舞い降りた蝶を
 その手に掴んでしまって
 繋ぎとめておく術を



 知らない。





 【アゲハ蝶 1 帰って来ない翅】





「だいたいさぁ、行方不明になるあいつが悪いんだよな」
 辺りはもう夜の帳を落とし、真っ暗闇の中、中央司令部のそこにはぽっかりと灯りが付いている。
 徹夜続きの面々は苦い苦い珈琲を飲みながら、ハボックはぽつりと零した。
「ハボック少佐、それ、禁句です」
 フュリーもまた苦い苦い珈琲を飲みながら、溜息ともにそう呟く。
 死んではいないと誰もが思っていた。
 いや、願っていた。
 死んでいるはずが無いと。
 そうでなければ残された片方までが駄目になってしまう。
 ここに今いないという事はまだ探していると言う事だ。
「あいつ、ホントに休んでるのか?」
 ブレダも苦い苦いその珈琲を飲みながら、窓の外を見やった。
 建前は、国家錬金術師である証拠の銀時計の回収。
 一部のお偉方は既に死亡と決め付けていた。
 その任を引き受けたのは、ロイ一派だ。
 死んではいないと誰一人否定して、生きている人間を探しているが。
 鉄の錬金術、アルフォンス=エルリックは死んでいない。
 鋼の錬金術師を置いて死ぬはずがない。
 どこかで生きている。
 どこかで生きている筈だ。
 あの娘を一人にする勇気など、あの青年は持ち合わせていない。
 そんな事、出来やしない。
 自分ひとりで、先に逝ってしまう等という事は。
 一度、そうして、罪を背負った事があるから。
 自分も、片方も。
 だから、死んでいるはずがない。
 死んでしまえば……また、あの娘は禁忌を犯す。
 五体満足な体を全て投げ出し、全てと引き換えにいとしい者を手に入れる。そうに違いない。
 それだけは、誰もが避けたい事態だった。
 それ程の能力の持ち主、それが今たった一人の人間を探し回っている娘。
 娘。
 何を失おうと構わない。
 ただ、失いたくないものを不意に失った娘。
 その娘がただ、誰の命でもなく走り続けている。
 その姿は、痛々しいもの以外の何者でもなかった。
「……助けてやりてぇな」
 ブレダがぽつりと呟いた。
 その言葉に、そこにいた誰もが頷く。
 それは、娘か、消えた青年か。
 二人一緒じゃなきゃ、意味がない二人だったのに。
 どんな時も二人で乗り越えてきた二人だったのに。
 片方だけなんて、そんなの辛すぎる。
 その時かちゃりと扉が開き、酷く不機嫌そうな彼らの上司が入ってきた。
「…まーた、何かいわれたんスか」
 煙草の灰を灰皿に落としながら、ハボックはそう言う。
「…ゾルゲ将軍が、早くしろ、とな」
 国家錬金術師の持つ銀時計は、裏のオークションにかければ相当な値で売れる。
 それに、悪用される可能性も高い。
 早く回収しなければならないものだった。
「人命を優先に、とは言わなかったんですね」
「死んだものだとおもっているさ、あの若造は」
 若造。
 ロイは将軍のことをそう言う。
 確かにロイとそんなに年齢の変わらないゾルゲは若造呼ばわりされても仕方ない。
 しかも、ロイとは違い名家の出身で異例のスピード出世なのだ。その昇進速度はロイよりも速かった。   
「中佐、すまないが珈琲を私にも淹れてくれないだろうか」
「わかりました」
 そう言ってホークアイは苦い苦い珈琲、世間一般にはエスプレッソと呼ばれる珈琲を抽出しロイに差し出した。
 誰もが疲れていた。
 限界だった。
 けれど、探さなければならなかった。
 正確には、ならないのではない。探したいのだ。
 誰もが、皆。
 あの青年を愛していた。
 温厚で柔和な表情を見せる、けれど芯の強い時には恐怖となり得るあの青年を愛していた。
 誰よりも。
 彼が鎧であった頃から。
 そんな彼を失うわけにはいかない。
 失いたくない。
 どれだけ疲れていようが、関係ない。
 見つけなければ。
 中央司令部にぽっかり浮かんだ光の中で、ロイ達はエスプレッソを全て流し込み、軍支給のコートを羽織るとまたその部屋から飛び出していった。





