その片隅に残るものが 大切なものだと 思えるのは 記憶の中で誰かが叫んでいるからかもしれない。 【アゲハ蝶 12 記憶の底】 最初の感想は、空気が違うという事だった。 いつも纏っていた、清廉な空気じゃない。どこか澱んだ靄の様な空気。 あの、どこまでも清々しかったあの空気が今はどこにもない。 アルフォンスと久しぶりに会ったイズミは、そんなアルフォンスを見て軽く皺を寄せた。 「アル」 呼びかけると、返ってくるのはにごった金色の瞳。 「えっと……貴方、は?」 「……ホントに忘れてるのか?」 「はい……」 ソファに浅く腰をかけたまま、俯くアルフォンス。その姿は、どこか小さい。 「…私の名前は、イズミ。イズミ・カーティス。お前達兄弟の錬金術師の師匠だ」 「し…しょう?」 「そうだ。覚えているか?私のところにいた事を」 イズミはアルフォンスの隣に座ると、軽く肩を叩いてその顔を見た。 「……すみません、全く……記憶に」 「そうか」 アルフォンスの記憶は、砕けた硝子のようなものだ。粉々に砕かれ、破片を僅かに残す硝子。イズミの元で暮らした日々は、粉々に砕け散ったらしい。 いつもならここで「記憶なんぞなくしおってからに!」と一発拳でも入れるところだが、今回はそうも行かない。 どんな衝撃で、残っていた硝子片まで砕けてしまうか分からない。 アルフォンスの存在は、今、鎧の時より希薄になっている。 「エドの事も、思い出せないのか?」 「エドワードさん……兄さん、ですよね?」 この兄弟は、互いが互いを一番としていた。互いを拠所とし、それを否定するものは誰もいなかった。 エドワードにはアルフォンスが必要で。 アルフォンスには、エドワードが必要だった。 だが。 「兄さんの事は、殆ど忘れてしまってるみたいです」 アルフォンスの口から零れるのは、残酷な告白。 イズミは、背筋に何か冷たいものが走るのを感じた。 失った記憶。 昔失った記憶とは引き換えにならない、大切な、大切な、記憶。 エドワードは言った。 アルフォンスが全てだと。 笑われようが罵られようが構わない。 アルフォンスがいてくれればそれでいい。 そう強い瞳で言った。 そのエドワードの事を忘れてしまったアルフォンス。 辛いのは、記憶のあるエドワードなのか、記憶をなくしたアルフォンスなのか。 「思い出したいとは、思うのか?」 「……さっきから、聞いてばかりですね」 「え?」 「イズミ…さんは、ボクに聞いてばかりだ。ボクに聞いても何も答えられませんよ」 何度も繰り返した台詞。 何度も繰り返したやりとり。 覚えているのか、忘れたのか、記憶を取り戻したいのか。 そんな言葉ばかり。 聞かなかったのは、兄だと名乗ったエドワードと、ラッセルと名乗った青年だけ。 エドワードが言った。 思い出さなくていい、と。 ラッセルが言った。 思い出させてやる、と。 違う言葉だけれど、同じ響きを持った言葉。 その二人だけは、どこかアルフォンスを訪ねてくる人間達とは違っていた。 「そうか。そんなところは変わらないんだな」 記憶を失っても。 真面目で真っ直ぐなところは変わっていない。 イズミは困ったように笑い、アルフォンスの頭を撫でる。 「イズミさん……」 「そのイズミさんって言うのはやめてくれ。何だか薄ら寒い」 「じゃあ、なんて……」 「お前は記憶があった頃は師匠と呼んでいた」 「せん、せ…い?」 「そう。師匠。そう呼んでくれたほうがいい」 「わかりました。それじゃあ、師匠と呼ばせてもらいます」 せんせい。 確かにアルフォンスはそう呼んでいるのに、響きが違う。 失った記憶の重さとはこんなに違うのか。 そう思いながら、イズミはゆっくりと手を伸ばしアルフォンスを抱きしめる。 「せんせい……?」 「考えろ、アル。記憶の重さを。置いて来た時間を。それが分らないほど馬鹿じゃないだろう。それが必要なのか不必要なのか、お前が決めていい。だけど、置いて来た時間の中にあったお前の幸せも考えろ。言っておく。記憶を失う前のお前は、確かに幸せだった。苦しい事もたくさんあったけれど、幸せだったんだ」 最愛の人がいて。 友と呼べる人がいて。 導いてくれる人たちがいて。 それは、紛れもない幸せだった。 あの、柔らかく穏やかな日々は、幸せそのものだった。 「……師匠。聞いて良いですか?」 