのかもしれない。 「……少将」 「何だ」 「もしかしてエドワード、このまま男として生きていくつもりじゃないっスか?」 「え……」 「アルフォンスに思いっきり兄貴だって宣言したんでしょ。アルフォンスがいないなら、あいつが女でいる理由なんてないんじゃないっスか?」 「…………」 元々、少年のような形をしている少女だ。 見てくれで、少女だと見抜く人間は少ない。 それでも、間違いなく少女で少年ではない。 数年前なら、少年でいたいという気持ちも分らなくもなかった。 心の中に隠されていた傷。 化膿して膿がたまり続け、爛れていた傷。 その傷を抱えていた頃なら、自分が少年だと言い張っても理解できた。 けれど、今、その傷は癒えつつある。 傷口に塩を刷り込んだのは確実に自分達だが、その事で少女は立ち上がれた。自分の足で。 ひとりの少女として。 それは、きっといつも傍に一人の男がいたからだ。 弟であり、最愛の人間である、男。 その人間の為に、少女は少女でいた。 それが、少女の部分を必要とせず、兄としての部分しか必要としなかったら。 少女は、少女である事を捨ててしまうかもしれない。 「……俺は大事な妹も弟も失いたくないんスよ」 大事にしてきた妹と弟達。 いつも笑ってくれれば良いと思っていた子供たち。 それなのに、いつも泣かせてばかりだ。 「少将、俺、アルフォンスに話してきます」 「ハボック大尉」 「あのエメロードって子も大変な目に会ってきたと思うんだけど……エドワードの存在をアルフォンスが知らないって訳にはいかないでしょ」 たとえ、傍に大切な人がいたとしても。 エドワードの事は、アルフォンスが忘れてはいけない事実。 握り締めて生きていかなければならない、過去。 「…………」 苦笑しながら立ち上がるハボックの肩を掴んで、ロイは。 「私が行こう」 そう行った。 「少将……」 「あの二人の幸せは権利じゃなく、義務、だからな」 大事な娘と息子の幸せを願っているだけなのに。 何が一体二人の運命を邪魔しているというのだろう。 ロイは上着を持って立ち上がり、ハボックにそこで待機するように命じる。 その時。 「ロイ!」 廊下の向こうから、パタパタとイズミが走ってくる。 「姉さん」 「ちょっと来い!」 少し上がった息を整えながら、イズミはロイの腕を持って人気のない場所に向かって走り始めた。 「ごめんなさい、少し貴方と話がしたいの」 そう言って病室を訪ねてきたのは、女性の軍人だった。 ホークアイと名乗る女性だっただろうか。 アルフォンスははいと言いながら、部屋の隅にあった椅子を持ってきて自分の傍に置いた。 「クリスティさんに聞かせるには酷な話かもしれないわよ?」 「今、眠ってるんで……」 エドワードが撃たれたことで、気を失いかけたエメロード。顔色は悪いが、今は規則正しい寝息をたてている。エドガーには、宿に帰るよう言ってある。 「そう、お腹の赤ちゃんは大丈夫?」 「はい、問題ないみたいです」 そう言いながらアルフォンスはゆっくりとエメロードの頭を撫でた。 「あの、ボクからも一つ聞いていいですか?」 「何かしら」 「……兄さんの容態は」 エドワードは病院に運ばれて直ぐ、集中治療室に入れられた。そして面会謝絶となり、イズミを除いた面々は会うことすら出来ないでいる。 「命に別状は無いそうよ」 「……そうですか」 ここでもし、エドワードが命を落としたら、エメロードの傷になる。 きっと一生消えない、傷に。 自分の所為で人が死んだと。 そして、あの場所にいた人たちも深い傷になるだろう。 エドワードが撃たれた時の動揺は、並大抵のものではなかった。 「貴方は行かないの?」 「え?」 「貴方のお兄さんでしょう? 様子を見に行かないの?」 「……正直に言うと、ボクはエドが心配です」 「アルフォンス君……」 「ごめんなさい。きっと記憶を失う前のボクは兄さんの様子を見に行ってたと思うんです。だけど今は、エドが心配なんです」 子供が流れてしまうかもしれない。 そう医者に告げられた。 それ程にエドワードが撃たれた事は、エメロードにとってショックだったのだ。 「……エドに何かあったらボクは……」 「そうね。