泣き叫ぶのか。 絶望するのか。 諦めるのか。 道なんて最初から決まっていたのかもしれない。 そうして、絶望は訪れる。 【アゲハ蝶 13 赤く響く声】 夢を見た。 真っ暗で、広い湖。 足元で波紋が広がり、消えてゆく。 思わず水面を見てみると、そこにはぐにゃりと歪んだ自分の顔。 そうして。 ひび割れた硝子みたいに繋がっている記憶。 記憶と言うより情報だろうか。 エメロード。エドガー。トルセイアの家。 ぐにゃりと歪んで、それは最近であった「記憶を知る」人たちのものに変わる。 あまり表情を変えない少将。それから、自分をじっと真っ直ぐ見てくる軍人達。記憶を取り戻すと言った銀色の瞳の青年。兄だと言う赤いコートの青年。それから、真実を少しだけ教えてくれた師匠。 ここに来て数日しか経っていないのに、かなりの情報がアルフォンスの中に流れ込んできていた。 でも、今はそれが、アルフォンスの記憶。大事な、記憶。 それ以前の記憶は、粉々に砕けた硝子の粉。 思い出せるわけがない。 そう思った瞬間、足を強く引っ張られた。 右足に、何かまとわりつく。 水とは違う、金属のような何か。 そうしてそれは、左腕にも絡み付き、アルフォンスの動きを奪う。 助けて! 得体の知れない恐怖に、思わず叫んだ。 でも、そこには誰もいなくて。 ただ、自分だけしかいなくて。 手を差し伸べてくれる人はいなくて。 不意に涙が零れそうになった。 助けて。助けて。助けて。 暗闇は怖いから。 誰もいない場所は怖いから。 この空洞から連れ出して。 傍にいて。 置いていかないで。 「………………!」 誰かの名前を叫びそうになったところで目が覚めた。 周りは湖の広がる空洞なんかじゃなくて、今自分達が泊まっている宿の一室。 驚いた様子で目を見開いたアルフォンスを見て、エメロードが首を傾げる。 「どうしたの?」 どうやら転寝をしていたらしい。そうでなければ、ただの白昼夢。 アルフォンスを飲み込んでしまう暗闇なんてそこにはないし、一人じゃない。傍には、エメロードとエドガーがいる。 叫びたかったのは、エメロードの名前だろうか。 額にうっすらとかいた汗を拭いながら、アルフォンスは大きく息を付いた。 「ホントにどうしたの、アル?」 心配したようにエメロードが近寄ってきて、アルフォンスの顔を覗き込む。 「大丈夫、なんでもないよ」 「そう?」 「ねえ、エド」 「何?」 「お腹、触ってもいい?」 「いいわよ」 エメロードはそう言ってアルフォンスの隣に座ると、アルフォンスの手を取り自分の下腹部に手を当てさせた。 「まだ、動いてないでしょう?」 「うん……でも、あったかい」 それは、エメロードの温もりなのか、小さな命の温もりなのかは分らないけれど、指先から伝わってくる熱は、アルフォンスを落ち着かせてくれた。 エメロードがいて、エドガーがいて、新しく産まれて来る命がある。 温かくて優しい、幸せの形。 きっと、これ以上に柔らかい幸せなどありはしないだろう。 けれど。 『お前は、その人を誰より好きだったし、その人は誰よりもお前を大切に思っていた』 甦る師匠の言葉。 粉々に砕けた記憶の中に潜んでいた真実。 誰も教えてくれなかった。 おそらく、それはエメロードの事を気遣っての事だろう。 アルフォンスの記憶には誰も触れない。 怒りもしない。 責めたりもしない。 アルフォンスが望むがままを、誰もが叶えてくれる。 もしも、アルフォンスが記憶を取り戻すというならば、惜しみなく力を貸してくれるだろう。その反対も然り。 アルフォンス自身迷っていた。 記憶を取り戻すか、取り戻さないか。 きっと、記憶を取り戻したならエメロードを守る事は出来ない。 砕けた記憶は破片でさえ重すぎて、受け止めるのに時間がかかるから。 