「何を?」 アルフォンスは、確信した。 この人なら、きっと教えてくれる。 自分の行くべき道を。 自分が今すべき事を。 「ボクのこの腕は、誰の為にあるんですか?」 「アル……?」 ほんの少し、アルフォンスは震えていた。 「他の誰かに聞いちゃいけない気がしたから。ボクのこの腕は、……おそらくこのまま一生エドを守る事になる」 「エド……?」 「エメロード。ボクの伴侶になる人です」 「伴侶……だって?」 イズミは聞いていない。アルフォンスにそんな人がいる事を。 ただ、ロイからアルフォンスが記憶を失ったと聞いてダブリスから出てきただけだ。 内部事情まで知っているわけではない。 この場所も、軍部内にある応接室の一つだ。セントラルの駅についてから、どこにも寄らず誰とも会わずこの場所に来た。 そのイズミが、エメロードの存在を知っている筈がない。 「結婚、するのか?」 「はい、その予定です」 ずきり、と体の内部が傷む。無くした筈の臓器が悲鳴を上げているようだ。 「ボクが記憶を失っている間、ずっと傍にいてくれていた女性なんです。それに……ボクは彼女を守らなければならない」 彼女は、狙われているんです。 真剣な顔でそう言うアルフォンスに、イズミは何も言えなかった。 結婚する。 アルフォンスが。 エドワードではない、女性と。 これは、何だ? 悲劇なのか、喜劇なのか。 笑えもしない、泣けもしない。 ただ、呆然とするだけ。 「だから、ボクの腕は彼女を守る為にあるんだと思うんです。でも」 イズミに抱きしめられたまま、アルフォンスは言葉を紡ぐ。 それは、もしからしたら懺悔なのかもしれない。 「記憶を失う前のボクは、誰かを守ってた……いや、守られていたのかもしれない。そんな感じがするんです」 粉々になった硝子の粉の中に埋もれた破片に残るのは、比類なき、愛情。 誰が注いでくれたのか、誰に注いでいたのか分かりはしないけれど、確かにアルフォンスの中に存在する揺ぎ無い光。 アルフォンスはそれだけが気になって、記憶を全て失えないような気がしていた。 同時に。 真っ黒な硝子の破片が時々痛み出して、記憶を投げ捨てたい衝動に駆られていたのも事実だった。 「…分らないんです。ボクは記憶を取り戻すべきか、取り戻さないべきか」 このまま記憶を失って歩くのか、それとも記憶に寄り添い生きるのか。 今のアルフォンスには、選べなかった。 「……アル……」 確かに、アルフォンスの記憶は幸せなものばかりではないだろう。 けれど、アルフォンスは少なくとも幸せだった。 傍に、いつもエドワードがいたから。 「アル、この話は誰にもするんじゃないよ」 「師匠?」 「……記憶を失う前、お前は結婚する事が決まっていた」 「え……」 それは、イズミの独断。 迷わずに出した答えは、真実を知らずに出した答えは、アルフォンスがこれから先生きていくための障害になる。 全てを教えても、アルフォンスは簡単に飲み込めないだろう。 それでも、エドワードの存在だけは知っていて欲しかった。 やっと結婚の話が決まりかけていたエドワードとの事だけは。 「お前は、その人を誰より好きだったし、その人は誰よりもお前を大切に思っていた」 自分の犠牲など、厭わない程に。 「お前の記憶とその人は同じと思っていい。お前は、その人を捨ててまで、今結婚が出来るのか?」 「…………」 それは、誰もがひた隠しにしておいた事実。 エドワードの存在。 エメロードと言う女性の存在を気にして、エドワードの願いを汲み取って、誰もアルフォンスに話さなかった真実。 「……そんな、人がいたんですね……ボクには」 「ああ、そして今もきちんと生きている」 「……どうして、何も言ってくれないんですか、誰も」 どこかよそよそしかった、アルフォンスを知ると言う人たち。誰も真実を語ろうとはしなかった。 きっとそれは、誰もがエメロードに遠慮をしていたからだろう。 身重のエメロード。 それに、幼いエドガー。 その二人に、アルフォンスの過去は壮絶すぎて語れない。 そして、エドワードの存在は何より強烈な真実であり、口を閉じる事しか出来なかった。 それに、今のアルフォンスは幸せそうに見えて。 エドワードの幸せを願うように、アルフォンスの幸せを願うもの達は、何も言えなかった。 それでも、イズミは。 