嘆きの声が
 聞こえなかった事なんて



 一度も無かったはずだろう?





【アゲハ蝶 11 不確かな今】






「当たりだな」
 ロイは口の端を少し吊り上げて笑う。
 シェスカに無理を言って解放してもらった書庫。
 殆ど、証拠となるものは無かった。
 ただ、その中に確たる証拠が一つ。
 半年前に、違法賭博場壊滅事件があった。
 どうやら軍の人間もかなり関わっていたと見られる違法賭博。
 チップは、薬や人身。それに、闇に流れてしまった美術品の数々。
 そんなものを賭けて人を集めていた違法賭博。
 その賭博場が壊滅的な被害を受けたのだ。
 世間に取りざたされる事もなく、片付けるには大きすぎた事件。
 何らかの形で外部に漏れる事があったはずなのに。
 その、事件は起こっていなかったかのように闇に葬り去られた。
 おそらく、その違法賭博に関わっていたのは、名のある者たちだったのだろう。
 全てを無にしてしまえるほどの。
 けれど、軍内部では少々情報が漏れてしまい、その情報がこの書庫に収められていたのだ。
 半年前、国家錬金術師がその違法賭博の調査に送り込まれている。誰がその任務についたのかは不明だがその任務を出したのは、エセルバート・ゾルゲ。
 どこからかそんな任務が下ったわけではない。ゾルゲの独断だ。
 他の人間が下した任務なら疑う事は無かっただろう。しかし、ゾルゲはその違法賭博の中心的人物とまで言われた男だ。
 自分で墓穴を掘るはずが無い。
 ならば、ゾルゲは一番安全だと思っていた場所、違法賭博が行われていた古城で何らかの事件を起こしている筈。
 まあ、それが引き金となり違法賭博場壊滅事件に繋がってしまったのだろう。
「……………」
 半年前。
 国家錬金術師。
 違法賭博場壊滅。
 嫌な言葉が並ぶものだと思いながら、ロイはその資料を引き抜くと胸のポケットに収め、その場を後にした。





 それは、突然だった。
 宿で一人でいたエドワードをラッセルが訪ねてきて。女一人の部屋に上がりこんだら誰にだか分からないが怒られるというので、二人はとりあえず近所の公園まで足を運んだ。
 またこの場所か。
 ラッセルはそう思いつつも、この前アルフォンスと話したベンチに座り、エドワードにも座るように促すと、いつものように軽い口調でこう言った。
「あのな、俺、アルの記憶取り戻すから」
 まるで、天気が良いですねと言わんばかりの口調でそれを言い放ったラッセルに、エドワードは目を丸くしてラッセルを見る。
「………は?」
「だから、俺、あいつの記憶を取り戻して見せるから」
「……錬金術でか?」
「そんなわけ無いだろ。医療に携わるものとして、だ」
 夕日が傾き始めた公園。
 子供たちの声ももう、聞こえない。
 一番星が空の端に光り始める。
 そんな不確かな時間の中で、まるで夢物語のような事を話すラッセル。
 エドワードは、眉間に皺を寄せた。
「ラッセル……」
「何だよ」
「お前だって、アルの記憶が無いのは辛いだろうが……出来もしない事を口にしないほうがいい」
 エドワードの言葉は正論。
 失われた記憶が戻って来る事は殆ど無い。
 断片的には覚えていると言うアルフォンスだが、そのうちその記憶も薄れていってしまうのだろう。
「出来ない事は無いさ」
「無理」
「無理じゃない」
「無理」
「無理じゃない」
「無理だっつってんだろ、この馬鹿」
 ぱこ、とラッセルの頭を叩くと、エドワードは目を細め。
「そこに無いものをどうやって生み出すんだ。記憶は積み重ねられた情報だ。その情報が無くなってるのに元に戻るわけが無いだろう」
「出来るさ、アルなら」
「どうして」
「あいつは奇跡の塊だ。あいつに出来ない事は、お前を不幸にする事だけだよ」
 アルフォンスは奇跡の塊。
 全てを失い、魂を手に入れ、肉体まで手に入れた、奇跡の申し子。
 無から有を紡ぎだす事の出来る者。
 記憶を取り戻す事など造作も無い事だろう。
 それが、エドワードのためなら尚更に。
「あいつは怖いくらい、お前に盲目的になってる。お前を守る為なら、記憶を取り戻す事だって出来るさ」
「……………」
 