だけど、記憶を取り戻さなかったら? アルフォンスを待っていてくれた人の事はどうなるんだろう。 ……もしかしたらもう、待っていないのかもしれない。 記憶を失ったアルフォンスに用はないのかもしれない。 嫌われたかもしれない。 それでも、記憶を失う前のアルフォンスが必要としていた人。 せめて、謝りたかった。 ごめんね、と。 「……エド」 「何?」 「明日、中央司令部に行こう」 「え?」 「決めたよ、ボク。これから、どうするか」 決断の時は訪れた。 もうこれ以上先延ばしになんて出来ない。 アルフォンスはにっこりと笑ってそう言った。 エメロードを愛してる。 エドガーを守りたい。 新しく生まれてくる命の父親になりたい。 だから。 執務室にいたものは、誰もが沈黙を保っていた。 ロイ、ホークアイ、ハボック、それから、ブレダ、ファルマン、フュリー。後は内情を知るシェスカ。ラッセル、フレッチャー、イズミ。そしてエドワード。 ロイはソファに向かい、アルフォンスとエメロードに向かい合っている。エメロードの隣には心配そうなエドガーもいた。 そんな中、最初に口を開いたのは、アルフォンスだった。 「少将、ボクはボクなりに自分で選択しました」 すっとテーブルの上に差し出される、銀の時計。 「お返しします」 「鉄、の?」 「二つ名を返上します。それから……」 きゅっと、エメロードの手を握って。 「彼女と、エドガーと、生きていきます」 「……………」 死亡扱いにしてくれても構わない。記憶も要らない。ただ、エメロードがいてくれればいい。家族がいてくれればいい。 アルフォンスが選んだ未来は、それだった。 記憶を取り戻して進む未来じゃなくて、記憶を失ったまま新しく作っていく未来。 大切な人と歩む、道。 その言葉を聞いた瞬間、エメロードの瞳から涙が零れる。 選んでくれた未来の先に、自分がいたことが信じられなくて。 「………鉄の、一つきかせてくれ。君は、彼女を……」 「……愛しています」 『愛してるって言うだけなら、いくらでも出来ます。でも、愛情の意味も理解できない子供の吐く台詞じゃないでしょう?言葉の意味も重さもボクはまだ理解していない』 不意に過ぎる言葉。 あの言葉を発したのは、誰だった? あの言葉を、ロイに向かって言ったのは。 「……そうか」 その言葉は、決別。 目の前にいるアルフォンスは、ロイのみんなの知るアルフォンスではない。 それは、ロイだけではなくそこにいた誰もがわかった事だった。 アルフォンスは、死んだ。 自分達の知っているアルフォンスは死んだ。 その事実が目の前に突きつけられただけ。 「……わかった。これは、私が預かっておこう」 きっと、アルフォンスはこの時計の中身を見てはいない。 エドワードと同じように錬金術で蓋をした銀時計。 中には、きっと大切な指輪が入っている。エドワードの機械鎧で作られた、あの指輪。 簡単に返せてしまうほど、銀時計はアルフォンスにとって必要のないものなのだろう。 「鉄の、いや、アルフォンス・エルリック。君はもう自由だ。トルセイアに帰っても構わん」 ロイの声はいやに落ち着いていた。 真実を語るつもりはない。そう言わんばかりに。 「あの、それで…お願いがあるんですが」 それでも、アルフォンスには聞いておかなければならないことがあった。 例え、過去を捨てるとしても。 「ボクが、将来を約束した人には、会えますか?」 「!」 アルフォンスの言葉に、ロイは目を丸くする。 知っている筈がない。 エドワードの事。 今まで誰もアルフォンスには話さずに来たから。 それなのに。 「私が話した」 眉間に皺を寄せながらイズミが言う。 「師匠、すみません……」 「全く、誰にも言うなと言っただろう」 「だけど!」 「……悪いとは思ってるみたいだね」 「………」 謝りたい。 