二人がきちんとした形で手に入れられる幸せを選び取って欲しくて。 「アル、大丈夫だ。お前が悩んで出した答えなら、ちゃんと幸せに結びついている」 そう言ってイズミはアルフォンスを力強く抱きしめた。 「あ、師匠。ちょうどいいところに…」 いつもの調子で見覚えのある姿に手を上げ瞬間、ラッセルは海より深く後悔した。 「………ちょっと来い、ラッセル」 「え…え……っと、それじゃ……」 「ちょっと来い」 「……はい……」 イズミの指示に従ってラッセルは資料を抱えたまま、イズミに近付く。 そうすると、イズミはにっこりと笑って。 「そういやあ、お前には軍の狗になった理由を聞いてなかったね」 「え? そうでしたっけ?」 だらだらと冷や汗をかきながら、ラッセルは笑ってみる。 「こんなとこでうろちょろしてる暇があるなら、ゼノタイムに戻って街の為に貢献してきたらどうだい」 基本的にイズミは軍が嫌いだ。 エドワードが国家錬金術師になった時も、凄かったとアルフォンスは話していた。 それなのに、弟子のうち、三人が国家錬金術師になったとなれば怒って当然だろう。それも、アルフォンスとラッセルは色々な反対を押し切って国家錬金術師になっている。 殺されるのかな、俺。 ラッセルは、笑顔の下でそんな事を考えた。 「全く、お前もアルもついでにエドも。要らない苦労を背負い込んで……」 国家錬金術師とは厄介な肩書きだ。 富や名声、権力を欲するものなら欲しいものだろうけれど、それ以外はあっても迷惑にしかならないだけ。 エドワードの理由は何となく理解できなくもなかったが、アルフォンスとラッセルの二人に関してはまだ理由さえ聞いてはいなかった。 「理由は……今は、言えません」 「何故だ?」 「アルのヤツの記憶が戻ったら、言いに行きます」 「それじゃ、いつの話になるかわからないだろう」 アルフォンスは、記憶を取り戻す事を拒否するかもしれない。 そうなれば、そんな時は一生やってこない。 「近いうちに、絶対に行きます」 「ラッセル……」 「アルは記憶を取り戻す。絶対に」 イズミを見つめるラッセルの瞳は、真剣だった。 そう言えば、この子は医療系の錬金術に長けていた。 自分のところに来たときは、独学で殆どの錬金術が医療系に偏っていた。満遍なく覚えているフレッチャーと違って基礎から覚えさせるのは結構大変だった事を、イズミはふと思い出した。 「俺が取り戻して見せますから、師匠。だから、もうちょっと待ってください」 「お前が?」 「……他の人に任せるより希望はあると思いますよ」 「まあ、確かに……だが」 「記憶を取り戻さないなんて事は言わせませんよ」 「え?」 「アルの記憶は簡単に捨てていいもんじゃない。あいつの記憶は、色んな記憶が重なって強固な鎧になってたんだ。その記憶の無いアルなんてアルじゃない」 アルフォンスとラッセルが持つ、黒い記憶なんて本当は要らないかもしれない。だけどその記憶もアルフォンスがエドワードを守りたいと強く願うための原動力。 アルフォンスの記憶は、エドワードへと続く道なのだ。 「お前は、相手の女性の事をどう思ってる」 イズミが初めて聞いたエメロードと言う名の女性の存在。 話からすると、アルフォンスはかなり大事にしているらしい。 「エドワード以外は、女と認めませんよ、俺は」 アルフォンスの傍にいるのは、エドワードだけ。 それ以外は認めない。 ラッセルは不適に笑って、そう言った。 「そうか……」 エドワードとアルフォンスにとって、この子はかけがえのない友なのだと、今更ながら痛感させられる。 イズミは、小さく溜息を一つ付くと。 「私と旦那は、当分の間そこの宿に泊まってる。暇があったらフレッチャーでも連れて遊びに来い」 「暇が出来たら行きますよ」 「訂正。暇がなくても来い。アレならエドも連れて来い。どうせ引き篭もりになってるんだろ」 「わかりました。フレッチャーもエドワードも、ついでに記憶が戻ったアルフォンスも連れて行きますよ」 そう言って、ラッセルはまるで子供のように笑った。 それを見てイズミは、ラッセルの頭を撫でると。 「頼んだからな」 と、小さく口にした。 さらさらと きおくがながれるおとがする だれですか よんでいるのはだれですか ぼくを きおくのそこからよんでいるのはだれですか |