 ごめんね、兄さん。ここに還ってきたから……もう、どこにもいかないから……だから


 泣かないでと言いながら泣きじゃくったアルフォンス。
 ふと、あの時の姿が甦る。
 あの奇跡の瞬間。
 それが、何度も何度も、エドワードの中で再生される。
「エドワード、お前は知ってるんだろ、その力を」
「…………」
「俺は、ほんの少し助け舟を出すだけだ。まあ、同じショックを与えるなんて事はしないけどな」
 流石にもう一度川に投げ込んで見るという手は、あまりにも乱暴なものだろう。
「だから、エドワード。信じてろ。お前のところに帰ってくるって」
「……っでも!」
 エドワードは膝の上に置いた手で拳を作ると、それを小さく振るわせる。
 奇跡は起きないからこそ奇跡なのだ。
 奇跡の代価はあまりにも大きい。
 エドワードは、いまもしかしたら奇跡の代価を払っているのかもしれない。
 アルフォンスを連れ戻すと言う奇跡の代価を、アルフォンスを失う事で。
「……やっぱり、無理だ。ラッセル」
「どうしてそう後ろ向きなんだよ、エドワード!」
 今まで柔らかだったラッセルの口調が突然荒いものに変わる。
「お前はいつだって前を見てただろ! 前だけを見て、振り返ることなんてしないで、血反吐を吐こうが何しようが前だけ見てるようなヤツだろ!」
「ラッセル……」
「俺だけじゃない、軍部の人間やお前達を知ってる人間達がみんなアルの記憶を取り戻そうとしてるんだ! 無理じゃない、奇跡じゃない! これは、必然なんだ!」
 アルフォンスの記憶が元に戻る事。
 そうして、エドワードの元に帰ってくること。
 不可能や奇跡なんかじゃない。
 そこにあって、当たり前の事だ。
 ラッセルは俯いてしまったエドワードの胸倉を掴むと、怒鳴るようにそう叫んだ。 
「お前はどうしたいんだ! エドワード! このままアルと別れるのかそれとも同じ道を歩くのか! どっちなんだ!」
「……簡単に言うなよ! クリスティさんには子供がいる! 今のあいつには大事な生活がある! それを崩してまで手に入れるものなんて要らない!」
「馬鹿野郎!」
 がす、とラッセルがエドワードの頬を殴る。
 そうすると、エドワードは驚いたようにラッセルを見た。
「他人の幸せなんか関係ない! 必要なのは、お前の幸せだ!」
 エドワードの幸せ。
 それは、アルフォンスと共に在る事。
 それ以外は、ない。
 どれ程の人が、望んでいる事だろう。
 どれだけの人が、願っているだろう。
 話に聞いた。
 過去に二人を傷つけた人間が、密やかに二人の幸せを祈った事を。
 父親代わりの男が、常に願っている事を。
 兄のように慕う男が、望んでいる事を。
 姉のように優しい女性が、心から願っている事を。
 誰もから聞いた、二人の幸せ。
 ラッセルも願わずにはいられなかった。
 それが、ラッセルにとっても幸せだったから。
 たとえ、エドワードの事が好きだったとしても。
 自分のものにしたいわけじゃない。
 ただ、幸せでいてくれればそれで良かった。
 それだけが願いだった。
 それなのに。
「あの女は不幸だと思う。でも、それはアルには関係ない! 助けてもらったって言う恩があるだけだ! アルの幸せを崩す権利はあの女には無い!」
 突然現れた、柔らかな雰囲気を纏った女性。
 エドワードとは正反対の雰囲気を纏った女性。
 違う、とラッセルは心の中で叫んだ。
 アルフォンスの闇は大きくて、あんなか弱い女性では包み込めない。
 アルフォンスの背中を守る事なんて出来ない。
 違う。
 違う。
 違う。
 あの女性では、アルフォンスを幸せになんて出来ない。
 一緒に、闇に引きずり込まれてしまう。
 アルフォンスに必要なのは、存在感の大きなそうまるで女神のような女だ。
 強い強い、女神のような女だ。
「だから、エドワード……」
 流石に殴ったのは悪かったと思っているのか、胸倉を掴んでいた手を離すと、ラッセルは俯き。
「アルの幸せだけ考えようとするなよ」
 自分の性別を偽ったり。
 兄だという事を誇張したり。
 何も教えなかったり。
 全ての出来事を否定して、殻の中に閉じこもってしまったエドワード。
「……ラッセル」
「俺は、知ってる。アルの幸せの意味。だから、お前とアルには一緒にいて欲しい」
 二人で一つの二人だから。
「……今までのようには無理かもしんねぇぞ」
「大丈夫、元に戻る」
「アルだって、本当にクリスティさんの事が好きなのかもしれないし…」
「アルはお前以外を女と認めてない」
「それに……」
「もう、いいわけするのやめろ。お前はどうしたいんだ、本当は」
 ラッセルは、ぎゅう、とエドワードの腕を掴んでその顔を覗き込む。
 ずいぶんと痩せたエドワード。
 青白い顔色。
 こんなままじゃいけない。
 これは、エドワードじゃない。
 いつものエドワードじゃない。
 ラッセルの知っているエドワードは、誰よりも強く眩しい女性だった。
 だから。
 いつものように笑って欲しかった。
 自分の願いを強く叫んで欲しかった。
 覗きこんで真剣な顔でエドワードを見ると。
 少し、泣きそうな顔をしてエドワードは。
「……アルに、戻ってきて、欲しい」
 そう、言った。
「よし、分かった」
 ラッセルは頷いて、笑う。
 そして。
「絶対取り戻してやるから、アルの記憶。まだ婚約祝いも渡してなかったからな」
「ラッセル……」
「友達として絶対に、アルの記憶を取り戻してやるよ」
 それが、婚約祝い代わりだ。
 そう言いながら、エドワードより遥かに泣きそうに、笑った。





 わらって
 わらって
 わらって
 それがただひとつのねがい


 ふたしかないまはふめいりょうでみえないけれど


 たしかなみらいは
 ちゃんとみえてくるはずだから






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