「ああ、それ?」
 エメロードは鏡の横の写真を見て苦笑いを零す。
「……殺された、恋人、よ」
 途切れ途切れの言葉。
 もしかしたら、まだエメロードの中では整理の付いていないことなのかもしれない。
 アルフォンスはそう思う。
「……ちょっとだけアルに似てるでしょう?」
「そう?」
「うん、雰囲気かな。ちょっとだけ、似てる」
 優しい人だったのよと、エメロードは笑った。
 優しくて強い人だった。でも、駄目だった。そう言って。
「……殺されたの?」
「ええ、軍の人間にね。間違いなく」
 そう言った瞬間、エメロードの顔には影が落ちた。
 軍の人間が殺した。
 その経緯までは聞けない。
 アルフォンスは、腰の鎖の先についている銀時計をぎゅっと握った。
 何故か自分はこれを持っている。
 何故か錬金術師の証を持っている。
 これは、間違いなく国家錬金術師の証、銀時計だ。
 自分の記憶なんてないのに、こんな必要のない記憶があるなんて。
 アルフォンスは、唇の橋を噛んでそう思った。
 記憶がない。
 アルフォンスには、アルフォンスと言う名前以外記憶はなかった。
 川沿いの小さな家の女主人が自分を見つけてくれなかったら、自分は間違いなく水死体になっていただろう。
 彼女が救ってくれたから、アルフォンスは今、ここにいる。
 ここに来て半月、エメロードもエドガーも本当の家族のように接してくれている。
 記憶のないアルフォンスには、それがひどくありがたかった。
 しかし。
 エメロードは今の言葉からするに、確実に軍の人間を嫌っているだろう。
 これだけは見せられない。
 アルフォンスは鎖の先の錬金術師の証をぐっと掴んだ。
 その時。
「大変だよ!」
 外で遊んでいたエドガーが慌てて家の中に飛び込んでくる。
「また、軍部のやつらが」
「何ですって!」
 エメロードの顔が一瞬で青くなった。
 恋人を殺された、と言った。
 軍に。
 軍人に。
 それは戦火の中の話かもしれないけれど、確かに殺されたといった。
 そして、エドガーが。
 また、だと言った。
「エドはここにいて」
「アル?」
「いい?ボクが良いって言うまで出てきちゃ駄目だからね」
 ゆっくりとエメロードを落ち着かせて、アルフォンスは椅子にエメロードを座らせる。
「それから、エディ。君も駄目」
「えー!僕だって姉さんを守るんだ!」
「駄目よ!二人とも」
 エメロードは叫ぶように言った。
「軍の人間は国家錬金術師だって平気で送ってくるのよ、太刀打ち出来るわけないじゃない!」
「エド」
「……姉さん」
「もういや、私は誰も失いたくないの。もう、嫌なの……」
 そう言って泣き崩れるエメロードの肩を抱き、アルフォンスは言う。
「大丈夫。エドはボクが守るから」
 女性を悲しませる事なんて許せない。
 それも恩人なら尚更だ。
 不思議な事に、アルフォンスは両手を合わせるだけで練成が出来る体質らしい。
 相手が国家錬金術師でも大丈夫だろう。
「エディ、姉さんをよろしく頼むよ」
「うん。気をつけてね!お兄ちゃん!」
 ととと、とエドガーはアルフォンスに近付きそっと耳打ちをする。
「今日の人も国家錬金術師だって言ってた」
 エメロードに聴こえないように、小さな声で。
「そうなの?」
「うん、だから気をつけてね」
 心配そうなエドガーの顔。
「……ありがとう、エディ」
 そう言いながらエドガーの頭を撫でると、アルフォンスは扉を開けて外へ飛び出した。
 先手必勝。
 両手を合わせてそのまま地面に両手を叩きつける。
 すると、庭の入り口にいる錬金術師のところまで真っ直ぐ地面は割れ、硬い突起物を出現させた。
 それに驚いた錬金術師はとん、とそれを軽く交わすと、音もなく割れていない地面に足を下ろす。
 出来る。