流れたりしたら大変だものね」 アルフォンスがどれ程エメロードを必要としているか分ったような気がした。 アルフォンスにとってエドワードは世界の中心ではない。彼女が今は世界の全てなのだ。 もう、あの懐かしい日々は、戻ってこない。 願ったものは還って来ない。 望んだ幸せは消え去った。 それでも。 「アルフォンス君」 「何ですか?」 「私個人の願いを伝えておくわ。私は君に記憶を取り戻して欲しい」 ホークアイは真っ直ぐにアルフォンスを見てそう言った。 「え?」 「私だけじゃない。これは、君にかかわる全ての人の願い。記憶を取り戻してから考えて欲しい」 エドワードを、アルフォンスを、大事にしていた人間達の望み。 「…………」 「君の背負ってたもの。君が大事にしてたもの。全て、思い出して?」 そうでなければ。 あまりにもあの子が救われない。 誰にも罪がないとは言え、あの子が一人で背負いすぎる。 何もかも背負って一人で生きていけるほど、強い人間ではない。 もともとは一人の少女だ。 その少女の手をこの青年が握っていたから、二人は立っていられた。 前を向いていられた。 どんなに辛い時でも。 どんな罪を背負おうとも。 断ち切れない、強い強い絆があった。 それを。 記憶を失ったからなんて理由で無くして欲しくない。 それが、誰もが願う強い祈り。 「………ホークアイさん」 「記憶を捨てるなんて言わないで。何年かかってもいい。一生かかってもいい。思い出して」 アルフォンスの人生は重い。 失ってしまって終るほど、軽くはない。 「……でも、そうするとボクは、エドを……」 「失うかもしれないわね、何もかも。今の幸せを失うかもしれない」 「だったら…」 「辛い事を言うようだけれど、聞いてね。君が記憶を取り戻すのは、義務、よ」 「え?」 「君の記憶は他の人間すら形成している。だから投げ出していいものじゃない。アルフォンス・エルリックを名乗るべきじゃない。君は、私達の知らない誰かになるわ」 「…………」 「少なくとも私達の知るアルフォンス君は、愛してるなんて言葉を使う人じゃなかった。そんなに驕った人物ではなかった」 「……ホークアイさん」 「何かしら」 「ボクは、もう、あなたたちの知らないアルフォンス・エルリックなんです」 「…………」 「それで、いいんです。エドを守れれば、それで……」 アルフォンスの瞳は真っ直ぐで誠実だ。 その眼差しは記憶をなくす前から変わっていない。 こんなことになるのならば、いっそ、鎧のままの方が良かったのではないか? そんな思いがホークアイの中を過ぎる。 記憶を失ってこんな風に別の女性の心配をするアルフォンス。 こんなものを望んでいたわけではない。 ただ、あの二人の小さな幸せ。 それだけを望んでいた。 「……お願い。お願いだからアルフォンス君。思い出してあげて。大切な人を」 「ホークアイ、さん」 「貴方には大切な人がいるの。大事な人がいるの。クリスティさんには酷な事を言っているかもしれない。貴方の心が二つに裂けてしまうかもしれない。それでも思い出して」 「そんなの、無理です」 「アルフォンス君…」 「エドのお腹にはボクの子供がいるんです」 「貴方の子供じゃないわ」 「え?」 「私達が何も知らないとは思わないでね。少なくとも、記憶を失う前までは貴方の傍にいた人間よ。君が女性に興味を示さない事をちゃんと知ってるわ」 「…………」 一番納得していないのは、父親だといった軍人でも記憶を取り戻すと言った青年でもなく、この女性だったのか。 アルフォンスは、ホークアイを見てそう思う。 見抜かれていた。 エメロードに性的欲求を感じない事。 一緒にいても、いつも穏やかなこと。 それは、おそらく皆知っていた事なのだろう。 それを言わなかったのは、やはり誰もがエメロードの事を気にかけてくれていたに違いない。 だが、この女性は違う。 この女性は、アルフォンスが記憶の中に置いて来た女性を大事に思っているのだ。 おそらく、同じ女性だからこそ。 「もう、遅いの?」 「え?」 「私達の言葉は、届かない?」 少し泣きそうなホークアイ。その顔を見る事が出来なくてアルフォンスは俯く。 