ひらりひらりと舞い落ちる記憶の先
 その先で微笑んでいるのは誰。
 いつもまるで、蝶が逃げるように
 見つからない
 捕まらない



 一番大切なモノ





【アゲハ蝶 序章 舞い落ちるように】





 ひらひらと蝶が飛んでいる。
 それを見ながら青年は、花に水を与え続ける。
 欠落した何か。
 それは、なんだったのか。
 大切なものだったのだろうか。
 何よりも大切なものだったのだろうか。
 それすら今では、分からない。
「アル、エディ。ねえ、パイが焼けたわ。一緒に食べましょう!」
 家の中から呼ぶ人の声。
 その声にわかったと頷きながら、アルフォンスと呼ばれた青年はホースを置き水を止めた。
 この家に来て、既にもう半月が立とうとしている。
 エメロードとよばれる女性が、この家の主。
 両親を早くに亡くし、たった一人で十歳も歳の離れた弟を一人で育ててきた女性だ。
 アルフォンスにとっては、そう、命の恩人。
「お兄ちゃん、姉さんが呼んでるよ。早く行こう」
「ああ、そうだね」
 横で土を弄っていた少年が立ち上がり、泥だらけの手を伸ばしてアルフォンスに抱っこをせがむ。そうすると、アルフォンスは少年を抱き上げ家へと向かう。
 優しい木漏れ日の中、優しい人たち。
 幸せの形。
 エメロードはチェリーパイを切り分けながら、帰ってきた二人に「ちゃんと手を洗ってね」と言うと温かい紅茶を注いでいる。
 それに頷いて二人はきちんと手を洗いに走り、まるで競争みたいに手を洗う。
 そうして食卓に着くと、温かい空気がそこを包んでいた。
 エメロードは可愛らしい女性だ。
 栗色の髪をくせっ毛だからと三つ編みにし、小さなリボンで結んでいる。
 大きなハシバミ色の瞳は長い睫に縁取られ、まるで小さな宝石の様だ。
 エメロードを見た人間は、確実に彼女を「可愛い人」だと表現するだろう。
 そのエメロードが嬉しそうにアルフォンスと少年をみて笑っている。
「エディ、ほらちゃんと食べないと落ちちゃうわよ」
「うん、わかってる」
「でも、パイって食べるの難しいよね」
「そうなのよね。パイを上手に食べる方法ってないのかしら」
 少し小首を傾げてエメロードは言う。
 その仕草一つ一つが小動物のようで愛らしい。
 アルフォンスは、そんなエメロードをみてにっこりと笑い、エディと呼ばれた少年の頭を撫でた。
「そうそう。アル。私の事はエメロードさんなんて他人行儀ないい方しなくてもいいのよ」
「え?」
「私だって、アルって呼ばせてもらってるんだから。ねえ、貴方は私を何て呼びたい?ああ、エディは駄目よ。エディはエドガーの事だから」
 まるで謎賭けのように、エメロードは笑いながらそう言う。
「えーっと…それじゃあ」
 アルフォンスは考えながら、こう言った。
「エメロードの最初と最後を取ってエドって言うのは?」
 その答えに、エメロードは笑って。
「エド、ね。初めてよ。私の事をそんな風に呼ぶ人なんて」
「そうなの?何となく言いやすいかなって」
「ううん、構わないわ。嬉しい。これからはエドってちゃんと呼んでね」
 そう言いながらエメロードは笑った。





「まだ、見つからないのかね」
「はい……」
「鋼のは?」
「事件があった橋の下流の方を中心に探しています」
 それは、半月前の事だった。
 一人の国家錬金術師に下された任務。
 任務の内容は、極秘。
 誰一人としてその任務に関わった人間は口を開こうとはしなかった。
 そんな中、任務へと赴いた地方を襲った豪雨。
 一つの小さな橋が流された。
 橋が流されたのとおそらく同時だろう。
 その錬金術師は、行方不明となった。
 鉄の錬金術師と呼ばれる錬金術師。
 腕は確かな筈なのに、不意をつかれたのだろう。
 川に流され、行方不明となってしまったのだ。
 それを、軍部は今血眼になって探していた。
 本当ならば、管轄外の中央の軍部の人間がする仕事ではない。
 流された人間が悪かったのだ。
 その人間は一人で生きてはない。
 二人で、一つの、人間。
 片方が片方を失って生きていけるほど、強くはない人間。
 今、片方を失って今にも死んでしまいそうな人間がいる。
 昔、ロイはその人間に約束した。
 何があってもその幸せのために尽力すると。
 それが、ロイの中では「贖罪」の一つだ。
 いない片方。
 眠らない食べない泣かない、まるで何かを失ったかのような片方。
 二人一緒でなければ意味がない事を今更思い知らされる。
 そして。
 大切な娘のたった一人の人。
 ロイが動くにはそれだけの理由で十分だった。
「反対側は?」
「ハボック少佐たちから連絡はまだ」
「そうか」
「……鋼のはちゃんと眠っているか?」
「いえ……殆どの時間を捜索にあててます」
「……………」
 真っ青な空の下。
 金髪の少女の後ろにあった少年の姿はない。
「一体、どこにいったんだアルフォンス……」
 ロイはぽつりと呟いて空を見やった。





 どこにいるんだよ。
 帰ってこいよ。
 オレはここにいるから。
 ずっといるから。
 いつまでもいるから。
 お前を待ってるから。



 なあ、アル………






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