記憶を捨てる事を。 その人を忘れてしまう事を。 過去にしてしまう事を。 アルフォンスはどうやっても思い出せなかった。 将来を約束した人との日々。 何一つ思い出せなかった。 粉々に砕けた硝子のまま。 だから、アルフォンスはエメロードを選んだ。 「会わせる事は出来ない」 「え……」 「君に会わせる事は出来ないといったんだ」 ロイは真剣な顔でアルフォンスを見るときっぱりとそう言った。 「やっぱり、怒って、ますか」 「私がな」 「え?」 「……おそらく、娘は怒ってはいない。君が選んだ道なら、それを後押しするだろう。だが、娘は許せても私が許せない」 「……あの、ボクが将来を約束した人って……」 「私の娘だ。たった一人のな」 「………」 少将はどうみても二十代後半から三十代前半。とても年頃の娘がいるようには見えない。 「失礼ですが、そんなに大きなお子さんがいるようには見えないんですが…」 「誰が何と言おうと、私のたった一人の娘だ。間違いなく、たった一人の娘だ」 ロイの目は本気だ。嘘を付いていない。 アルフォンスはその目が辛くて、一瞬目を逸らす。 本当にこの人の娘と将来を約束していたならば、自分はとんでもない事をしている。 とても、酷い事をしている。 目の前の軍人にも、その娘にも。 アルフォンスには分らなかった。 その娘が、周りにいる人間にとってどんな人間なのかを。 娘のようで、妹のようで、姉のようで、母のようで。 どんなに大事な娘なのかを、今のアルフォンスが知る由は無かった。 「君は、確実に娘を傷つける。それが分っていて会わせる親はいないだろう」 「……………」 その時だった。 「………ごめんな、さ」 小さな声で、シェスカが泣き始める。 「シェスカ……」 隣にいたハボックが慌ててシェスカの肩を持つ。 「ごめんなさ、い。ごめ、んなさ…」 シェスカ泣き止まない。誰に向かって謝っているのかも分らない。ただ、泣きながら謝り続けるだけ。 「シェスカ!」 思いつめたようにエメロードがシェスカに近付く。そうしてシェスカを抱きしめると、耐え切れなくなったのか泣き始めた。 「ごめん、ごめんね、シェスカ……でも、アルが必要なの、ごめんね、シェスカ」 エメロードは分かっていた。 ここにいた誰もが、アルフォンスの記憶が戻る事を願っている事を。 そして、アルフォンスに大切な人がいることも分っていた。 それでも、エメロードは願ってしまった。 ずっと一緒にいてほしいと。それが、望んではいけない事だとしても。 「二人とも、泣かないで。誰も、悪くないのよ?」 泣き崩れてしまいそうな少女の肩を軽く叩き、ホークアイは二人に泣き止むように呼びかける。それでも、少女達は泣く事をやめようとしない。 「でも、私、私……っ」 「シェスカ、大丈夫。誰も悪くないから。貴女は何も悪い事なんてしていないわ」 「でも!」 「大丈夫。それに、クリスティさん。貴女が泣く必要は無いわ。貴女だって悪い事はしていないのよ」 「…………」 少女達には重すぎた現実。 誰の言葉も届かなくて、泣き止ませる方法が誰にも分からない。 その時。 「二人とも泣くなよ。アルがこれでいいって言ってんだから」 二人の泣き声を裂くように、エドワードがぽつりとそう言った。 「兄さん…?」 「な、アル。お前は自分で選んだんだよな」 「はい……」 「だったら、誰も文句は言わないさ。だろ少将」 「……」 ロイは言いたい事が山ほどあった。 それでも、エドワードの言葉を受けてぐっと黙り込む。 「ラッセルも、フレッチャーも……師匠も。納得出来るだろ?」 記憶を取り戻してやると言ったラッセル。 傍にいてくれたフレッチャー。 アルフォンスに、ほんの少しだけ真実を伝えてくれたイズミ。 納得出来ないのはわかっている。 それでも。 