「……エドを守るって決めたんです」 傍にいてくれた人を。 包んでくれた人を。 守ると、心に決めた。 もう揺らぐ事はない。 誰の言葉も、アルフォンスには届かない。 「そう……それなら、さっきの言葉は忘れて」 「え?」 「君に記憶を取り戻して欲しいと願ってるのは確かよ。でも、君の幸せを願ってるのも確かだから」 だから、どうか幸せに。 ホークアイはそれだけ告げると、足早に病室から去っていった。 「…………」 自分の過去に一体何があるというのだろう。 アルフォンスは唇を噛み締める。 あの夢のような闇ならいらない。 そんなものいらない。 けれど、必要としている人がいる。 この記憶を。 思い出すべきか。 思い出さないべきか。 どうすれば。 何度も自分の中で繰り返し問いかける。 その度思い出すのは、微笑んでくれたエメロード。 それから。 それから? 何を思い出そうとしている? 赤い、赤い、兄が流した血のように赤い…。 「アル?」 思考の迷路に迷い込んでいたアルフォンスを、エメロードが呼び戻す。 「エド……」 「どうした、の?」 「……なんでもないよ。それより気分は大丈夫」 「ええ……なんとか」 そう言いながらエメロードはベッドの中から手を伸ばすと、アルフォンスの服の袖を引っ張った。 「エド?」 「アル……」 「何?」 「私、あなたを失いたくない」 「ボクは、どこにも行かないよ?」 「失いたくないの……」 エメロードはゆっくり手を伸ばして、アルフォンスの腕を掴む。 失えなかった。 大切な人だった。 けれど。 予感がする。 また、失う予感がする。 大切なのに。 大事なのに。 また奪われていく気がする。 「だから、思い出さないで」 記憶を。 「……エド」 「私、ずっと一緒にいたい。エディとアルと一緒に」 「…………」 もしかしたら、エメロードは聞いていたのかもしれない。 ホークアイとの会話。 「……どこにもいかないよ」 「ホントに?」 「うん、行かない」 だって約束したからね。 アルフォンスは満面の笑顔で、そう言う。 エメロードもそれに答えるように、小さく笑った。 その時。 ガチャ! 二人の沈黙を破るようにドアが開かれた。 そこには、外で待っているといったラッセル。そしてその肩を掴んだイズミとロイ。 ノックもなしにいきなり入ってきた面々に、アルフォンスとエメロードは目を丸くした。 「どう…したんですか?」 エドワードの容態が悪化したのだろうか。 だから、こんなにも鬼気迫るものがあるのだろうか。 そんな事を考えていると。 いきなりだった。 ラッセルは右手で拳を作ると、勢いよくアルフォンスの頬を殴ったのだ。 「!」 驚いたエメロードが止めようとベッドから起き上がる。 だが、イズミとロイは黙ったまま動こうとしなかった。 止めても無駄だという事が分っているかのように。 「おい、アル」 ラッセルの声は座っている。 「な……に?」 殴られた理由が分らないアルフォンスは瞬きを繰り返しラッセルを見た。 「思い出せ」 「え?」 「今すぐ全部思い出せ! 何もかもだ!」 ぐい、とアルフォンスの胸倉を掴むと、ラッセルはそこが病院だという事を忘れて叫ぶ。 「忘れた何て言わせない! 今すぐ思い出せ!」 「そんな事言われても…」 無理だ。 アルフォンスの記憶は粉々で、再生しようがない。 何度考えても思い出せなかった記憶。 それを今すぐに思い出すことなんて不可能だった。 「やめてください!」 ベッドから起き上がったエメロードが必死にラッセルにしがみ付いて叫ぶ。 「お願いだから、私達をそっとしておいて!」 「……あんたじゃ無理なんだよ」 「え?」 「あんたみたいな女じゃ無理なんだよ! こいつの傍にいるのは!」 「………なん、で?」 「こいつの過去も知らないで闇も知らないで、表側の優しい部分しか見えない女にアルは救えない!」 そう言いながら、ラッセルは少し乱暴にエメロードを払いのける。 「エドに何するんだ!」 それを見たアルフォンスがラッセルの胸倉を掴み、声を荒げた。 「うるさい! お前こそエドワードに何をした!」 「そんな事今関係ない! エドは妊婦なんだ! 流れたりしたらどうするんだ!」 アルフォンスがそう言った瞬間。 