 アルフォンスは、肌でその錬金術師の強さを感じ取った。
 だが、何か様子が違う。
 地面に降り立った錬金術師は攻撃を繰り出そうともせず、ただ立ち尽くしてアルフォンスを見ている。
 そして。
「………?」
 何か、言葉を紡いだ。けれど、その声は聞こえない。
 分からないが、もしかしたら自分の知り合いなのかもしれないが、今はエメロードとエドガーを守る事が先だ。
 攻撃を仕掛けてこないならこっちから攻撃を仕掛けるだけ。
 もし、本当に仲が良くて、自分の事を知っている錬金術師だったら、記憶が戻れば謝ろう。
 そう、心に決めて。
 すっと、割れ目を避け速いスピードで錬金術師に近寄ると。
「エメロードは渡さない!」
 そう言って右の拳を繰り出す。
 その右の拳を錬金術師は体を動かす事で避け、アルフォンスの腹に出来た隙に拳を一発入れる。
 強い力。
 けれど、倒せない相手ではない。
 アルフォンスが上を見ると。
 あいては怒っているのか泣いているのか分からない。
 そんな表情をして。
「あんた達がエメロードを狙ってきてるのを知ってる。エメロードは渡さない」
「……エメロード?……」
「違うのか?それとも、この家に錬金術師がいる事に驚いているのか?」
 そんな言葉の間にも交わされる攻防。本気でやっているのに、組み手にしか見えない。
 守らなければ。
 エメロードを、エドガーを。
 大切な「家族」を。
 国家錬金術師は、急所を全て避けて攻撃を仕掛けてくる。
 その隙を突いて、アルフォンスは錬金術師の顔を思いっきり殴った。
 がっ。
 その勢いで、錬金術師は一メートル程飛ばされる。
 そして。
 口の端から流れた血を拭って、真っ直ぐに前を見て。
 いや、真っ直ぐに見たのは前ではない。
 アルフォンスだ。
「アル!」
 中にいて欲しいと言ったのに、エメロードは中から飛び出して、思わずアルフォンスに抱きついた。
「エド……」
「もう、やめて。こんな事で貴方を失いたくないの、アル」
「……でも」
「……あなたもゾルゲ将軍に雇われた錬金術師なのでしょう」
 いつもなら見せないような怒った表情のエメロード。きっと、目の前の錬金術師を睨みつけて叫ぶ。
「伝えて。ゾルゲ将軍に伝えて。私は決してあなたのものにはならないと。アルバートを殺したって、貴方のものにはならないって!」
 ぽろり。
 エメロードの瞳から涙が落ちる。
 失いたくない。
 これ以上誰かを。
「……じゃあ、これも伝えておいて、錬金術師」
 アルが低い声で言う。
「…エメロードを狙ってくるなら、ボクが守るって」
 そう言って見せた国家錬金術師の証。
 銀の懐中時計。
 エメロードもエドガーも驚いた様子を見せたけれど、錬金術師は分かっていたのか何も言わなかった。
「アル、あなた……国家錬金術師だったの?」
「そう、みたいなんだ」
「お兄ちゃんも、じゃぁ、姉さんを」
「違うよ。僕はエドを狙ってきたわけじゃないから」
 きっと強い視線を錬金術師に返して。
「絶対守って見せるから。たとえ君が国家錬金術師でも、彼女を守ってみせる」
「!」
 一瞬だった。
 目を見開いた錬金術師は直ぐに目を閉じ、わなわなと小さく震えると、踵を返し家から遠ざかっていく。
 赤い、コートを翻して。
「アル、……ごめんなさい」
「いいんだよ、エド。ボクも国家錬金術師だっていう事を黙っていてごめんね」
 泣きながらアルフォンスにしがみ付くエメロードの頭を撫でて、アルフォンスは何度もごめんねを繰り返した。





 蝶は飛び去った。
 帰っては来ない。
 その翅をむしりとる事さえ出来なかった自分に
 蝶は飛び去っていった。



 二度と帰らぬ場所へ。






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