これが、アルフォンスの出した答えなのだ。 「兄さんは、それでいいんですか?」 まだどこか他人行儀なアルフォンスの呼び掛け。その呼び掛けにエドワードは笑って。 「オレは記憶があろうが無かろうが、一生お前の兄貴だ。それに変わりは無い」 「……兄さん」 この人がこんなにも優しい訳が分らなかった。 兄弟だからと言う言葉で片付けるには、あまりにも優しすぎる。 怒りもしない、責めもしない。 ただ、自分が生きたいようにと。 「ありがとう、ございます」 「いいって、いいって。それよりも」 エドワードはくるりとそこにいた人々を見回して。 「謝っておけよ。お前が今の幸せと引き換えにした記憶に」 粉々に砕け散った硝子の記憶。 その記憶を共有した人々。 そして、アルフォンスが記憶から消去した人々。 どんな人たちだったか分らない。 それでも、この数日間でこの人たちがどれ程優しい人たちか分ったつもりだ。 優しい、優しい。 「おい、エドワード」 「何だよ、ラッセル」 「お前はそれでいいのか?」 「何がだ?」 「そいつの記憶が戻らなくて」 必ず記憶を取り戻す。そう豪語した青年が、鋭い瞳でエドワードを見た。 きっと、この青年だけは納得していない。 アルフォンスは何となくだけれどそう感じていた。 おそらくは誰よりも自分に近かった存在。 誰よりも、理解してくれた存在。 そんな存在であっただろう青年に、アルフォンスは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。 それでも、選んだのは、エメロードと歩む道。 もう今更、後戻りは出来ない。 そう思いながら、エドワードを見ると。 エドワードはすっと窓際に移動して、アルフォンスから光を遮ると。 「アルが幸せならそれでいいさ」 小さく微笑んだ。 つきん。 頭の中で何かが割れそうになる。 何かが。 何か大切な事が。 粉々の硝子が融けて、何かを映し出そうとする。 「なあ、アル」 「……はい」 誰だ。 この人は誰だ。 誰だ。 自分の兄、エドワード・エルリック。 それから。 それから? それから先が思い出せない。 何一つ思い出せない。 捨てようとした記憶が、何かを叫んでいる。 やめろ。 もういい。 記憶は捨てる。 思い出さなくていい。 幸せに。 幸せに。 エメロードを守る。 もういい。 記憶はいらない。 欲しくない。 記憶なんて戻らなくていい! その瞬間。 「……幸せに、なれよ」 笑うエドワード。 それは、予期せぬ出来事だった。 笑った後、ゆっくりと目を瞑って。 エドワードの体がゆっくりとアルフォンスに向かって倒れてきた。 「え……」 まるで、糸の切れた操り人形のように重力にそって、エドワードはアルフォンスに抱きとめられる形で倒れる。 「鋼の!」 「エド!」 「エドワード!」 叫び声が飛ぶ。 アルフォンスは状況が読めない。 何が起こった? 今、一体何が起こった? パーン! ホークアイが窓の外を狙って銃を構えている。 「右肩に当たったと思います!」 「ハボック!」 「分ってますよ!」 ロイに呼ばれたハボックがドアを開け走り去る。それに続いて他の軍人達も走り出した。 「おい、アル!」 「師匠…?」 「そのままエドを動かすなよ」 「エド…?」 「エドワードだ! いいか、絶対動かすなよ」 エド? エメロード? エドワード? 何もかもが混乱して訳が分らない。 兎も角、倒れたエドワードをしっかりと抱きとめる形を取ると。 ぬるり、と掌に触れたもの。 「え…?」 恐る恐る掌を見ると、それは。 「!」 真っ赤な真っ赤な血だった。 きおくのとうかはなんだった? しあわせのとうかはなんだった? それを おぼえていないのが つみなのか おぼえているのが ばつなのか あかくひびいたこえはなにもかもうばいさった |