「………お前、本当に駄目なのか?」 「え……?」 「何も、思い出せないのか?」 「ラッセル、さん……?」 胸倉を掴んでいた腕がゆっくりと下ろされる。 「どうして、お前が泣かないんだ?」 「?」 「どうして、お前は…」 かくん。 膝を折るようにして、ラッセルがその場に崩れた。 「ラッセル……」 イズミがゆっくりとラッセルに近付いて、その体を抱きしめた。 ずっと下を向いたままで、ラッセルは動こうとしない。 アルフォンスには分らない。 この二人が、何を訴えたいのか。 言いたいのか。 記憶を捨てる覚悟をしたアルフォンスには届かない。 もう駄目なのか。 ロイが顔を覆ったその時。 「……なにしてんだよ、ラッセル、師匠」 開いていた扉から面会謝絶の人間が、顔を出した。 「鋼の!」 一番傍にいたロイが驚いて駆け寄る。 イズミも驚いたように、エドワードを見た。 さっきまで薬で眠っていた筈なのに。 それなのに、何故かここにいる。 「エド、お前!」 「師匠、ごめんな」 「何が……」 「やっぱりオレって向いてなかったんだよ、そう言うの」 どこか顔色が悪いのは、まだ薬が効いているからだろうか。 「ほら、オレ母さんの事があるから。だから、天罰ってやつなのかなぁって」 「…………」 「だから、ごめん。師匠、大佐、ラッセル……ごめん、な」 ロイの事を大佐と呼んだエドワード。 記憶が混乱しているのか、それとも一番呼びやすい名で呼んだのか。 どちらにしろ、エドワードはまともな状態ではない。 それでも、その瞳の色は強くて。揺ぎ無いもので。 自分の言葉に嘘偽りがない事を示していた。 「……エド、それは本気かい?」 「本気だよ、師匠」 「本当にそう思ってるのか」 「思ってる」 「…………」 ゆっくりとラッセルの体を離し、イズミは立ち上がるとエドワードの傍に行き。 ぱちん! 平手で思いっきりエドワードの頬を叩いた。 「せん……せい?」 「それ以上いう事は許さん。他の誰かが許しても私が許さん」 「だって、せんせい」 「だってもなにもない。お前の言っていい台詞じゃない」 「だって……っ」 まるで縋るように、エドワードはイズミの腕を掴む。 「だって、しょうがないじゃん。オレが悪いんだから!」 「お前は悪くない」 「だって、オレ、オレ……」 「……お前はもう一度眠った方がいい。混乱してる」 イズミはぎゅっとエドワードを抱きしめて、ゆっくり背中を叩くと静かな声でそう言った。 確かにエドワードは混乱している。 今まで見た事のないくらいに。 怒りから来るものではない、それは。 「おい、アル」 「は、はい」 「彼女をベッドに横にさせなさい」 「え?」 「彼女まで流れたら救いようがない」 「姉さん!」 「知っておかなきゃならない事だ。今は彼女だけでも守るべきだろう」 「…………」 ロイは何かを言いかけて口を閉じる。 アルフォンスはとりあえずエメロードに横になるように言うと、エメロードはそれにしたがってベッドの中に入った。 「いいか、アル」 「はい」 「アルだけじゃない、クリスティさん、あんたもだ」 「はい」 「……今からいう事は、酷な事かもしれない」 「師匠!」 「お前は黙ってな、エド」 イズミはエドワードの口を塞いで、それ以上言葉を発せられないようにする。 おそらく、イズミの言葉は、エドワードにとっては最大の秘密だから。 ラッセルは聞きたくないのか、俯いたまま耳を塞いだ。それは、ラッセルにとっても受け入れがたい事実。 …それでも、それは伝えておかなければならない事実。 「さっきの銃弾で………」 「兄さんに当たった銃弾ですか?」 「そうだ。それに当たって」 どこか神経をやられたのだろうか。それとも内臓がいかれたのだろうか。 アルフォンスはあらゆる最悪の事態を想定してイズミの言葉を待つ。 これから先待つ未来をも予測して。 だが、イズミが放った言葉は。 「子供が、流れた」 残酷な、現実だった。 にげだしたかこに つかまえられたいま てばなしたがらすのこなが このてにかえってくる もう、もとにはもどれないの? 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